ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

フロイト『夢解釈』講義第1回、『夢解釈』序文を読む

講義の記録を残したい

数年前から関西学院大学文学部で行ってきた、フロイト『夢解釈』についての講義ですが、そろそろ何かまとまった文章にしたいなと思い始めています。もちろん研究論文も書きますし、あるいは『夢解釈』を軸としたフロイト入門書が書ければいいなとも考えています。

ひとまず自分がこの講義でどんなことを話しているのか、ここで整理しておこうと思い、一回ずつ14〜15回分の講義の要旨(講義ノートを毎回つくっていますが、一回10〜15ページくらいになるので全部を収録するわけにもいかないので)を掲載していきます。

 

第一回は『夢解釈』の紹介と序文

はじめに講義の目的、進め方、成績評価などについて話します。もちろんこれらの情報はシラバスにも掲載されていますが、最近の学生はシラバスなど全く読まずに教室に来るので、再度詳細にお話する必要があります。シラバスを読まないのは学生の怠慢というわけではありません。科目が前後期に分割され、シラバスがWeb化され、さらに授業内容や予習復習の項目、所要時間まで記載しなければならなくなったことで、一科目のシラバスの文字数は膨れ上がり、担当教員自身ですら読めなくなってしまったのだから仕方がありません。

さて、シラバス的な情報を伝えたら次に『夢解釈』とフロイトについて概要を話します。

 

フロイトの半生と『夢解釈』


フロイトが『夢解釈』を発表するまでの半生を簡単に紹介します。

1856年にオーストリア帝国のベーメン(現在のチェコ)に生まれたフロイトは、ウィーンで育ち、ウィーン大学医学部を出た後、研究所勤務やパリ留学を経て、ヒステリー治療などの実践を経験します。

最初の単著は1891年の『失語症の理解のために』でした。この本の中でフロイトは、当時のさまざまな学説を整理し、失語症、すなわち言葉が失われることとはどのように生じるのか、についての洞察をまとめました。この本は日本語訳でも難解で読みにくいのですが、フロイトが当初から言語が人間の脳/思考にどのように存在しているのか、どのように発現するのかという点に関心を持っていたということは非常に重要な意味を持っています。

次に1895年には先輩であるヨーゼフ・ブロイアーとの共著で『ヒステリー研究』を刊行しています。この本のなかでフロイトは、パリのシャルコーから学んだ催眠をもちいた治療から、自由連想法を作り出し、それによって患者の忘れていたトラウマ的記憶を浮かび上がらせることに成功しました。『ヒステリー研究』において特筆すべき点は、この本が心の病の原因をさぐるために、膨大でとりとめのない想起から病の原因となったであろう、思い出せないことや言えないことをすくい上げている点です。自ら思い出さないように忘れてしまった記憶が身体的な苦しみとして回帰するのがヒステリーの症状となるのです。

この本で展開された想起や忘却の問題もまた『夢解釈』の基盤となっています

1896年に父を亡くしたフロイトは、ある種の中年の危機的な状況に陥ります。フロイトの苦境を救ったのはベルリンにいた友フリースとの往復書簡であり、夢解釈を含む自己分析でした。自身のさまざまな夢の解釈は『夢解釈』へと集積されるわけですが、それは同時にフロイトにとって40代を過ぎて回顧された半自伝だったのです。

1899年(奥付は1900年)に『夢解釈』を刊行したフロイトは、その後、夢のテーマへの探求を続ける一方、『夢解釈』から派生したさまざまなテーマについても研究を進めました。代表的なものとして以下の著作を挙げることができます。

・「性欲論三篇」(1905)

・「W・イェンゼンの『グラディーヴァ』における錯誤と夢」(1907)

・「詩⼈と空想」(1908)

・「トーテムとタブー」(1913)

・「喪とメランコリー」(1917)

・『精神分析⼊⾨講義』(1917)

・「不気味なもの」(1919)

・「快原理の彼岸」(1920)

・「集団⼼理学と⾃⼰分析」(1921)

・「ある幻想の未来」(1927)

・『続精神分析⼊⾨講義』(1933)

・『⼈間モーゼと⼀神教』(1939)この年の 9 ⽉にロンドンで死去。

『夢解釈』からこれらの著作への連続性については、のちに詳しく説明します。

 

『夢解釈』序文をドイツ語で読む

ではいよいよ序文を見てみましょう。最初にエピグラフがあります。

Flectere si nequeo superos, Acheronta movebo

もし神々を変えることができないのならば、冥界を動かそう。

これはウェルギリウスの『アエネーイス』からの引用です。

この⽂章は、アエネーアースを妨害しようとした⼥神ユノーが、みずからの計画がことごとく失敗したのちに吐くセリフです。冥界を動かす、とはユノーの企みによってアエネーアースと結婚することになったディドーが⾃殺したため、捨てられた花嫁の恨み、すなわち復讐の⼥神アーレークトーの⼒を借りよう、という意味です。この引⽤⽂は興味深いことに、『夢解釈』本⽂中に再度登場しています。フロイトはどのような意図をもってこの⽂を引⽤したのでしょうか。これについては、再度引用された箇所で考えてみましょう。

ここからが本文です。いくつかの部分に分けて、ドイツ語の文と日本語訳(イタリック)に、私の説明を加えておきます。

Vorbemerkungen (zur ersten Auflage) まえがき(初版のための)

Indem ich hier die Darstellung der Traumdeutung versuche, glaube ich den Umkreis neuropathologischer Interessen nicht überschritten zu haben. Denn der Traum erweist sich bei der psychologischen Prüfung als das erste Glied in der Reihe abnormer psychischer Gebilde, von deren weiteren Gliedern die hysterische Phobie, die Zwangs- und die Wahnvorstellung den Arzt aus praktischen Gründen beschäftigen müssen.

私はこの本で夢解釈についての叙述を試みるが、そのことによって神経病理学的な関⼼の範囲を逸脱することはなかったと信じている。というのも夢は、⼼理学的な検証において、⼀連の不正常な⼼的な形成物のなかで、第⼀のものとして証明されるものであり、さらなる形成物である、ヒステリー性恐怖症、強迫表象、妄想的表象などは、医師たちによって、実⽣活上の理由から治療されなければならないものだからである。

一文目で言われているのは、この夢の研究は、神経病理学的な関心から始まっているのだということです。すなわちけっして夢占いなどではなく、ヒステリーや強迫神経症治療の実践から出てきた研究課題なのだと。

そして「一連の不正常な心的形生物の第一のもの」、すなわち心から生成した夢こそは、ヒステリー性恐怖症や強迫表象、妄想表象など日常生活に支障をもたらすような症状へと繋がりうるものとして重要なのだと言っているわけです。

Auf eine ähnliche praktische Bedeutung kann der Traum ‒ wie sich zeigen wird--Anspruch nicht erheben; um so größer ist aber sein theoretischer Wert als Paradigma, und wer sich die Entstehung der Traumbilder nicht zu erklären weiß, wird sich auch um das Verständnis der Phobien, Zwangs- und Wahnideen, eventuell um deren therapeutische Beeinflussung, vergeblich bemühen.

夢は似たような実⽣活上の意味について̶̶-- 後に⽰されるように̶̶ 要求を申し立てることはできない。しかしそれだけいっそうパラダイムとしての夢の理論的価値は⼤きいし、夢の像の成⽴について⾃分で説明するすべを知らぬ者は、恐怖症や強迫表象、妄想表象などを理解しようと努めたり、あるいはその治療への影響を及ぼそうと頑張っても無駄に終わるのである。

最初の文がちょっとわかりにくいですね。「似たような実生活上の意味」とは、すぐ前の文の「実生活上の理由」とつながっているのでしょう。夢自体が、さまざまな精神のトラブルを直接示すことはないが、それだけいっそう夢の意味を探ることは重要であるし、価値を持つと思われるのでしょう。しかし夢の読み方を知らなければそのような探求は無駄骨に終わるわけです。

Derselbe Zusammenhang aber, dem unser Thema seine Wichtigkeit verdankt, ist auch für die Mängel der vorliegenden Arbeit verantwortlich zu machen. Die Bruchflächen, welche man in dieser Darstellung so reichlich finden wird, entsprechen ebenso vielen Kontaktstellen, an denen das Problem der Traumbildung in umfassendere Probleme der Psychopathologie eingreift, die hier nicht behandelt werden konnten und denen, wenn Zeit und Kraft ausreichen und weiteres Material sich einstellt, spätere Bearbeitungen gewidmet werden sollen.

こうした連関によってしかし、われわれのテーマは重要性を帯びる。また本書の⽋陥もまた同じ連関のために⽣じる。本書の叙述に多く⾒出されるであろう破断⾯は、多くの接触箇所と⼀致している。その接触箇所において夢形成という問題が、精神病理学が含んでいる諸問題とかみ合っている。それらの問題はここでは扱われることはないが、時間と⼒量が⼗分にあれば、そしてさらなる素材が⽤意できれば、のちの改訂はこの問題にあてられることになろう。

夢はヒステリーなどの症状と関係を持つが、夢から直接的に症状を判断することはできない。そのような連関があることで、夢解釈は重要なテーマと言えるのです。そしてフロイトはそこにこそ欠陥があるといいます。「破断面」が多くの接触箇所と一致している、というのはわかりにくい表現ですが、すなわち夢解釈はいろいろな分野の知へと役立てられるような、大樹をイメージさせるような広がりがあるのだけど、その枝葉への経路はまだ見えていないし、破断面でしかないかもしれない、そしてそれは今後時間が経てばより大きな広がりにつながるはずだと言っているのでしょう

Eigentümlichkeiten des Materials, an dem ich die Traumdeutung erläutere, haben mir auch diese Veröffentlichung schwer gemacht. Es wird sich aus der Arbeit selbst ergeben, warum alle in der Literatur erz.hlten oder von Unbekannten zu sammelnden Träume für meine Zwecke unbrauchbar sein mußten; ich hatte nur die Wahl zwischen den eigenen Träumen und denen meiner in psychoanalytischer Behandlung stehenden Patienten.

私が夢解釈を説明する際の素材の独⾃性によって、この本を公表することは私にとって困難なものとなった。なぜ⽂献で語られている夢や⾒知らぬ⼈から集められた夢が、私の⽬的にとって使いものにならなかったのかは、作業の中でおのずと明らかになっていく。すなわち私には⾃分⾃⾝の夢と私の精神分析治療を受けている患者たちの夢を⽤いるという選択しかなかったのだ。

ここからは分析の対象となる夢をどうやって集めたのかが話題となります。

フロイトは文献や見知らぬ人の語った夢ではなく、自分自身の夢や分析治療を受けている患者の夢でないと素材にならなかったし、そのためこの本の公表は困難になったと語っています。なぜ本に出てくる夢や、誰かしらない人の夢では分析の素材にならないのでしょうか。その理由はまえがきでは明らかにされません。しかし、ここには『夢解釈』における最重要な点が隠されています。

フロイトは、たとえば私たちが、「昨日車に轢かれる夢を見てびっくりしたよ」と話したさいに、その語られた内容だけを夢として見てはいないのです。そのような夢に関連するさまざまな状況(前日の出来事、考えていたこと、取り組んでいた仕事)や、その人の記憶や体験などの回想を積み重ねて、なぜこのような夢が生じたのか、その文脈を探る、というのが夢解釈の方法論です。だからこそ、本に書かれた夢や、誰かが自分の覚えているエピソードだけを語った夢の話では、夢解釈の素材にならないわけです。

Die Verwendung des letzteren Materials wurde mir durch den Umstand verwehrt, da. hier die Traumvorgänge einer unerwünschten Komplikation durch die Einmengung neurotischer Charaktere unterlagen. Mit der Mitteilung meiner eigenen Träume aber erwies sich als untrennbar verbunden, daß ich von den Intimitäten meines psychischen Lebens fremden Einblicken mehr eröffnete, als mir lieb sein konnte und als sonst einem Autor, der nicht Poet, sondern Naturforscher ist, zur Aufgabe fällt.

後者(患者たち)の素材を使うことは、そこでは夢の過程が神経症的な性質の混在によって予期せぬ複雑化の影響を受けるという事情のために、阻まれた。しかし私⾃⾝の夢を報告することは、私の⼼的⽣活において内密な事柄を、⾃分にとって好ましいと思う以上に、詩⼈ではなく、⾃然科学者である著者に課される以上に、⼀⽬にさらすことと不可分であることがわかった。

患者たちから聞き取った夢の素材であっても、そこには神経症からの影響があるため、収録することが難しいものもあったので、基本的にフロイトはたくさんの自分の夢を使うことになります。しかしそうやって自分の夢を素材にすることは、自分の内密な心的生活をあらわにすることにほかならないし、それは詩人ではなく科学者であるフロイトにとっては好ましいことではないけど、仕方がないことなのだと言っているのでしょう。

Das war peinlich, aber unvermeidlich; ich habe mich also darein gefügt, um nicht auf die Beweisführung für meine psychologischen Ergebnisse überhaupt verzichten zu müssen. Natürlich habe ich doch der Versuchung nicht widerstehen können, durch Auslassungen und Ersetzungen manchen Indiskretionen die Spitze abzubrechen; sooft dies geschah, gereichte es dem Werte der von mir verwendeten Beispiele zum entschiedensten Nachteile. Ich kann nur die Erwartung aussprechen, daß die Leser dieser Arbeit sich in meine schwierige Lage versetzen werden, um Nachsicht mit mir zu üben, und ferner, daß alle Personen, die sich in den mitgeteilten Träumen irgendwie betroffen finden, wenigstens dem Traumleben Gedankenfreiheit nicht werden versagen wollen.

このことは耐え難いが、しかし避けられないものである。すなわち私は、私の心理学的な成果の立証をすべて放棄せざるをえないため、このことに順応するほかなかった。もちろん私は、省略や置き換えによって、多くの無遠慮なことがらについてその尖った部分を折り取ることの誘惑に抗うことはできなかった。ところがそうするたびに、私の用いた事例の価値に、決定的な不利益をもたらしてしまった。私は、本書の読者のみなさんに私の困難な立場に身を置き換え、私を大目に見てもらえるように期待のみを述べたい。そしてさらには、ここで報告された夢に何かしら動揺するようなすべての方々には、少なくとも夢の生活には、思想の自由を拒まないでいただきたいと望むばかりである。

そんなふうに自己の秘密を明らかにすることはもちろん耐え難いけど、心理学的な成果を立証するためには受け入れないわけにはいかないというわけです。そして夢に現れるさまざまな秘密や個人情報については、省略したり置き換えたりを試みたけど、それをやってしまうと、夢の事例の価値は減ってしまうのだとフロイトはいいます。もちろん心的生活の秘密を明らかにすることが夢解釈の目的なのですから、現れてきた秘密を隠してしまっては意味がないということにもなりかねないからです。だから、本書を読む人々には、自分のあからさまな自己開示を許してほしい、私だって好きでやってるわけじゃないんだから、というのが最後の部分の主意でしょう

 

「まえがき」のまとめ

このように、部分にわけて詳しく読み進めてみると、フロイトが『夢解釈』冒頭で何を言おうとしていたのかよく見えてきます。先ほどの解説の繰り返しになりますが、あらためて「まえがき」で言われていることをまとめるとこうなります。

  • 本書で展開される夢解釈は、たんに夢をあれこれ論じるというものではなく、神経症的なさまざまな探求と密接な関係を持っている。つまり、フロイトにとっては、それまでに研究していたヒステリーや強迫神経症患者における心的生活がどうなっているのかという問題意識と連続性を持っているということである。夢解釈はもちろんフロイトにとって、急に思いついた研究テーマではない。
  • しかし夢の内容から、患者の症状へとどのような影響があるかは、また別の問題として扱いたい。中には神経症患者の夢も含まれており、夢に症状の影響を見ることはできるが、逆に夢の方から症状を論じることは難しいということか。
  • 夢解釈の素材として使用できる夢は、文献にまとめられたものや他者によって語られたものではなく、自分自身が見た夢や患者の夢だけだった。→このことは、フロイトが実際に身近な患者や自分自身の夢の事例を提示する際にあきらかになる。すなわち夜に見た夢の話だけでなく、その前に起きていたことや気になっていたこと、そして夢を見たあとに抱いた感情や蘇ってきた記憶などもまた解釈をする上で不可欠だからである。
  • 患者の夢のなかでも、神経症の症状に影響された夢はより複雑なのでここではとりあげなかった。→これは2番めの箇所と同じことを言っていると考えられる。
  • そのため主にフロイトは自分自身の夢を探究の素材とせざるをえなかったが、これは詩人でなく自然科学者である著者にとって、苦しい自己顕示であった。→しかしなぜフロイトはわざわざ何度も断りながら、自分自身の見せたくない気恥ずかしい夢を一般に公開したのか? そもそも夢には日中の自分からしたら恥ずかしくて仕方がないことや、できるだけ隠しておきたい欲望があらわれるものである、というのがフロイトの基本的なスタンスであるからだ。
  • とりあげた夢は、人目に晒すためにしかたなく省略や置き換えを行ったが、それによって価値が損なわれることも多かった。→ここでいう省略や置き換えは、患者や身近な人のプライバシーに関わる部分などを意味している。先にも述べたように、夢が恥ずかしいものであるというのは当然の前提なので、人目に晒したくない恥ずかしい願望を覆い隠すようなことはできる限り避けたと考えられる。
  • 自分の見た夢を人にあからさまに開示するという苦しい仕事をしている自分の立場に理解を求めたい。夢に見ていることは恥ずかしいことや不道徳なことばかりであるが、夢のなかでは思想の自由を許してもらいたい。

私の経験的な持論ですが、難解な本を読むためには、全体を通読するのではなく、一部分をじっくり読む、とくに序文をじっくり読むことで逆に書物の全体像や作者の意図の一端を掴むことができます。分厚くて難しい本を通読するのは骨が折れますが、このように少しずつ読むことも理解するための有効な方法なのです。

 

このあと講義では、「イルマの注射の夢」をめぐる解釈の概要を説明し、フロイトの夢解釈が、夢占いや夢の類型的な整理とは全く違うものであることを簡単に解説しますが、今回は省略します。

以上のように、大学でじっさいにやっている講義をブログで紹介してみましたが、思いの外文章が長くなってしまい驚いています。100分授業(関西学院大学の場合)なので、これでも時間内にぜんぜん収まる分量ですが、ブログで読むにはやや冗長かもしれません。

これからの講義の進行予定はこんな感じになります。

第二回 フロイトの生誕から研究者になるまで 時代背景、学問・思想的背景の解説

第三回 フロイト最初の著書『失語症の理解のために』

第四回 フロイトとブロイアーの『ヒステリー研究』(1)

第五回 『ヒステリー研究』(2)

第六回 「度忘れの心的規制について」と『夢解釈』の成立ごろの状況

第七回〜『夢解釈』を読む

フロイトの半生記として『夢解釈』を読むことが目的なので、どうしても『夢解釈』以前の著作についての言及、解説が長くなってしまいますがしかたがありません。

第二回以降の講義も、今後時間を見つけてブログに書いていきます。

とっても軽量! Lifebook WU2/Jの使用感

Macは重い

研究生活を初めた2000年から、ずっとMacを使ってきました。

初めてのパソコンとして1999年の卒論執筆時に、iMac98年モデルを新古品で買い、その後杏仁豆腐みたいなiBookも使っていました。

だいぶ前に、どの論文をどのパソコンで書いていたのかをまとめていました。↓

schlossbaerental.hatenablog.com

2003年から2008年くらいまでソニーのバイオを使っていた時期もありましたが、美術系の大学で働き始めたことをきっかけにMacに戻りました。

VAIOの思い出をまとめていました。↓

schlossbaerental.hatenablog.com

20年前から気づいていたことですが、アップル製品に軽量性を求めるのは間違いです。だいぶ軽くなったとはいえMacBookAirは1.2kgもあるし、iPad Air 11インチも500g近くあります。

月曜日は非常勤で2コマ授業があるので、一日外出しています。毎週授業用のiPadと、仕事用のMacを両方持ち歩いています。さいわい車通勤できる大学なので、荷物は車で運びますが、それでもカバンは重く、肩が抜けそうになります

出張の時にもノートPCとタブレットは両方持ち歩くことがあります。また最近は動画を撮るのでカメラや機材を持ち歩くこともあります。そう考えるとMacbookではないPCを使うのも一つの方法ではないかと思えてきました

ちょうどガジェット系ユーチューバーのどりきんさんが、日本に一時帰国した際に富士通の世界最軽量PCを購入された動画を見ていたので、富士通にしようかなと考え始めました。

youtu.be

 

最軽量モデルが売ってない

どりきんさんは実店舗で購入されたとのことでしたが、梅田のヨドバシには実機が展示されていませんでした。一度くらい600g台の軽量さとキーボードや本体全体の剛性を確認したいと思っていたのですが、もう少し重い800~900gの機種しか触ることはできませんでした。しかしそれでも普段持ち歩いているMacbookAirの金属の塊感に比べればはるかに軽いことがわかりました

www.fmv.com

これが最軽量のWU5/J3モデル。なかなか売ってないし、直販サイトから注文してもけっこう時間がかかります。

最軽量モデルは割高だが、二番目のランクならけっこう安い

当初はどりきんさんと同様、最軽量のWU5/J3モデルから選ぶつもりでしたが、やはり最軽量だしCPUも新しいので他のモデルより割高だと気づきました。私はちょっと出先で仕事する程度の用途しか想定していなかったのでメモリ16GB、SSD256~512程度で十分だったのですが、私の予算では最低限の構成(8GB、256GB)しか買えそうにないのであきらめました。

ふだんMacを使っている私にとって、ウィンドウズ機の選択肢の多さにはいつもうんざりしてしまいますが、富士通のサイトやアマゾンの商品ページを比較して、値段と重さを考えたら738gのWU2/Jがちょうどいいことがわかりました

www.fmworld.net

 

びっくりする軽さ、723g!

14インチのモニタなので狭さは感じません。


注文したところすぐに届いたので先月末頃から使い始めました。

MacBookの約半分近い重量で、最初は模型かと思うほど軽く感じました

メーカー公式サイトでは738gと書いてありましたが、家で測ってみたところ実測で723gでした。

たしかに最軽量モデルの639gより100g近く重たいけど、MacBookに比べればおもちゃみたいな軽さです。

また、723gということはiPad Proに純正キーボードをつけたより軽いです。

授業で使用しているiPadもiPad Pro(444g)からiPad mini(293g)に変更すれば、さらに150gくらい軽量化して、合計で1000gちょっとに収まります。MacBook Airよりも軽くなります。

組み合わせを比較するとかなりの差になることが分かります。

iPad Pro+MacBook Air=1644g

iPad mini + Lifebook WU2/J= 1016g

ペットボトルの麦茶くらいの差ができることになります。

 

Macとの互換性への不安はおおむね問題なし

GoogleやiCloudで同期作業をして使っていますが、今のところ処理速度などは不自由を感じません。SSD容量も256GBしかありませんが、Lightroomによる写真の現像作業などはしないのでおそらく不足はないでしょう。(もし不足であればDIYでSSDの換装はできるそうです。そのうちやります)。

Macを使っているとWindowsとの互換性が心配と私も思っていましたが、MacにあってWindowsにないものとして気になるのはAirDropくらいです。

仕事で使うファイル類はMicrosoft365でOneDriveに保存すればいいし、あまり困ることはありません。

軽量ということは剛性が足りないのかもしれないという不安がありましたが、タイピングしてみても筐体がたわむような感じはまったくないし、驚くほど使いやすいです。

ひらがなが入っていないのですっきりした印象のキーボードです。MacBookと同じ正方形のキーもいいですね。

MacBookのアルミ製の筐体になれているとLifebookはなんだかプラモデルみたいで壊れそうな感じがしますが、少なくとも私は満員電車でもみくちゃにされるような機会はほぼないので、壊れることはなさそうです。

それから、地味に感動したのが、研究仲間や学部の事務室から送られてくるファイルがMacと違って文字化けすることがないという点です。学部事務から来るファイルはたいていファイル名が文字化けしており何のことか分からない場合が多く、もはや推測で返信することが当然のようになっていたので、これは非常に便利だと思いました。

 

いくつかのデメリット

Lifebook導入のメリットはこれまで書いてきたとおりです。いっぽうでいくつかデメリットも当然あるのでそれらを以下にまとめます。

1)Airdropがない

ファイルをちょっと送りたいとか、写真を取ってPCで加工してSNSにうpしたいときとかどうすればいいのでしょう。何か代替手段があればいいのですが。

2)ドイツ語入力がちょっと不便

Wordの場合であればアルファベット入力にしてショートカットでドイツ語の文字を出すことができます。しかし、他のアプリではドイツ語キーボードに切り替えないといけません。ドイツ語で論文やメールを書くという人ならべつに困らないのでしょうが、私は日常的に日本語・ドイツ語まじりの文章を書くことが多いので、やや不便です。

具体的には、たとえばグーグルクラスルームで授業後の問題を作るときなどです。Wordを立ち上げるのもめんどうだし、できたらショートカットでドイツ語まじりの日本語をかければ良いのですが。

3)低電圧の充電器やモバイルバッテリーから給電できない

これはまったく事前に予想していなかった不便な点でした。バッテリーの減りが早いし、それは軽量性と引き換えなので受け入れていたのですが、充電はどこでもなんでもできるわけではないというのがちょっと不便です。MacBookやiPadは、ふだん自宅の4ポートくらいある充電器につないでいましたが、Lifebookはある程度電圧のある充電器やモバイルバッテリーでないと給電できません。手持ちのバッテリーや充電器を見直そうかと思っています。

 

とはいえおおむね満足

いくつか予想された、そして予想外のデメリットもありましたが、とりあえず出先でメールを書いたり、原稿の手直しをしたり、ウェブサイトを見たりといった用途にはまったく不便を感じることはないし、やはり買ってよかったと思っております。

しばらく使ってみてもう少し慣れたら、長期レビューをまた書こうと思います。

 

 

 

 

青島アジアゲルマニスト会議に参加してきた

 

アジアゲルマニスト会議に参加した

8月25日から29日まで、アジアゲルマニスト会議に参加するため、中国の青島に滞在していました。今回は、どういう経緯でこの学会で発表することになったのか、中国旅行の準備、そして当日の発表や中国滞在時の様子などをまとめていきます。

初日に参加者全員で集合写真を撮りました。(私は最後列でちょうど「学学」の下あたりにいます)

けっこう長くなってしまったので、目次をつけました。動画を見ると手っ取り早く中国の雰囲気がわかるかと思います。

AGTとは

アジアゲルマニスト会議というのは、30年くらい前に始まった、日中韓のゲルマニスト(ドイツ語学・文学・語学教育の研究者)が集まって研究発表をする学会です。3年に一度の周期で開催されていましたが、2019年の札幌を最後にコロナ禍で延期が続き、今年5年ぶりの開催となったのでした。

私は前回の札幌大会に発表者ではなく、来聴者として参加し(そういう人は出版社の方を除いてほとんどいなかったようでした)、とても有意義な学会だしぜひ次は発表しようと決めたのでした。

 

英語じゃなくてドイツ語で発表してみたい

語学学校以外の留学経験がない私は、これまでドイツ語による研究発表をしたことがありませんでした。教員公募のときも、某大学の面接では、なぜドイツ語による業績がないのですか?と聞かれ、「ないものはないんだからしょうがねーだろ」と思いながら、何も言い返せず苦しい思いをしたものでした

その後知り合いからの誘いや、自分で申し込んだりで、英語による発表は何回か経験しましたが、そもそも専門ではない英語では、文章を書くことも質疑応答することもとてもたいへんでした。せめてドイツ語ならもうちょっとちゃんとできるのに、と思うことが何度もありました。やはり私はドイツ文学研究者なので、ドイツ語で原稿を書いて、ドイツ語で議論をする場に参加したいと、去年の春に英語の発表をしたときに強く思ったのでした。

schlossbaerental.hatenablog.com

↑5年前の英語での学会発表。英語は苦労しましたが、すごく楽しかったです。

 

何について発表するか?

今年の初め頃に、日本独文学会のホームページに、アジアゲルマニスト会議の発表者募集のお知らせが掲示され、私もさっそく発表のアイディアを練り始めました。

大会全体のテーマが、Technik- Gesellschaft- Kultur 技術・社会・文化ということで、自分の関心を持っている領域で、何かしら技術っぽいことや現代社会の問題などと関連付けられそうなことを探しました。

私の大きな関心としては、「記憶」というテーマがありました。(じつは卒業論文のころから継続している問題意識でした)。人間の記憶を近代の知識人はどのように考えていたのか?記憶と夢や無意識の関係、そして人間の死後に記憶はどうなると考えられていたのか、そういったことは今参加している科研グループのテーマでもありました。

そこで、自分の持ちネタである、フロイトの『夢解釈』、カール・デュ・プレルの心霊主義的な人間の魂についての見解、そしてベンヤミンにおける記憶をめぐる思考などを、昨今のAI技術に関連づけて論じるという方針を固め、発表の要旨を書きました。

 

中国渡航の準備

中国に渡航するにはビザが必要です。これが中国行きの大きな障壁でした。

しかし、それ以前に大きな問題は、私のパスポートがコロナ禍の間(2020年末)に失効していたということでした。5月に本籍がある仙台市から戸籍を取り寄せ、大阪城近くのパスポートセンターに発行の申請をして、5月末頃に新しいパスポートを入手しました。これだけでもひと仕事でしたが、渡航準備の入口に立っただけにすぎません。

今回は学会発表への参加が目的なので、学会事務局に招待状を発行してもらい、さらにホテルの予約表、航空機の発券控えなどとともに、ウェブで入力したビザ発行申込書を持参して、心斎橋の中国ビザセンターに行きました。ビザ取得に係る手続きで、一番大変だったのが、申込書のウェブ入力でした。自分の妻や親の生年月日や現住所、上司についての情報(学部長の名前を書きました)など、事細かくあれこれ聞かれるのでほんとうにうんざりしました。

なにより腹立たしかったのは、家族についての項目で、いない場合は「該当なし」を選択するのですが、理由を書かされたことです。父は6年前に他界しているので該当なしを選択し、理由は「死別」と記入しました。また子供についても「該当なし」を選択しましたが、これまた理由を問われましたが、日本語では入力できず、漢字または英語でないといけないみたいなので、「We have no child」と記入しました。

ビザセンターでは小一時間待たされましたが、書類を提出してしまえばあとはスムーズにビザを取得することができました。

 

不安を抱きながら中国に到着

こうして渡航の準備をちゃくちゃくと進めていましたが、学会側からの連絡はほとんどありませんでした。プログラムも通知されていないので、自分がいつどのくらいの時間で発表するのかすら分かっていませんでした。ようやく3日前ごろに、iPadのChromeでならプログラムがダウンロードできると気づいたので、自分がいつ発表するのかが分かりました。

直前まであまり情報が公開されないのでほんとうにこれで中国に行けるのかと少し心配でしたが、前日に学会事務局から、当日に学生が空港に迎えに来るとの連絡がありました(到着便の時間によっては学生による送迎がなかった人もけっこういました)。このメールを見て、安心して青島に向かうことができました。

動画:青島に行ってみた

youtu.be

動画でも車窓の風景を撮っていますが、空港からホテルまでの高速道路の風景は、日本とだいぶ違って、むしろヨーロッパのように広々としていました。驚いたのは、電気自動車の普及率です。真新しい電気自動車と、マッドマックスに出てくるようなボロボロのトラックなどが並走する様子はなんだか奇妙に感じられました。

 

中国の異世界っぽさ

一日目は学会参加者の皆さんとホテルのディナーバイキングを食べたのですが、テーブルに集った日本、ドイツ、インドネシアなどからの参加者と話題になったのは、中国で独自に発達している電子決済文化への驚きでした。ほぼすべての支払はAlipayやWeChatPayなど電子決済アプリを使用します(使ってみて分かりましたが、PayPayに近い仕組みです)。現金やクレジットカードは使えないことが多いです。最初にホテルで宿泊料金を支払いましたが、一枚目に出したVISAカードは拒否され、二枚目に使った別のカードではうまくいきました。

市内を散策すると、どの商店や飲食店、そして小さな露店にまで、電子決済用のQRコードが掲げられています。

海鮮串焼きの屋台。店主のとなりにQRが見えます。

海岸近くにあった、かわいらしい商店

ここにもやはり2種類のアプリ用のQRが見えます。

色とりどりなビール屋さん(ジュース割りなどいろいろなフレーバーがあるようです)にも、AlipayとWeChatPayのQRがあります。

そして、だれもがスマホを駆使して電子決済をするためには、当然バッテリーが必要です。市内のいろいろなお店には、レンタル用のモバイルバッテリーが置いてありました。

揚げパンを売る露店の傍らに2つの機械がありました。これがモバイルバッテリーです。

どういう仕組で充電器を借りるのかよくわからなかったのですが、こちらのページに詳しい解説がありました。

note.com

いっぽうで、中国ではホテルの無線LANなどでネットに接続しても、Googleやフェイスブック、Xなどのサービスはいっさい使えません。中国語でわからないところがあるからと、気軽にGoogle検索するなんてことはできません。地図を調べるときもGoogleマップではほとんど情報が出てきません。

仕方がないので私は事前に購入したeSIMカードをスマホに入れて、パソコンを使うときもすべて自分のiPhoneからテザリングで使用しました。この方法ならGoogleやXは問題なく使えるのですが、なぜかChatGPTだけはまったく使えませんでした(自分の発表のために質疑応答のサンプル文を作ってもらおうと思っていたのにできませんでした)。

私はこういう中国独自の事情をある程度予習してきたので、スマホにeSimを入れ、AlipayやWeChatPay、そして地図アプリの百度地図も入れてきました。しかしこれらの中国アプリは通知や説明がほぼ中国語でしか表示されないので、うまく使えなくても何が問題なのかさっぱりわからず、結局あまり使いこなすことはできませんでした。

今回の学会のテーマが、技術となっているので私もAIの話しを少ししましたが、日本など西側諸国と大きくことなる、いわば〈デジタル鎖国〉あるいは〈デジタル異世界〉のような中国の状況を見ると、学会で議論しようにも前提が違いすぎるのではないかと心配になりました。

動画:夜の青島ビーチを散歩

真っ暗な夜の海水浴場にたくさん人が集まっている様子はなんとも言えない異世界感がありました。

youtu.be

やたら豪華な発表会場

学会発表や講演、討論等はすべて宿泊しているホテルの中で行われていました。食事も朝昼晩すべてホテルで食べます。そのため私は4日間散歩と夜のビール屋さん以外まったく外出しなかったし、ほぼお金も使いませんでした。

初日は、日中韓、そしてドイツの先生方による講演を聞きました。

日本独文学会会長で九州大学教授小黒康正先生の講演です。トーマス・マン『魔の山』について、NHK一〇〇分で名著へのご出演についても言及されていました。

一日目の夜は講演会が行われた大広間で、青島ビールとともにディナーをいただきました。

カフェパウゼの時間に食べたケーキとフルーツです。ケーキの表面に学会のロゴがプリントしてありました。

ホテルに泊まった4日間、三食ともホテル内で中華バイキングを食べました。おいしくて満足できました。



二日目は自分の発表

最初に書いたように、自分の持ち時間がどのくらいなのかも知らないまま原稿を用意していたので、会場で詳細なプログラムをもらってから、ホテルの部屋で原稿の手直しをしました。

しかし、プログラムをもらって学会初日が始まってもなお、自分がどういう部屋で発表をすることになるのか詳しいことは分かっていませんでした。

それで、私が発表する分科会の会場がこちらです。一日目に使った大きな部屋を半分に区切った大きさの部屋です。それでもかなり広いし、何よりモニタがでかいです。

こんな具合に名札と水と筆記用具が用意されていました。私は最近どこの学会でもやってるように、グッドノートとWordで発表するつもりでしたが、会場に着いてやっと、PPTじゃないとダメらしいとわかりました。

お昼休みを早めに切り上げて、なんとか引用と見出しばかりのスライドを仕上げ、自分の発表をしました。

フロイト『夢解釈』に出てくる、叔父と友人の顔が重なって現れてくる夢の話をしています。

質疑応答では、「この人のドイツ語わかりにくいし、できたら手を上げて欲しくないな」と思っていた二人の先生たちに質問を受け、席と演壇が離れていたこともあってあまり聞き取れず、なんかむりやりな回答をしてお茶を濁しました。ちょっと残念だったので、次はもう少ししっかり議論ができるようにしたいと思いました。

 

打ち上げにビールを飲む

三日目の終わりには、発表した他の日本人とともにビールを飲みに行きました。

海水浴場の近くに、飲食店が集まったビルがあり、その中にビールの量り売りスタンドがありました。

500mlのカップで18から25人民元(400〜600円くらい)と手頃な値段でしたが、美味しいビールが飲めました。ただ、ホテルでも外のビール屋さんでも、あまりキンキンに冷えてなくて、日本のように冷たいビールは好きじゃないのかなと思いました。

四日目は歴史地区を散策

動画:四日目朝の散歩

youtu.be

とても天気がいい朝だったので、ホテルの前の海岸を散歩しました。

四日目は午前中に若手研究者によるディスカッションがありました。

みなさん私より若い人ばかりでしょうが、すごく優秀な方ばかりで、勉強になりました。

 

お昼を食べた後、バスに乗って青島のドイツ帝国時代に作られた町並みを見学しました。

動画:青島歴史地区を歩く

youtu.be

夕方のエクスカージョンがとても暑かったので、夜はふたたびビールを飲みに出かけました。現地の人がしているように、ビニール袋でビールをテイクアウトしてストローで飲んでみると、思ったよりも違和感なく飲めました。アイスコーヒーよりもはるかに紙ストローとの相性がいいのではないかとすら思いました。

五日目はホテルを出て、夕方のフライトまで一人で街歩きを楽しみ動画をたくさん撮るのだと思っていたのですが、夜中に私が乗る飛行機が欠航するとのメールが届き、予定がすべて変更になりました。



やっとの思いで青島を脱出する

朝食会場にいた他大学の先生から、阪大院を修了後青島で働いている日本語のできる方(王さん)を紹介してもらい、彼の手助けによって何とか代わりの航空券を入手しました。もともとは関空への直通便を買っていましたが、もう関西行きのチケットはなかったので、仁川を経由し、成田へ向かうルートとなりました。時間がなかったので夜逃げのようにホテルをチェックアウトし、タクシーで空港に向かいました。

いちばんたいへんだったのが、このタクシーでした。300元かかることは事前に分かっていたので、すぐにアプリで決済しようとしましたが、なぜかエラーが出てしまい払えません。Alipayもwechat payも同様にダメです。当然クレジットカード払いもできないし、人民元はそもそも両替していませんでした。一万円を渡そうとしましたが、運転手さんに受け取りを拒否されてしまいました。空港まであと半分くらいのところで、車を止められてしまい、運転手さんはぶち切れてわいわい騒いでいます。これはまずいと思っていたところで、王さんの電話番号をもらっていたことを思い出し、彼の助けで何とかタクシー運賃を支払うことができました。ネットの情報を鵜呑みにして現金をまったく持っていなかったのが一番の失敗でした。いざというときのためにある程度の人民元は両替しておくべきでした。

 

青島空港でチェックインすると、今度は仁川の乗り換えはとても時間がかかるので、とにかく急いで移動しろと何度も念を押されました。それで青島からの飛行機では、なかば中腰でいつでも走り出せるような気持ちで過ごしました。仁川について、大急ぎでターミナル間を移動し、成田行きの搭乗口にたどり着くと、予定よりも一時間くらい早かったことがわかりました。ここでようやく一息ついて空港のコンビニでお昼を買って食べました。Apple Payが使えることや、空港のWi-FiでGoogleもXも使えることに感動しました。

 

成田空港についたのは、夜の8時頃でした。暑いけど湿度の低かった青島と違って、むわっとする湿気と雨で、日本に戻ってきたのだと実感しました。

韓国から予約した東横インにバスで移動し、一泊しました。このホテルは安い割にとても静かで快適でした。何かあったらまた利用したいと思いました。

翌朝ホテルの朝食を食べ、成田空港第三ターミナルからジェットスター航空で関空に戻りました。台風が近づいているとはいえ、天気は良く、いったい昨日の騒ぎはなんだったのかとバカバカしく思えました。

お昼過ぎに自宅に戻り、ブルーちゃんをひざのうえに乗せると、やっと日常に戻ってきたことを実感できました。

動画:青島からの帰国

youtu.be

中国って思ったより普通の国だし、また旅行に行きたい

行くまでの手続きの煩雑さや、日本に入ってくる情報から、どうしても中国にたいしてネガティブな感情を抱いてしまいがちでしたが、じっさい行ってみると、日本と同じアジアなので共通する部分(安心して食べられる食事、トイレが多いしタダ)などがあって、言葉で苦労する面はあったけれど、思ったより旅行はしやすいと感じました。

今回は学会会場に缶詰めで、ほとんど市内を歩く機会がなかったのですが、いつかまた青島でも、ほかの街でも中国を旅行したいと強く思いました。

それから、アジアゲルマニスト会議は次も必ず参加します。次は韓国で三年後ですから、いまからネタを用意しておこうと思います。

 

インタビュー動画を撮りたい

2年ぶりに川村さんと対談

先日慶応義塾大学日吉キャンパスで行われた日本独文学会のあと、以前からの仲間であり、最近はYouTuber教員としても活躍されている岩手大学の川村和宏さんと対談の動画を撮影しました。

動画の冒頭に、学会一日目にvlogふうに自撮りしながら会場が分からなくて迷っている様子を入れています。

前回のコラボ動画では、YouTube動画とドイツ語教育への利用について意見交換をしたのですが、今回はもうちょっと違うテーマで話そうかなと思っていました。

このブログにせよ、私のTwitter(現X)にせよ、ドイツ語を学習している人よりもおそらく大学教員をされている同業者の方々に見てもらっているように思っていたので、インタビュー動画も同業者向けの話をしてみようと考えたのでした。

ドイツ語の先生って、この先生きのこれるの?

というテーマで最近のお仕事のことなどを話してもらいました。

動画撮影は楽しくできたのですが、あまりに久しぶりの外での動画撮影ということで、いくつか忘れ物をしてしまいました。

持ってきたもの

アクションカメラ オズモアクション4

自撮り棒 アクションカメラ用

一眼レフ ソニーα6700+シグマ18−50mm

ショットガンマイク ソニーECM-B10

 

忘れたもの

三脚

広角レンズ

ECM-B10用ウィンドジャマー(もふもふ)

 

自撮り棒は使う機会がなかったので持ってこなくてもよかったのですが、なぜか三脚を忘れていました。動画撮影なら絶対必要だとわかっていたはずなのに。

それから、外での撮影ならウィンドジャマーは必須なのですが、ECM-B10は自宅でしか使ってなかったので付属のウィンドジャマーがあったことすら忘れていました。

久しぶりのインタビュー撮影でノウハウをすっかり忘れていましたが、なんとか試行錯誤で、2つのカメラを使って撮影できました。

 

youtu.be

前半部分は、仕事のはなし。授業、海外語学研修、学会地方支部をいかに維持するかなど、けっこう切実な内容となっています。

youtu.be

後半は、動画撮影やガジェット趣味の話題です。川村さんが最近公開した、郁文堂社長へのインタビュー動画についてお話を伺いました。それから当日使っていたカメラや機材のはなしなど、動画撮影について雑談しています。

 

反省点 三脚とウィンドジャマーは何としても必要

当日2台のカメラで小一時間楽しく撮影したのですが、帰宅して編集してみるとだいぶ音声の質が悪く、またカメラの画角もそれなりに工夫したものの今一つだなと思いました。ほんとうに基本的なことですが、外で撮影するなら三脚とウィンドジャマーは絶対持ってこないといけないものだと実感しました。

久しぶりにFinal Cut Proで編集作業をしました。今回は、2台のカメラで撮った映像を同期し、ときどき映像や音を切り替えました。マルチカムクリップという機能を使ったのですが、これはなかなかおもしろかったです。

 

マルチカムクリップによる編集画面。α6700の映像(アングル1)、とOsmo Action4の映像(アングル2)を適宜切り替えて編集しました。

自宅であらためてインタビュー動画を撮る

川村さんとの対談の動画を公開した後、出来は悪くてもインタビュー動画は楽しいものだなと思いました。そして、前回の失敗からもっといいものを早く撮りたいと強く思ったので、自宅で妻を題材にインタビュー動画を作ることにしました。

テーマは、「大学教員の異動」です。わたしもそうですが、大学教員というのはいちど専任になってしまうとなかなか異動しないものです。良い職場だから勤務し続けているという人もいれば、なかなか公募で選ばれないので転出できないという人もいるでしょう。それはともかく、妻はこの10年で3つの大学を異動しているので、その経緯や各職場での経験を聞いて動画にしてみようと思い立ちました。

 

自宅だから使えるものは何でも使う

外での撮影と室内との大きな違いは、風や雑音の影響をあまり考えなくて良いところと、明るさをどう確保するかという点です。今回は妻が被写体ということもあり、ライティングには工夫をしました。

 

このライトはけっこう安いのですが、明るさは十分だし、光量や光の色を調整でき、またUSB-Cで充電できるのでとても便利でした。

α6700、Canon EOS R8、そしてマイクと照明を2台ずつ三脚に固定して、リビングで向かい合って撮影しました。

妻の前には、EOS R8とMKE400そしてLED照明を置きました。

私の方は、α6700+ECM-B10です。

土曜日の夕方なので、スパークリングワインを飲みながら話しました。

サムネイル写真は顔にモザイクをかけて匂わせ感を出そうとしましたが、思った以上に分かりやすくなってしまいました。

youtu.be

できあがったのがこちらの動画です。

撮影データは45分くらいあったのですが、細かすぎる話などはカットしてなんとか30分くらいに収まりました。

最後にブルーちゃんにも参加してもらおうと連れてきましたが、何かを察して抵抗されてしまいました。

川村さん対談動画に比べるとずっとよくできた動画になったと思うのですが、一つ反省点としては、マイクを一本だけにして、両方の音声が良く入る位置に置くのが正解だったと思いました。

 

久しぶりに動画作成に復帰し、自撮りではなくインタビュー動画を撮ってみて、改めて動画作成の楽しさを実感できました。インタビュー動画は面白いので、また他の人を相手に撮影しようと思っております。

Goodnotesで勉強も授業も学会発表も

パワポがもう使えなくなっていた

私はMacユーザーなので、プレゼンテーションソフトはKeynoteを使っています。日頃まったくパワーポイントを使わずに過ごしているので、ときどき使わざるを得ない時(大学のガイダンス等で、他の先生方と共同でスライドを作るときなど)に、使い方がわからなくて困ります。

もちろん、パワポもキーノートも基本的な使い方は同じなので迷わないのですが、自分が普段使わない機能(音声や動画を埋め込むなど)を使うとなると、いちいち調べないとわかりません。

そもそも普段の授業でも、学会発表でも私はもうだいぶ以前からパワポもキーノートも使わなくなっていました。今回は、プレゼンテーションソフトって本当にそんなに便利なのか?それどころかもう使わなくていいんじゃないのか?という疑念から代わりにGoodnotesを活用するようになったことを書きます。

 

スライドではなくノートを見せる

私は語学教員なので、もともとスライドを授業で見せる機会はあまりありませんでした。講義科目ではパワポで資料を作り、プロジェクタで映して、配布資料を紙に印刷して配布ということもだいぶ以前にはやっていましたが、コロナ以後、授業資料はすべてLMSで配布できるようになった(学生も使い方に慣れた)ため、紙の資料を作ることは止めました。

講義科目で私が配布するのは、WordまたはPagesで10ページくらい書いたノートをPDFにしたファイルです。そしてこのファイルをプロジェクタで映して、説明している箇所をポインタで示したり、マーカーで色付けしたりしながら授業を進めています。

コロナ明けごろから取り入れていたこの方法ですが、研究会での発表でも同じようにやってみたところ参加者のみなさんから好評だったので、もう今後はプレゼンテーションソフトはいらないんじゃないかと確信を得た思いです。

 

授業ノートはGoodnotesに貼り付ける

Wordで作ったノートには、授業で話す内容をほとんど文章の形でまとめています。

90分間ほぼ私が一人で話し続ける講義の形式だと、自分が話すことはすべて文章で書いてあると忘れなくて済むし、聞いている方も分かりやすいだろうと思うので、レジュメではなく文章でノートを作っています。

とりわけ文学系の講義では、長めの引用文を見せることがあるし、原文と訳を対照しながら説明したり、詩や戯曲の押韻を原文を見せて説明することもあります。

フロイト『夢解釈』の講義第1回目。まえがきの文章をドイツ語でじっくり読み進めます。

長い文章を見せるのであれば、パワポのスライドにぎっしり書いてつぎつぎページを移動するよりは、スクロールできるWordのほうが見やすいのは言うまでもありません。

もちろんこのアプリをiPadで使うときには、ペンで書き込みが可能だし、拡大もできます。

強調したい箇所をマーカーで塗ったり、ふりがなをふったり、さらに授業のさいには、情報を補ったりもよくしています。

 

ノートの切り替え、アプリの移動も一瞬で

パワーポイントで面倒だったのが、音声や動画のファイルを埋め込んだり、YouTubeのページに移動したりする、アプリの切り替えでした。

Goodnotesの場合、複数のノートを開いておいて瞬時に切り替えて見せることができます。私はしばしば前回のノートや参考資料のページなどを表示し、前回のリマインドを行います。また、iPadであれば、他の様々なアプリを瞬時に見せることも可能です。

このようにアプリ上に複数のタブで文書を開いておくと、瞬時に切り替えることができます。

余白に書き込んだり、白紙のページを板書代わりに使ったりもできる

図版を貼るときなどもパワーポイントではタイトルや説明を入れるスペースを取るため、図版自体が小さくなってしまうことも多々あります。Goodnotesの場合は、自由に拡大できるので、ノートに貼った図や写真を大きくして、マークしたり書き込んだりもできます。

狂気の歴史を説明する際、古代から近世まで行われていた穿孔開頭手術の話をしました。頭にドリルで穴を開けて悪魔をとりのぞくというおそろしい手術ですが、傷口の骨が成長していた跡があるので、穴を開けたのちも生きていた人もいたそうです。

手書きで文書に書き込めるのが、Goodnotesの最大の強みです。

フロイト『夢解釈』の、「肉屋の細君の夢」を図式化して解説しています。このように余白に情報を補ったり、誤字を訂正したりといったことが気軽にできます。

文章を書き込んだ授業ノートで説明をして、もう少し詳しく話したいときは、白紙のノートを作って、板書のように大きなスペースを生かして書くこともできます。

ゲーテの長編小説『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』の人物関係を整理しています。

こちらもゲーテの『親和力』。それぞれに別の相手に恋をしているエドゥアルトとシャルロッテのあいだに生まれた子供は、顔はオティーリエ、身体は大尉に似ていたというので、赤ん坊のイラストも描きました。

文学の講義でほぼ毎回このように人物関係を図式化して解説するようにしたら、あきらかに学生たちがよく聞くようになってきたと感じています。


Goodnotesを講義で使い始めた頃は、イスに座って描き込みながら話していましたが、最近では立ったままiPadを持って、筆記しつつ話すことにも慣れてきました。気のせいかもしれませんが、学生は動く人が話しているほうが講義中も前を向いて話をよく聞くような傾向があると思います。

 

ズームでも使える(らしい)

私はまだ自分でやったことはないのですが、PCにiPadをつないで、ズーム上でもGoodnotesを動かすことができます。

検索するといろいろな事例が出てきますが、こちらのページで紹介されている方法が分かりやすかったです。

utelecon.adm.u-tokyo.ac.jp

紙の配布資料とのすみ分けも可能

人文系では、研究発表のさいに紙で資料を配布するのがまだまだ一般的です。(とはいえ、国際学会で紙資料を配布する人はほとんど見たことがないので、日本だけあるいは一部の分野だけの慣習かもしれません)。

授業では大学のLMSであらゆる資料をデータで配布できるのですが、それができない場合は、紙の資料も用意しないといけません。

昨年秋の京大人文研での発表では、要点や押さえておきたい情報(人物の略伝、作品の概要など)をA4数枚のレジュメにまとめて配布しました。

配布資料の最初の部分です。4ページにまとめて印刷、配布しました。

10ページ以上あるノートをそのまま配布するよりは、聞いている人がメモを取るための紙としてコンパクトにまとめたレジュメを配ったのがちょうど良かったと思います。

 

 

 

 

ドイツ現代文学ゼミナールの楽しみ

コロナ禍から完全復活した現文ゼミ

このブログでも何度か取り上げてきたドイツ現代文学ゼミナールですが、この春は東京八王子の大学セミナーハウスで、3月4日、5日に開催しました。

私は数年前から幹事の一人として運営に参加してきました。コロナ禍では数回にわたってオンラインのみの実施となりましたが、今回は私が持参した機材を使ってハイフレックス形式で実施できました。

これまでの数回は、コロナ前より発表者を少なくしてじっくり議論ができるようにと配慮していましたが、今回は一日目と二日目で合計4人が発表するという以前の形式に完全に復帰できました。

 

会場は八王子の大学セミナーハウス

以前は、毎年春(3月)は箱根、秋(9月)は信州、のちに琵琶湖で開催してきましたが、コロナの直前に箱根の会場としていた宿が閉館となってしまい、ここ数年会場を探しながらオンラインおよび都内の大学を対面会場として続けてきました。今回初めて大学セミナーハウスを利用しましたが、料金が安く、設備も整っていて利用しやすいと思いました。

学部時代東京に住んでいた私ですが、八王子はまったく土地勘がなく、JR八王子の駅で降りたのもおそらく10年前の東京外大での学会で、八王子駅周辺に泊まったとき以来でした。

八王子駅南口からバスに乗りました。

バスで20分ほど行った山の中に、大学セミナーハウスの建物がありました。

この施設は、山の斜面にいくつもの建物が点在していて、建物間は遊歩道や階段で結ばれていて、自然散策を楽しむことができるようになっています。しかし大量の荷物を持っていると移動がとても大変でした。

やや古く、凝った作りの建物群を見ながら、地元にあった少年自然の家を思い出しました。小中学生の頃宿泊研修で何度か泊まりましたが、毎回どの部屋にお化けが出る等の話題で盛り上がりました。

夕食。ホテルではなく研修施設なので、食堂は学食ふうですがとても美味しかったです。

泊まった部屋から窓を開けると一面木々ばかりの景色が広がっていました。

 

若い人の活躍から中堅世代も刺激を受ける

一日目は、午後に共通テクストJan Peter BremerのDer junge Doktorandについての討論があり、その後夜にリルケ『ドゥイノの悲歌』についての発表がありました。二日目はファスビンダー映画について、およびエスター・キンスキーの『ロンボ』についての発表とディスカッションが行われました。

ズームでの配信のためにSONYα6700をウェブカメラとして使用しました。

毎回発表者は希望者を募ったり、私たち幹事が声をかけたりしているのですが、今回はかなり若い人たちが手をあげてくれました。学部4年生から博士課程1年生までと、これまでになく若い学生の発表を多く聞いて、私も非常に刺激を受けることができました。

学会や学会誌の査読等で、若い研究者のしごとに触れる機会はときどきありますが、やはりまだ論文になる前の研究発表の方が、よりどういう意図や関心で研究をしているのかがよくわかり楽しいです。修士課程や博士課程に上がったばかりくらいの院生がどのように研究の方向性を作ろうとしているのか、どういう点で苦しんでいるのかといったことをより近くで感じることができました。

日頃学生の研究指導をする機会がない私のような教員にとっては、若い研究者の発表を聞ける機会はとても貴重です。

すごいなあと感嘆することも、20年前の自分と同じような挫折をしているなあと思うこともありました。

 

同世代の仲間や他大学の先生との貴重な出会い

現代文学ゼミのいいところは、それほど多くない参加者と一晩ともにすごし、いろいろな話ができる点です。私が最初に参加した2000年代前半の頃は、ちょうど大学院重点化と就職氷河期が重なり、どの大学にもたくさん院生がいました。この研究会も、参加者の半数以上が院生だったと思います。そこで知り合った他大学の院生とは、その後もずっと現在まで交流が続いています。

また、同世代の仲間だけでなく、他大学の教員から自分の研究に意見をもらえるのもたいへん貴重な機会でした。どこも同じようなものだと思いますが、大学院では指導教員からの個人指導になりがちです。こういう場で若い学生の話を聞くと、たいてい指導教員とうまく話せない、恐れ多くて気軽に質問できない、といった悩みを抱えています。私もよく分かりますが、指導教員がどんなに優秀でいい先生でも、教わる学生がそのまま優秀な研究者になれるわけではないし、逆に気後れしたり萎縮したりしてしまって苦しむことも多々あります。

現代文学ゼミのような場は、他大学の仲間だけでなく、他大学の先生を見つけるための場としてもたいへん有益です。

 

学会発表になる前の未完成な発表だっておもしろい

現代文学ゼミナールは「学会」ではないので、しばしばしっかりと論旨がまとまっていない研究発表もあります。私がこれまでにしてきた発表も、学会発表や投稿論文の下書きのような「生煮え」の発表ばかりでした。

しかし、そういったまだ未完成の研究の話をして、多くのコメントをもらう場が、この現代文学ゼミの一つの意義であると思います。

優秀な研究者の話を聞くのももちろん面白いし有益ですが、未完成で不足が多い研究であっても、どうやったらもっとおもしろい研究になるかを参加者が共同で考え、議論することができるので、やはり価値があるといえます。

 

おじさん教員たちのあり方も確実に変わってきた

私が参加し始めた頃に比べると、おっかない先生は明らかに減りました。それがいいことなのか悪いことなのかわかりませんが、少なくとも若手が萎縮して発表したり発言したりしづらくなるのは良くない点だったはずです。

私たちの少し上くらいの世代から、あまり頭ごなしに批判するような先生を見ることはなくなりました。学生指導の経験がある人も、ない人も、より対等な立場で親切なコメントをする人が現在では大半を占めていると言っていいでしょう。

そして怖い先生が少なくなったために、これまで以上に研究歴の浅い若い人たちが積極的に参加したり、発表や発言をしたりできるようになっているのであれば、それは本当に素晴らしいことだと思います。今回のように若い発表者ばかりであることは、やはり参加者全体にとってプラスの意味があったと私は思いました。

 

次は秋の琵琶湖

3月のゼミが終わると、すぐに次回の準備を始めることになります。次は、例年通り滋賀県の近江舞子で開催します。琵琶湖を望む美しいホテルで、また盛んな議論ができることを期待しています。なお、次回からは遠方から参加する学部生、大学院生にはなんらかの補助を行うことを考えております。詳細については後ほどお知らせいたします。

去年の琵琶湖。9月初旬はまだまだ夏の日差しでした。

 

東京外大谷川ゼミの思い出

谷川道子先生を送る

つい先日、1月9日に東京外大名誉教授の谷川道子先生が亡くなられました。ブレヒトやハイナー・ミュラーなどドイツ現代演劇を研究されていた谷川先生ですが、私は明大文学部4年生の頃に、一年だけ東京外大大学院のゼミに入れてもらい、卒業論文の指導を受けていました。

1月14日の日曜日に通夜が、お連れ合いの鷲山恭彦先生の故郷である掛川市で行われ、私はちょうど休日だったので新幹線で参列して、最後のお別れをしてきました。

会場では思い出の写真がスライドショーで流れていました。

大阪へ戻る新幹線を待つ間に、献杯ではないけど、寒い中ビールを飲みました。

谷川先生のもとで学んでいた日々も、もう25年も前のことになるのかと驚く一方、振り返ってみれば、あの出会いや谷川ゼミでの一年間もまた、今の自分の出発点の一つだったと実感しています。

 

1999年、大学4年生だった

大学に入った当初のことは最近振り返りました。

schlossbaerental.hatenablog.com

それから3年が過ぎ、4年生になった1999年、この年はいろいろなことがありました。

このブログを始めたばかりのころに書いた、アパート立ち退きの話もこの年の秋のことでした。

schlossbaerental.hatenablog.com

周囲の友人たちが就職活動を始めたのは、3年生の終わり頃でしたが、私は春休みもドイツに出かけ、現地で演劇や映画を見て過ごしていました。当時の明大文学部は研究者を目指して進学する学生などはほとんどおらず、みんな就職活動を始めていました。私も当初は企業説明会に参加したりするつもりでしたが、やはり進学してもう少しドイツ語や文学の勉強を続けたいと思うようになりました。(このころは修士課程を終えてどこかに就職できればいいや、と考えていました)。

4年生になる直前の春休みに、兄とともに新宿西口でiMacを購入。すぐ使いたいので持ち帰ったのですが、あまりの重さでふたりともへとへとになりました。

ベルリンで見たハイナー・ミュラーを卒論に選ぶ

卒業論文の題材に何を選ぶかは、3年生の後期ごろから友人たちと話し合うことも多かったし、私自身もいろいろな可能性を考えていました。好きだったゲーテの『ヴェルター』やノヴァーリスの詩も気になるし、印象に残っていたマンの『ブッデンブローク家』もいいし、あるいはより難解なツェラーンの詩も気になる、という具合でした。

このころ好きだった作家や作品はその後自分の講義などで何度も取り上げることになりました。

研究であるからには、独自性のあるテーマでなければならない、それならばまずは誰も選ばなそうな作家・作品について書く必要がある、と考えました。あれこれ迷った末、自分が知っている中でいちばん現代に近い、東ドイツで活躍した劇作家ハイナー・ミュラーの作品をテーマに選ぶことに決めました。

ja.wikipedia.org

今思うとこれは非常に危険な考え方です。独自性とは珍しさではありません誰もが知っている有名な作品であっても、いくらでも独自の研究はできます自分が凡庸だと見なされることを恐れて、誰もいない荒野を探すのは文字通り不毛なことです。

谷川先生が訳されたミュラーのインタビュー集。戯曲作品の翻訳とともに、何度も繰り返して読みました。

東京外大の大学院ゼミに入れてもらう

ドイツを旅行しているときにたまたま東京外大の修士課程の院生(たしかTさんというテレビ局に就職される方でした)と知り合い、卒論や進学の相談をしているうちに、そのテーマなら谷川先生に見てもらうのがいいと勧められ、帰国後にメールでやりとりして谷川道子先生に紹介してもらえることになりました。

4月の学期初めに、まだ北区の西ヶ原にあった東京外大に案内され、最初は大学院の事務室で過去問をコピーし、その後谷川先生の研究室に行きました。この過去問が、何十ページにもわたっていて、問題文のドイツ語の量を見て、これは一年勉強したくらいでは到底合格できまいと強く思いました。

谷川先生は、見ず知らずの外部の学生である私をあたたかく迎えてくださり、翌週から大学院の購読のゼミに出ていいと言われました。

 

墓地を歩いて大学に通った日々

こうして幸運にも学部4年生にして大学院の授業に出る日々が始まりました。明大は規模が大きいため、ほぼ全ての授業が学年ごとに分かれているし、学部生と院生が交流する機会はほぼありませんでした。その後進学した京大でもおどろきましたが、国立大学の場合、学年の違いはほとんど関係なく、学部生から若手の教員までいっしょにゼミで学ぶ場があたりまえのようにあったのでした。

大学院のゼミには、私の他に三人の院生がいました。M2に表現主義芸術を研究するKさん、M1は二人いてたしか現在完了形とかそういうのが専門だった言語学のIさん、そしてお名前は失念しましたが言語学専攻の男性の方。また、OBとしてすでに非常勤講師をされていたホフマンや児童文学が専門のHさんもときどき研究室に来られていました。

Kさん、Iさんはお二人とも専任教員としてご活躍されています。Hさんも翻訳家としてさまざまな本を出されています。(あと非常に売れてるドイツ語教科書も書かれていますね)。

ゼミでは、何を読んでいたのかあまり覚えていないのですが、ミュラーの作品ではなく、ミュラー作品の上演についての論文を読んでいたと思います。難しくて予習もままならなかったのですが、毎週先生やゼミのメンバーと会うのが楽しみでした。

東京外大の旧キャンパスまでは、巣鴨から染井霊園を歩いて行っていました。都電荒川線の駅が近いのですが、私は広々した静かな墓地を歩くことが気に入っていました。この墓地には著名人の墓がたくさんあるのですが、それ以上に大小様々な名も知れぬ誰かの墓石を見ているうちに、それぞれどんな人生を送ってきたのだろうと考えるのが好きでした。墓地の中を歩きながら、いろんな人の人生の記憶とは何だろうと考えていたことは卒論の着想につながりました。

当時私は進学にかかる費用をためようと平日昼間はほとんど西新宿にある通訳・翻訳・国際会議などの会社(サイ○インターナショナル)でバイトしていました。その合間に外大のゼミや、明大での指導教員との面談(学期に数回だけでしたが)に行ったり、そして図書館に出かけて資料収集などをしました。

 

ゼミ合宿と卒論中間発表、そして院試

谷川ゼミでは、毎年夏休みにゼミ合宿が行われるとのことで、外部メンバーである私も誘っていただけました。例年は、鷲山先生のご実家である掛川市で行われるのですが、99年は何かの事情でそのお家が使えなかったため、喜多見にある先生のマンションで二日にわたって通いのゼミ合宿が開催されました。

ゼミ合宿では、学部4年生や院生が研究内容を発表します。ここで私ははじめて自分の研究テーマについて報告しました。明大には卒論ゼミがなく、夏休みの段階では、まだ指導教員とちょっとした茶飲み話程度の面談しかしていなかったのでした。

はじめてのゼミ発表ということで、卒論で書けそうなこと、今関心を持っていることなどを箇条書きにしてたどたどしい話をしましたが、谷川先生やゼミのみなさんからは、非常にありがたい励ましをいただけました。

ふだん院ゼミに出ていた私は、このとき初めて学部ゼミのメンバーと顔を合わせました。なかでも同級生のH.Mさん(翻訳家のHさんと紛らわしいのでH.Mさんとします)とは意気投合し、それぞれの友達をまじえて家飲みをしたり遊んだりしました。

夏休みの終わり頃に京大の院試があり、二次試験では研究計画のような論述問題が出たのですが、夏休みにゼミ発表をしていなければ、答案を書くことはできなかっただろうと思います。

(京大総合人間学部A号館。私が修士課程の頃まで古い校舎が残っていました。受験時、もう来ないかもしれないと思い写真を取りましたが、まさかその後10年以上通うことになるとは)

京大の院試に合格しましたが、谷川先生には他の志望校も全部受けて、合格してから選べばいいと勧められていました。当初は京大のほかに東大総合文化研究科(駒場)と外大院を受験する予定でしたが、どちらも入試問題が難しく、一回で合格するのは無理そうだと判断し、結果的に受験をやめて京大院を選びました。

 

多和田葉子さんの朗読会にも参加

秋頃には一橋大学で行われた、多和田葉子さんの朗読会にも誘っていただきました。

当時私は毎日のように詩を書いていて、言葉遊びを多用する多和田さんの作品には大きな刺激を受け、朗読会でじっさいにご本人とお話しできて感動しました。

今思うと、あのころ書いていた詩というのは、日常で感じるふとした着想になんらかの言葉によって形を与えようという試みであって、おそらく今のSNSでのつぶやきや、写真やブログなどの表現の原型とも言えるものでした。

谷川先生の下には、数年前に亡くなられた一橋の古澤ゆう子先生も写っています。

このとき初めて中央線に乗って国立で降りて一橋大に行ったのですが、帰りは谷川先生と一緒に谷保から南武線に乗って登戸で乗り換えて小田急線で帰ったのを覚えています。(私は引っ越して豪徳寺に住んでいました)。

 

卒論を書き進める

院試が終わってしばらくたって、ようやく卒論を書き始めました。当時私は初代iMacを使っていたのですが、白いワープロソフトの画面と向き合いながら文章をひねり出すのが苦手で、最初はルーズリーフに手で文章を書いていました。10枚程度メモがたまると、Macに文章を移していくといった具合に少しずつ分量を増やしていきました。

この時期もゼミに毎週出ていたのかよく覚えていないのですが、谷川先生には洋書を研究費で注文していただき、それをお借りして少し読んだりしていました。結局卒論にはほとんどドイツ語の二次文献を使うことはできませんでした。

一月のなかばごろが明治大学の提出締め切りでした。一月末ごろに谷川ゼミでも卒論の報告会がありました。先生からは、自分の言葉で書けていると褒めていただけました。

このときは他の学部ゼミのメンバーも来ていて、ドイツ語教員仲間として現在も交流が続いている歴史学のBさんとはこの機会に知り合いました。

研究室で祝杯を上げて、さらに夕方から学生だけで巣鴨でたくさん飲みました。

不義理な教え子だった私

先に書いたように、東京外大の院試は受験せず、京大に進むことを選んでしまったので、谷川ゼミは卒論までで抜けることになりました。

修士課程に入った後で、移転した府中キャンパスで全国学会が行われ、そのときは私も先生やゼミのみんなと会いに東京に出かけました。

しかしその後は以前も書いたように研究で行き詰まり、修士課程で2年も留年し、さらに現代演劇からはかけはなれたテーマを選んでしまったので、谷川先生とは連絡が取りづらくなってしまいました。

博士論文を書き、専任教員になり、それなりに業績をつんでこの業界で生きていけるようになったものの、昔の不義理をいつかおわびしなければいけないなとずっと思い続けていました。

結局ご存命の間に、もう一度会うことも連絡をすることもできなかったのですが、お通夜で祭壇を前にして、これまで教えていただいたことへの感謝を伝えました。

 

いつも思うけど、先生に習うことは難しい

以前恩師が亡くなった時も、それからこれまでの研究生活を振り返っても、私は運良く素晴らしい先生と出会い、教えを受けてきたと思っています。

いっぽうで、谷川先生を始め、それぞれの先生方からちゃんと指導を受けることはできていなかったと反省しています。教えられたことを素直に聞けなかったり、そもそもゼミから逃げたり、会える機会をあえて避けたりしたことも多々ありました。

前にも書いた気がしますが、学生を教えることを仕事にしている今、むしろ教わる側、教師ではなく弟子としてのあり方のほうが、ずっとずっと難しいものだなと痛感します。

 

教えられたことを反芻しながら

新幹線で掛川へ向かう間、2020年に出た『多和田葉子/ハイナー・ミュラー 演劇表象の現場』を読みながら過ごしていました。

 

谷川先生の文章を読むと、ほんとうに当時の先生の声や口調を思い出しました。

退職されて10年ほどたって書かれた本ですが、先生はあのころと全然変わっていないなあと感じました。

多和田葉子さんのハイナー・ミュラー研究や創作との関係について、谷川ゼミ出身のHさん、Kさんの書いた文章を読んで、西ヶ原のキャンパスまで歩いて行った道や、ゼミでの日々、ゼミ合宿などの思い出が蘇ってきました。

私自身はあのころ関心を持っていたテーマからはずいぶん離れてしまったとはいえ、やはり自分自身の中では、連続性があるようにも思います。

ふたたびドイツ現代演劇の研究をすることはないでしょうが、あのころ谷川ゼミで学んでいたこと、先生から教わったことを反芻しながら、自分の研究を続けていこうと思います。

あの頃どんな授業に出ていたのか? 1990年代後半の学生時代

 

昔は大学の授業なんて出てなかったし勉強していなかった→本当なのか?

昔からよく大人たちは、学生時代は勉強しないで遊んでばかりだったと回顧していたものです。それこそ私が学生の頃から、自分たちの頃は毎日雀荘に入り浸っていたとか、授業になんて出ていなかったと語る人はたくさんいました。

私自身も、学部生の頃はあまり真面目に勉強していなかったし、当時はそれなりに頑張っていたと思っていたものの、大学院に入ると自分がいかに怠慢に過ごしてきたかを思い知らされました。

たしかに今と昔では、大学の制度も学生たちの気質もだいぶ変わってきています。ではいったい何が変わったのか、そして授業に出ていなかったという昔の学生は、いったい大学で何を学んでいたのでしょうか?

ちょうど学部時代の成績証明書が見つかったので、自分が一年の浪人後にどのように大学で学んでいたのかを、予備校時代の思い出の続編として書いてみます。

schlossbaerental.hatenablog.com

結論から先に書くと、私は大人たちがいう、「学生時代は勉強してなかった」という言説はあまり真面目に受け取るべきではないかもと思っています。そこには、怠惰に学生時代を過ごしてしまった後悔や、本当はいま勉強したいのだという願望や、先のことを考えずに遊びにも勉強にも熱中できた学生時代への憧憬など、さまざまな感情が含まれているのだと思います。私は必ずしも昔の大学生が大学にも行かず、勉強もしていなかったわけではないという立場から自分の思い出を書きます。

 

成績証明書を見直す

10年前に今の職場に着任するにあたって、学部や大学院の成績証明書や学位証明書などを取り寄せて提出しました。そのさいに母校から送ってもらったのが、この成績証明書です。

取得単位はこれがすべてではなく、右側の列にも続いていたと思うのですが、主なものはこちらの写真に写っているとおりです。

当時、各科目は通年で履修登録しているので、講義科目等は4単位、語学や体育などは2単位となっています。現在はそれぞれ2単位、1単位ですね。現在はどの科目も半期ごとに成績をつけます(また講義科目は半期の15回で1セットになっています)が、昔は通年で一区切りだったので、語学科目は夏休み前に期末テストがあったものの、講義科目は夏休み中に課題レポートを書き、後期に期末試験または期末レポートを出すという形式でした。

上の方に並んでいるのが必修科目のドイツ語、英語、体育、そして独作文や独語学、独文学史などで、それにつづいて専攻選択科目、共通選択科目が並んでいます。たぶん写真の範囲外に卒業論文など3、4年生で習得した科目が記載されていたはずです。

どの科目をどの学年で履修していたのかは書いていないので記憶があやふやな点もありますが、当時何を考えて、どの科目を履修していたのかを思い出してみます。

 

文学部に入るとほとんど語学の授業だった

明治大学和泉キャンパス第一校舎前。10年前に学会にいくついでに寄り道していました。

大講義室があった第二校舎。1年生の頃には共通選択科目の講義などがありました。現在この校舎は無くなり、新しい建物になっています。

1996年に明治大学文学部に入学した私ですが、私立文系専願というわけではなく予備校では国立文系コース、しかも二次試験まで数学を使うつもりで勉強してきたので、予備校の時間割には常に数学も理科もありました。

大学に入って最初に驚いたのは、シラバスや履修要項を見ると数学も理科もなく、ほんとうに文学や語学の授業しかないのだなということでした。あれほど苦手で苦労してきた数学や理科を今後はほんとうにまったく受講しなくていいのだと分かると、安心する反面、ああやっぱり自分は受験に失敗したのだ、私立大学にしか入れなかったのだと落胆する気持ちもありました。たぶん国立大学であれば、膨大な数の選択科目から自然科学科目を履修することもできたのでしょう。

それはともかく、1年時には週に3コマのドイツ語、2コマの英語、それに加えて独語演習やドイツ語会話など実質的な語学科目もあったので、一週間の授業の半分くらいは語学でした。

英語は好きだったし、ドイツ語がやりたくて独文学専攻に入ったのですが、いくらなんでも語学しかないじゃないか、これではどうやって文学の勉強をすればいいのかと途方に暮れました。

そして新たに学び始めたドイツ語の授業が毎日続くので、一度授業についていけなくなると、あっというまに落ちこぼれてしまいました。写真にあるように、ドイツ語科目で可が並んでいるのは、1年生の成績です。(その後1年生の春休みにドイツへ旅行し、2年生からまじめに勉強し始めることになりました。そのときの旅行はこちら。)

schlossbaerental.hatenablog.com

 

語学くらいは真面目にやらないと卒業できなくなってしまう

私は大人たちがいうことを真に受けて、大学生というのはまじめに勉強せず、授業にも出席せず、モラトリアムの時期を楽しむのが正解なのだと思っていました。そして夏休みも冬休みもなく朝から晩まで予備校で過ごした、大宮での浪人時代の反動もあったことでしょう。

「大学に入ったら授業には真面目に出なくていいし、遊んで過ごしてもいい」という言葉とともに、「しかし必修の語学や体育にはちゃんと出ておかなければならない」という補足もおそらく私の耳に入っていたはずでしたが、都合の悪いことは聞かなかったことにしてしまうものです。私は1年時にドイツ語も体育もさぼりまくってしまいました。

その後2年生以降は毎日大学に行き、たくさん授業に出席することでこれまでの遅れを取り戻しました。

語学や体育は再履修クラスでやっと単位が取れたので、やはり昔の大学では授業に出なくても良かったというのは都市伝説でしかなかったと思います。

 

 

講義科目もいろいろあった

成績表に掲載されている、専攻選択科目や共通選択科目など、おもに1,2年次に履修した講義科目を中心に、どんな授業だったのかを思い出して書き出してみます。

専攻の専門科目のほうが当然よく覚えているのですが、そちらは別の機会に書きます。

 

心に残っている授業

劇場論

演劇学専攻の先生が担当されていた講義科目です。シェイクスピアのグローブ座のことや、鴎外が滞在していた当時のベルリンの演劇事情などの話しを覚えています。たぶんこの授業で聞いた話が、3年生のときにベルリーナー・アンサンブルやドイチェステアターに通っていろいろな作品を見る下地になっていたと思います。しかしなぜか成績は可。

戯曲作品研究

こちらも演劇の先生の授業ですね。『オイディプス王』がテーマで、戯曲テクストを読み、パゾリーニの映画版を視聴した記憶があります。『ハムレット』もこの授業で精読できました。前期後期で、『オイディプス王』と『ハムレット』の二作品を取り上げたのかもしれません。

西洋思想史 

予備校で小論文を習っていた石塚正英先生が出講されていました。私が1年時にいちばん楽しみだった講義です。西洋思想史となっていますが、中身は社会思想史でした。大講義室でけっこう大人数の講義だったので、毎回先生と顔なじみの私が出席表を配布する係をしていました。

あれから25年くらいたっているのに、石塚先生が大学を退職後も旺盛に執筆されていることにいつも驚きます。

 

今年のはじめにも新刊が出ていました。これは面白そうなのでぜひ読んでみます。

芸術学

2年生のときに、大量の単位を取らなければならないので、仕方なく土曜日まで授業を入れた結果出会えた素晴らしい講義でした。谷崎潤一郎を中心とした比較文学的な内容でした。この授業で谷崎作品が好きになり当時熱中して読みました。文学部の共通科目だったため、同じ専攻から受講している友人はいませんでしたが、他の専攻の友人ができました。

 

比較文学

4年生のときに履修していた唯一の講義科目(あとは卒論ゼミだけ)でした。講師は阪大を退職したばかりの小谷野敦先生で、ちょうど私も『もてない男』を読んで感銘を受けたところだったので、毎週楽しみに受講していました。夏目漱石作品について詳しく紹介されていたので、その後大学院に入る頃までいろいろな漱石作品を読みました。

 

印象に残っているが、単位は取れなかった授業

現代思想 

哲学にあこがれていた(のだけど当時の明大文学部には哲学専攻がなかったので独文にしました)私としては、現代思想=現象学や構造主義やポスト構造主義の話だろうと勝手に思って受講しました。しかしこの授業ではいつまでたってもフッサールもハイデガーもデリダもドゥルーズも出てきません。いったい何の話をしているのだろうとわけもわからず過ごしていましたが、今思うとあの授業で扱っていたのはアメリカ現代思想でした。担当されていた先生は青土社から翻訳を出すなど活躍されていました。

難解過ぎて途中で単位取得をあきらめ、コンビニの夜勤明けに半分眠りながら受講していました。

 

西洋音楽史

高校時代は芸術の選択授業は音楽を履修していたので、もうちょっとちゃんと勉強してみたいと考えて受講しましたが、さっぱりわからず挫折しました。モテットの話をしていたことくらいしか覚えていません。私と同様なんとなく受講した友人たちは軒並み途中で受講を諦めたり、期末レポートを提出しても単位が取れなかったりと厳しい授業でした。

 

授業は覚えていないが単位を取っていた授業

人文地理学 

たぶん授業には出ず、友人にもらったコピーを持ち込んで期末テストを乗り切って単位を取得したのだと思います。そうそう、もらったコピー持ち込みで楽勝科目、というのも昔はときどき聞いたように思います。私が受けていた授業では、この科目だけでした。

日本国憲法

教職課程の必修科目なので履修しましたが、教職の他の科目がつまらなくて、早々に諦め、なんとか憲法の単位だけは取りました。あまり授業に出た記憶はありませんが、試験勉強のためにいちおう第何条に何が書いてあったかということは復習しました。

 

独語学概論 

明治には当時言語学の先生がいなかったので、東大駒場の有名な先生が来られていましたがが、全く内容を覚えていません。専攻の学生がほとんど受講する科目だったので、とりあえずみんなが履修していましたが、ちゃんと理解できていた学生がどれくらいいたのか疑問です。(たしか同じクラスに有名なドイツ語学者のお嬢さんがいたので、みんなが彼女に質問して教えてもらっていました)。試験もけっこう専門的なことを問われました。一夜漬け程度の勉強はしていましたが、なぜ単位がとれたのかわかりません。

 

授業に出なくても単位が取れたわけではないが、やっぱり勉強は足りていなかった

昔の大学でも今と変わらないくらい授業に出なければならなかった

こうやって大学入学当初に受講していた科目を振り返ってみると、たしかにあまり内容が頭に入っていなかったり、ほとんど出席していなかったりする科目もあるにはあると分かります。

しかしいっぽうで、演劇や芸術関連の講義や語学や体育などは、毎週しっかり出席し、レポートを書いたりテストを受けたりと、今の学生とほとんど変わらないやり方で(もちろん大規模私学だったので発表や反転授業などはほとんど行われていなかったのですが)勉強していたとも言えます。

出席表もリフレクションペーパーもすでにあった

昔の大学はおおらかで出席も取らなかったし、代返もやり放題だったという話もよく目にしますが、これも私にとっては都市伝説のようなものでした。石塚先生の講義で出席表を配る係をしていたと書きましたし、他にもいくつかの授業で出席表やリフレクションペーパーを提出することはありました。もちろん現在のように半期14〜15回の授業が義務付けられているわけではなかったのでときどき休講はあったし、学生の出席率も(一部必修科目以外は)それほどきっちり確認されていませんでした。

やはり違いは昔の学生の気質によるものというよりは、大学の成績評価や単位の数え方など制度的な違いが大きいように思います。

セメスター制より通年評価のほうが良かった面もあるのでは

最初の方に書いたように、昔は通年で成績評価していたのが、現在はセメスター制(あるいはクォーター制)になってしまったというのも大きな違いです。今私が教えている講義科目は半期15回で終わる内容になっていますが、昔の大学であれば、一つの講義が一年続くのでもっと内容を深めることができたはずだと思います。

語学の勉強は昔の学生の方がまじめにやっていたのでは

私は文学部の外国文学専攻だったので、当然のように4年間ひたすら語学ばかり勉強していましたが、他の学部でもかつてはもっと第二外国語のコマ数が多く、場合によっては4年生になっても必修の第二外国語の単位が揃わなくて苦労していた人もいたようです。

現在は第二外国語は少なからぬ大学で、週1コマ、1年あるいは半年のみの履修で単位が足りるところもあります。第二外国語の重要度が下がる一方で、他の分野の学習が充実しているのは確かでしょうが、逆にドイツ語教員の私としては、昔のほうがむしろ語学の学習については充実していたのだろうと思います。

文学部でなくても2年生まで語学を勉強するのが当然だったし、3年生以降も専門書を購読する授業が多く開講されていたというのも今から見ればだいぶかけ離れた状況でしょう。

それでもやはり勉強していなかったと思う

しかしそんな「昔は良かった」的な大学で学生生活を過ごし、それなりに時間をかけてドイツ語を勉強してきたはずの私ですが、大学院に進むと、いかに自分が遊んでばかりいて不勉強だったかを思い知らされました。前にも書いたように、私は修士課程だけで4年もかかってしまいましたが、そうなった一番の理由は、基礎学力の不足でした。

ひょんなことから高校野球の名門校に入ってきた田舎の少年が、自分がそこそこ活躍できてた田舎の軟式野球とのレベルの違いにショックを受けるように、私は研究者を目指す院生たちの学力や学習意欲に驚き、自分がいかに小さな世界にとどまっていたかを痛感しました。

それで私もいまでは、学生時代は勉強していなかったなあと回顧するおじさんになってしまいましたが、よくよく考えると、それでも当時は授業には出席していたし、講義の内容も覚えていたし、勉強を楽しんではいたのでした。それでもやはり勉強は足りなかった、もっと勉強したかったとは思うものなのでしょう。

 

文学部生にとっての社会からの重圧は今も変わらない

大学生の頃、それなりに勉強していても虚しさや不安を感じることがよくありました。こんなことをしてどうなるんだろう、こんな勉強に熱中しても就職につながらないじゃないか、とはいつも考えていました。

とくに明大駿河台キャンパスは大学の周辺がすぐにオフィス街だったり、新宿駅で乗り換えだったりしたこともあり、日々忙しそうな会社勤めの人たちの世界が大学と隣接していて、自分はどうやって生きていくのだろうと不安に駆られました。

おそらく大学で実社会からかけ離れた勉強をしていることへのうしろめたさや不安や焦りは、今の学生にとっても変わらないでしょう。留学したり、語学の資格をとってアピールの材料にするのもいいし、サークルやアルバイトで社会勉強をすることもたしかに意味はあるでしょう。しかし私としては、文学部で勉強に熱中することこそ、会社にアピールしていいし、会社や役所に入ってからも大学時代の勉強は役に立つはずだと思って欲しいです。会社に入ったことがないし、会社員の友だちもいないのでわかりませんが、大学教員という一社会人として、やはり大学で学んだ外国文学の知見は、社会に対する視点として非常に役に立っていると実感しています。

この点については確証はありませんが、「文学部に行きたかったけどやめておいた」という人は多いものの、「文学部を選んで後悔した」、「文学部ではなく経済学部にしていたらちゃんと就職できたのに」といった意見をあまり聞かないことからも、ある程度推察できそうです。

 

大学でどうやって文学を学ぶのか?

さて、長くなりましたが今回は1、2年生ごろに受講した講義科目を振り返り、私がどうやって大学の勉強を始めたのかということを書いてみました。しかしまだ、大学入学当時に感じた、「語学ばかりの授業でどうやって文学の勉強をするのか?」という疑問についてほとんど言及していませんでした

文学を学ぶというのは、大学で語学の授業を取ったり、講読の授業で短編小説を精読したりするだけではなく、もっと幅広い視野で学ぶ必要があります。これまでにも少し書いたことがありましたが、また改めてどのように文学研究の考え方を学べばいいのか、そして自分自身が学んできたのかという点についてまとめ直してみようと思います。3、4年生や大学院で受講していた科目についてもそこで改めて振り返ります。

現在のリバティタワー。私が3年生の秋に完成しました。

明大の校舎は大きく変わりましたが、富士そばと楽器店は変わっていませんでした。



 

内定から着任までの半年をどう過ごしたか

そろそろ各大学でも来年度の採用が決定し、内定を得られた先生方は、現在の勤務先で残務処理をしたり、新生活の準備に心を踊らせていることでしょう。私も内定をもらってから、ちょうど10年が過ぎたので、あの頃どんなことを考えていたのかを思い出してみました。

 

気づいたらもう10年目

facebookの思い出表示などで、10年前に今の勤務先の面接を受け、内定をもらっていたことを思い出しました。

何年も同じところにいて、同じような仕事をし続けていると、自分が着任何年目なのかさっぱりわからなくなってしまうのですが、指折り数えてみたら今年で10年目ということがわかりました。

10年前の秋に内定の通知を受けてから着任するまでの半年間、どのように過ごしていたのかを思い出しながら、こうすべきだったという気づきについても思い出して書いてみます。

 

9月末面接、即日内々定

それまで勤めていた年限付き助手の仕事を終え、専業非常勤講師になって二年目の2013年、私は目についたドイツ語教員の公募につぎつぎ応募していました。大学院を満期退学するころから公募情報を眺めていましたが、本格的に応募し始めたのはたしか助手になって二年目ごろからでした。論文や発表はそれなりにあっても、博士号も留学歴も学振PDもなかったので、どうせ選ばれるわけがないと最初はあまりまじめに取り組んでいませんでした。12年秋にやっと博士号をとって、ようやく本格的に公募に出し始めて一年くらいがすぎたころでした。

当時私は近大、滋賀県立大、京大、龍谷大と4つの大学で12コマの非常勤を担当していました。7月にちょうど近大で公募が出て、私も非常勤に推薦してくれた先生から勧められたので応募することにしました。

8月に二次選考の案内が届き、9月のシルバーウィークごろに面接を受けに出かけました。そのときは、最初の面接だし、だめでも次につなげればいいかとわりと気軽に構えて出かけました。しかし面接では言いたいことがうまく言えず、これは無理だろうなと感じていました。京都のアパートに戻ると、携帯に先方の先生から電話があり、すぐ内々定と伝えられました。

2013年夏、近大の11号館中庭で見た猫。私はすでに非常勤として出講していたので、専任の先生方とは顔見知りだし面接に呼ばれてもあまり緊張はしませんでした。

バラしちゃいけないのにすぐにバレる

こうして専任教員になれることが決まったのですが、この吉報を身内以外の誰にも伝えず4月の着任を静かに待つことが一般的です。

しかし私の場合は、内々定の知らせを得てすぐに周りの人たちに知られてしまいました。

面接に呼ばれたとき、何人か最近専任教員になった友人や先輩、そして学振の受け入れ教員を頼んでいた先生などに、面接の心得をメールで聞いていました。もちろんどこの大学から呼ばれたかは伏せて相談しました。

どの方もかなり具体的に自分の経験した面接の様子や、用意しておくべきこと(シラバスの説明とか、模擬授業用の授業のネタとか、ドイツ語での研究内容の説明など)を教えてもらえて非常にありがたかったです。

私がうかつだったのは、面接が終わってすぐに、決まりましたと御礼のメールを送っていたことでした。そのため私がいなかった学会懇親会の席で、すぐに私の内々定がバレてしまいました。なぜか私はこのときまで、採用が決まっても隠しておかなければならない、という業界のルールをまったく知らなかったのでした

ここから言えることは、面接の相談をしてもいいが、律儀にすぐに結果を伝える必要はないということです。数ヶ月たってから連絡してもいいし、あるいは新年度を迎えて着任後にお礼をすれば十分でしょう。

 

バレて取り消しになるくらいならしょうがない

なぜ採用内定がバレるとまずいのでしょうか。これは多くの人が指摘していることですが、内定者を知った誰かが逆恨みして怪文書を回して内定取り消しになる可能性があるからだそうです。

もちろんせっかく得た内定なのだから、取り消しにされるなんてとんでもないことだし、そのためにはできる限り慎重に振る舞う必要があるでしょう。

しかし逆に言えば、ちょっとした怪文書くらいで内定取り消しにされてしまうような職場なら、やめておいた方がいいでしょう。その後もつまらないトラブルでクビになることもありそうだからです。

うかつに漏らしたことを内定先の先生からも咎められましたが、まだ一円ももらってないのだし、別に内定取り消しになったって痛くも痒くもないわい、と開き直って着任までの時間を過ごすことにしました。

その後一ヶ月くらい過ぎて、学部の事務職員さんから正式に内定したことが伝えられました。そこまでくれば、まあ人に知られても大丈夫です。ただ周囲からは宝くじを当てた人のように扱われるので、やはりあまり大々的に知らせないほうがいいのは確かです

 

別の大学からも面接に呼ばれる

内定を得る直前に、だめなら次はここだ、と思って応募していた別の国立大学から、10月下旬に面接の通知が来ました。この年私はたぶん10回くらい応募しており、近大のあとにもいくつか応募したい公募がありました。近大は経営学部の語学教員ポストでしたが、国立大学の方は人文学部の専門教員のポストでした。

地方とはいえ伝統ある国立大学だし、私としてはこちらのほうが研究環境はよさそうだし、研究者のキャリアを考えても明らかにプラスになると思っていました。

面接には呼ばれたものの、しかし近大のほうはもう正式決定済みです。でもどうしても行きたいし、と一週間くらい悩んで過ごしました。妻からは百貨店がない田舎に住むのは嫌だと言われましたが、私は単身赴任だって全然構わないと思っていました。悩み抜いて京大の指導教員に事情を話したところ、「もう内定出てるんだからそれが君の運命なんや、諦めや」と諭されました。

他の大学であれば、内定辞退してもよかったのですが、私の場合すでに近大に非常勤講師として毎週2コマ教えに行っていました。内定辞退した場合、せっかく採用してやったのに勝手に辞退して迷惑をかけたヤツと冷たい視線を浴びながらあと半年勤務しなければいけません。それはちょっと耐え難いのではないかと思い、面接の一週間前に、辞退することを国立大学に連絡しました。

一定水準を超えると続けて面接に呼ばれるようになると、以前友人から言われていましたが、本当にそうだったと納得しました。

もったいなかったなと当時は思いましたが、国立大学はその後どんどん状況が厳しくなっていったので、結果的には自分の選択が正しかったのだろうと思っています。このへんは本当に運としか言いようがありません。

研究室のソファを探す

内々定を得て、一安心したものの、なかなか専任教員になるのだという実感やよろこびは湧いてきませんでした。

最初に思ったのは、これで自宅ではなく個人研究室に本を置いて仕事ができるようになるのだということでした。

私の研究室が入ることになる11号館。個人研究室は楽しみだけど、建物の古さは気になっていました。

11号館向かいには16号館があり、整った庭園がきれいでした。内定後は新生活を想像しながら、キャンパスを歩き回ってから非常勤の授業に向かっていました。

私も京大時代の指導教員のように、大きな机、壁一面の本棚、そしてソファを備えた研究室を使えるようになるのだと、そう思うとこれからのことがうれしくてわくわくしてきました。

個人研究室にはどのようなソファを置くのが適切なのだろうか、そう思って見つけたのがこの論文でした。

結局ソファをどうするかはよくわからず、今も私の研究室にソファはありません。おそらく研究室のソファは代々受け継がれているものや、退職する先生の部屋からもらってきたものを置いているのだろうと思います。(妻の研究室にも古びた大きなソファがあります)。

 

専任教員っていくらもらえるのかわからない

私が内定を得ても、新生活の実感がまったく湧かなかったいちばんの理由は、給料が分からなかったためです。

すでに非常勤として近大に1年半通っていましたが、はっきり言って非常勤の勤務環境はよくありませんでした。給料は安いし、交通の便も良くない、コピー機の使用に厳しい(授業資料の印刷は一週間前に申請する必要があり、当日教材のコピーを取ることは事務職員さんから嫌がられました。仕方がないので私は同じ日に出講している別の大学で、近大の授業で使うプリントも印刷していました)など、あまり良い印象がなく、もっと近所の大学で仕事が得られれば、すぐに辞めてやろうと思っていたのでした。

もちろん専任教員だから非常勤講師よりはずっと待遇はいいだろうし、私立大学だから国立よりも給料がもらえるのだろうとは分かっていました。しかしどのくらいなのか?そもそも大学の専任教員というのはいくらくらいもらうものなのか、それもまったく予想ができていませんでした。

30歳まで家賃2万7千円のアパートに住み、助手時代までは3万8千円、結婚してようやく7万5千円の家賃を払えるようになった当時の私にとって、目指すべき年収の頂点は、学振PDの約500万円でした。そのさらに上などあるはずがないとすら思っていました。

ネットで検索すれば古いデータですが、主要私大の平均年収は調べられます。それを見れば確かにだいぶいい金額だとわかりますが、本当に自分がそれだけもらえるとはなかなか信じられませんでした。

結局4月末に初任給がもらえるまで、本当に自分がいくらもらえて、どのくらいの生活ができるのかは分かっていませんでした。

 

どこで、いくらくらいの物件を選ぶか

給料が分からなくていちばん困ったのは、引っ越ししてどこでいくらの物件に住めるかわからないということでした。

京都のアパートからそのまま通うこともできなくはないのですが、片道2時間くらいかかります。

東大阪の大学周辺は家賃が安いのですが、妻の仕事のことを考えると近鉄沿線は不便そうです。

学会の名簿でほかの先生方の住所を調べると、奈良市や生駒市、西宮市など大阪の外に住む人が多いとわかりました。

たしかに奈良であれば京都と同じくらい自然が豊かだし、家賃も安そうです。しかし非常勤に行くついでに電車の乗り継ぎなどを確認して、結局阪神線と近鉄線を乗り継いで西宮から通うことにしました。

家賃についても、京都のアパートよりは高くなるものの、専業非常勤時代の収入でも払える範囲の物件を選びました。

 

クルマも買えるかもしれない

家探しと並行して、クルマのカタログを取り寄せたりもしていました。

京都ではロードバイクでどこでも出かけていましたが、専任教員になるならクルマだって買えるかもしれないと思いました。当時は学振DCくらいの収入しかなかったので、クルマを所有するなど夢のまた夢でした

しかし車と言っても通勤にまで使うつもりはなかったので、すぐに買わなければならないとは思わず、結局西宮に引っ越してからちょうど買い替えのタイミングだったので、実家の母から10万キロ乗った中古車を譲り受けました。

 

非常勤をぜんぶ辞める→辞めなくてもよかったのでは

9月に内々定をもらってから、すぐ12コマの非常勤をどうするかを考え始めました。

近大の2コマはすぐに後輩を推薦することができました。

滋賀県立大学については、別の後輩からぜひとも引き継ぎたいと申し出があったので、お願いすることにしました。

京大、龍谷大は後継者を指名できなかったので、先方の教務の先生に任せました。

非常勤講師のコマは、先輩から後輩に受け継がれるものというわけではなく、けっこうその場で体が空いている人に片っ端からお願いするというケースが多いのではないかと思います。

専任教員になるにあたって、非常勤のすべてのコマをいったん辞めましたが、考えてみたら辞めなくても良かったと思います。京大や関西学院のような図書館が充実した非常勤先は、人文系研究者にとってはある意味で財産です。たとえ収入は専任になって倍増しても、充実した図書館を手放してしまっては、研究ができなくなります。

私は近大に勤めはじめ、図書館の使いづらさと文献の少なさに愕然としましたが、その後神戸大や関西学院大など非常勤に出講するようになり、必要な図書をすぐに使える環境を取り戻せました。

私立大学や単科大学に着任する人は、できるかぎり現在の非常勤先や自分の出身校の図書館が使える環境を保持するのがいいでしょう

 

辞めると決まってもあと半年非常勤が残っていた

内定が確定し、非常勤を今後どうするかもすぐ決まったものの、後期の授業やテストは自分でやらなければなりません。来年度からはもうこんなにたくさん授業をしなくてもいいのだと晴れ晴れした気持ちになりましたが、残り半年は消化試合のようなものだなとも思いました。

消化試合と言ってもいい加減に教えていたのではなく、実はけっこうその後につながるいろいろな試みをこの期間に実践していました。

アクティブラーニング型の授業をワークショップで学び、各大学のクラスで、ドイツ語による動画作成のグループワークを行っていました。

このとき京大、龍谷大、滋賀県大の3クラスで実施した授業について、翌年の独文学会で報告しました。考えてみるとこれほど違う大学でそれぞれのクラスに合わせた教授法を実践することができるというのは、専業非常勤ならではの特権でした。

専業非常勤最後の年にふさわしく、非常に充実した授業ができました。なにより頑張って参加していた学生たちに感謝しています。

 

着任までのそわそわした時間をどう過ごすか

私の場合は内々定を得てすぐに、けっこういろいろな人にバレてしまったので、人に隠してひそかに新年度からの生活を想像してほくそ笑むという状況はあまり体験することはありませんでした。

だから逆に、友人や知人が、どのように内定後の日々を過ごしていたのか、あるいはこれから過ごすのかということは気になります。

例えばわれわれの間でちょっと前に話題になったこの公募。今年の9月に締め切りで、着任はなんと2025年(!)の4月です。内定が出てから一年以上もいったい何をして過ごすのでしょう?(もしこの公募に採用された人がいたら、はてな匿名ダイアリーかnoteで手記を書いてほしいです)

最近では、妻が去年の冬に阪大の面接に呼ばれ、年明けの会議をへて内定が決まり、3月に退職し、移動するということがありました。このようなケースはあまりに展開が早すぎ、そわそわした期間を楽しむどころではなかったと思います。自分が担当していたコマを別の教員にお願いすることもできなかったので、妻は現在も前任校の授業を何コマも続けています。

逆に妻の場合は、内定から着任まで二ヶ月くらいしかなかったので、同僚からの嫌がらせ等はなかったようです。もしこれが一年くらいあったりすると、面倒なことも起こりうるのかと思います。例えば、学部や部局の会議で来年度のことを話し合っていても、自分はもうそこにいないわけだし、同僚に対する申し訳なさでなんとも居心地の悪い気持ちを感じ続けることになりそうです。そう考えると、わくわくした日々は楽しいものですが、まあその期間はできる限り短いに越したことはありませんね。

内定が決まったみなさん、本当におめでとうございます。次の春に新しい職場で充実した日々を迎えられることを心から願っております。

 

 

秋の独文学会をふりかえる

日本独文学会秋季研究発表会に実行委員として参加しました

10月14、15日に京都府立大学で日本独文学会秋季研究発表会が開催されました。私は実行委員(会計担当)として参加していました。多くの仲間に助けられて無事職務をまっとうすることができましたが、せっかくなのでどんなことを考えながら仕事をしていたのか、何がたいへんだったのかを思い出しながらまとめておこうと思います。

けっこう分量が多くなったので、以下目次です。

 

日本独文学会では、春は東京、秋は地方の大学で全国大会が開かれ、地方の場合は北海道、東北、関東、北陸、東海、京都、阪神、中国・四国、西日本の9つの支部が順番に開催してきました。

前回京都で全国学会が開かれたのは2014年で、その前は2005年でした。2005年の同志社での学会では、私は博士課程2年目で、2回目の全国学会での発表をしていました。2014年のときも今回と同じ京都府立大学での開催で、私はブース発表でドイツ語教授法について話しました。

以前『ラテルネ』綜輯号の話で書いたと思いますが、現在地方大学のドイツ語教員が激減しており、これまでは9年ごとに開催されていたけど、すでに全国学会を引き受けられない地方支部も出始めています。京都支部はまだ若手からベテランまでたくさん会員がいるので、まだ今後も大丈夫でしょう。

さて、今回の全国学会で、私は会計係に任命されました。なぜ会計なのかといえば、今年度私が京都支部の会計委員になっていたからです。学会の会計委員は、引き継ぎ時の手続きがとにかくめんどうなのですが、ふだんはときどきお金を数えるだけで別に大変な仕事というわけではありません。会員数も京都支部だけなら130人程度なので、会費の管理も苦になりません。

それで全国学会の会計委員を任せられることになり、まあ他の先生がサポートしてくれるだろうし、私は実際に口座からお金を出し入れするだけで大丈夫だろうと、気楽に構えていました。

 

春休み中に最初の実行委員会が開かれた

実行委員のメンバーは全体で20人余りで、支部長の京都府立大学青地先生をはじめ、何度も全国学会を担当されたベテランの先生方から、1回目あるいは2回目の全国学会となる私たち40代の教員、そしてこれからの中心になっていく若手の先生方など、幅広い年齢層のメンバーが集められました。

初回の実行委員会が開かれたのは3月で、ズームでのオンライン会議でした。

このときは青地先生、庶務の筒井先生(京都外大)あたりが中心になり、学会会場、懇親会場の準備、実行委員の役割分担などがどんどん決められていきました。オンライン会議なので私はぼんやりブルーちゃんの写真を眺めたりしていました。

やる気なさ過ぎで他の先生方に申し訳ないと今は思います。

円マークは徐々に慣れてきれいに書けるようになりました。

夏休み前はまだ何もしていなかった

2回目の会合が開かれたのが6月10日で、このときは京都府立大学に出かけ、2つの会議に参加した後、さらに別の学会の編集委員会がズームで行われるので、京都駅の地下街でベンチに座って参加しました。

北大路駅から歩いて鴨川を見ながら京都府大の敷地に入ります。

自然がいっぱい

大きな木が茂っています。

会場の稲盛会館です。北大路駅からだとけっこう時間がかかります。

しかしまだ仕事がたいへんというわけではなく、私はのんきにうどん屋さんでお昼を食べて集合時間に遅刻したりしていました。

夏休み明け、一気に仕事が始まった

その後夏休み中にもいくつかメールでのやり取りがあったのち、急に学会に向けて私も仕事をし始めたのが、9月に入ってからでした。

学会当日の一ヶ月前ごろに、参加費・懇親会費の事前振込が始まりました。事前振込は前回の明治大学での春の学会ではじめて導入され、今回は参加費と懇親会費を別の口座(参加費は独文学会事務局、懇親会費は京都支部)に振り込む形になりました。

会費を振り込んだ人は、Googleフォームで振込の日時を送信することになっていたので、私はゆうちょの口座とGoogleフォームを見ながら、誰が振り込んだのかを確認し、Excelに転記していました。

ちょっと慌ただしくなってきたかなと思う反面、まだそれほど大変ではありませんでした。

 

現金の準備がいちばん面倒だった

10月に入り、当日までに必要な現金を用意することになりました。

現金で払うのは、20人くらい集められたバイト学生のお給料とスタッフのお弁当代でした。さらに事前振込ではなく、当日現金で支払う人のためにお釣りも用意する必要がありました。

前回会計を担当された大阪府大の谷口先生と相談しながら、お札や小銭をどのくらい用意すればいいか考えながら、ゆうちょで現金を引き出しました。学会や研究会などの口座はふつうの銀行口座と違って通帳やカードがないので、さまざまな手続きがめんどうです。現金を引き出す時も、あれこれ書類を記入し、数十分待ってやっと手続きができました。

1000円札の束や500円玉、100円玉の棒を手渡され、重さや量に驚き、学会当日に現金をどう扱うかちゃんと考える必要があると気づきました。そこでAmazonで手提げ金庫を購入しました。

金庫に小銭を入れて、学会の一週間前にバイト代を分ける作業をしました。

バイト学生は30人弱で、それぞれ勤務時間が違います。勤務時間が長い学生には残業手当もつけたので、1円単位の小銭も使いました。筒井先生から送られてきたエクセルを見ながら、お金を振り分ける作業は本当に大変でした。

結局バイト代を封筒に詰めているうちに、当日使う現金が足りないことに気づき、もう一度数十万円分現金を引き出したりしました。

振込記録の照合もたいへん

現金の準備だけでなく、参加費・懇親会費の事前振込をGoogleフォームと対照し、参加者リストを作成する作業もとても手間がかかりました。

 

先に書いたように、振込を二つの口座に分けたため、誤振り込みが相次ぎました。独文学会事務局にも参加費の払込者リストを送ってもらい、当日用のチェックリストを作ったりもしました。

私の中心的な業務は懇親会の参加費を集めることだったのですが、申し込みがなかなか増えずやきもきと過ごしました。

 

当日はてんやわんや

早朝に自宅を出て、9時の集合に間に合うように京都府大に着きました。

出かける直前にブルーちゃんのニャー顔を撮りましたが、その後2日間は忙しくて何の写真も撮れませんでした。

午前中に会場を設営し、お昼ごろから受付業務をスタートしました。

研究発表会が始まる時間になると、一気に受付に来場者があふれるようになりました。バイトの学生たちに領収書の書き方、渡し方などを説明しながら、当日参加費・懇親会費の現金を管理し、懇親会費の領収書を書いたりしました。

多くの友人・知人が来てくれましたが、ほとんどあいさつくらいしかできませんでした。しかしずっと同じように忙しいわけではなく、手が空く時間帯もありました。バイトの学生たちには見たい発表があれば見てきたらいいよと言っていましたが、私は金庫の管理もあるし、結局受付から動くことはできませんでした。

 

懇親会ではお金を気にしながら飲んだ

参加者がなかなか集まらなくて心配だった懇親会ですが、無事予定の人数が埋まり、とても盛り上がりました。人数の割にお店が狭かったため、少し混み過ぎと感じた人もいたかもしれません。いずれにせよ盛況に終わりました。

 

せっかく地元で開催されるので、分野は違うけど妻を呼んで、研究仲間や出版社の方々に紹介したりしました。

いつもなら手放しでいっぱい飲んで、いろいろな人と話したりできる懇親会ですが、今回は金庫やバイト学生に渡す給料袋も持ち歩いていたので、とにかく飲み過ぎないように注意して過ごしました。

懇親会が終わり、二次会に参加してもやはりあまり飲みすぎるわけにはいかないと自制しながら日付が変わる前にホテルにチェックインしすぐに熟睡しました。

 

私たちは学会屋さんじゃないのに

二日目は一日目よりも気楽でしたが、ちょっと嫌なこともありました。

年配の先生から学会のプログラムが印刷されていないのはおかしい、会費を払っているのだから予稿集は印刷して配布されるべきだ、いったいなにに金を払っていると思っているのか、とかなりキツイ口調でおしかりを受けました。

受付には私よりも偉い先生が常駐していたのに、たまたま誰もいない時間帯だったので私が主に怒られていましたが、受付に座っている学生が機転を効かせてコピーしていたプログラムをその先生に渡して、怒りを収めてもらえました。

本来なら自分がちゃんと対応すべきときだったのに、学生に気を使わせてしまったと反省する一方、なんで私がこんな問題で怒られなければならないのかと腹立たしく思いました。

プログラムを印刷しないというのはもう数年前から始まっていたことだし、受付担当の私は予稿集のことには一切関与していません。私たち実行委員は学会屋さんではなく、来場者のみなさんと同じ研究者仲間なのに、こういう扱いを受けるのは本当に残念だと思いました。

 

久しぶりの達成感

発表会が終わり、後片付けを済ませ、学生バイトに給料を手渡しするとやっと二日に渡る学会が終わりました。失敗はいくつかあったものの、全体的にうまく終えられたし、信頼できる実行委員の仲間と一緒に仕事ができて、心地よい達成感を得られました。

大学院を出てから一貫して大学教員しかやってこなかった私は、考えてみたらこんなふうに他の人と一緒に仕事をすることはこれまでほとんどありませんでした。もしかしたら高校生の頃生徒会役員として学園祭をやったとき以来の感覚かもしれないと思いながら京都から大阪へ戻りました。

大阪への新快速は混んでいて、金庫をリュックに入れたまま立ち続けた私は、へとへとに疲れてしまい、大阪駅から自宅までのバスでは、わずか15分くらいの時間で、4、5本の短い夢を立て続けに見ていました。

 

会計係の学会はまだまだ続いていた

学会当日が終わり、これで会計係の仕事も終わり、とはなりませんでした。考えてみるとここから先もまだ仕事があれこれ残っていました。

当日から一週間後には、懇親会場のレストランに費用を払い込みました。ゆうちょダイレクトでは大きな金額を振り込めないので、郵便局に出向いてまた書類を書いたり、しばらく待ったりして手続きをしました。

さらに独文学会事務局に当日支払われた参加費を送金するため、参加者リストと受け取ったお金を正確に算出する作業をしました。これは参加費担当の谷口先生がきっちり確認してくださったので、楽に作業ができました。

そして学会事務局から収支報告書のサンプルを送っていただき、研究発表会、懇親会それぞれの収支報告をエクセルで作って実行委員のみなさんに確認してもらい、やっと11月なかばに学会事務局に最終的な書類を提出することができました。

じつに学会当日から一ヶ月が経過して、やっと自分が担当する仕事がほぼすべて終わりました。(まだ学会事務局へのお金の払込が残っていますが、来年1月に収支報告が理事会で通ってから送金することになります)。

他の実行委員メンバーや学会に来た友人知人から、会計係ばかり仕事量が多くてたいへんだと労いの言葉をかけてもらえましたが、まあ日頃そんなに忙しくもないし、たまにはちゃんと仕事したという充実感が得られてちょうどよかったかなと思っています。

ふだんから私はあまりみんなの先頭に立って仕事をとりまとめたり、まじめな仕事ぶりで尊敬を集めたりするほうではないのですが、今回はやっと京都支部に貢献できたようでうれしく思っています。

長くなりましたが、今後おなじように学会の会計係をすることになった人や、次に全国学会が回ってきた時、たぶん同じように会計係をすることになろうであろう将来の自分のために、記録を残しておきます。