ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

ドイツ現代文学ゼミナールの楽しみ

コロナ禍から完全復活した現文ゼミ

このブログでも何度か取り上げてきたドイツ現代文学ゼミナールですが、この春は東京八王子の大学セミナーハウスで、3月4日、5日に開催しました。

私は数年前から幹事の一人として運営に参加してきました。コロナ禍では数回にわたってオンラインのみの実施となりましたが、今回は私が持参した機材を使ってハイフレックス形式で実施できました。

これまでの数回は、コロナ前より発表者を少なくしてじっくり議論ができるようにと配慮していましたが、今回は一日目と二日目で合計4人が発表するという以前の形式に完全に復帰できました。

 

会場は八王子の大学セミナーハウス

以前は、毎年春(3月)は箱根、秋(9月)は信州、のちに琵琶湖で開催してきましたが、コロナの直前に箱根の会場としていた宿が閉館となってしまい、ここ数年会場を探しながらオンラインおよび都内の大学を対面会場として続けてきました。今回初めて大学セミナーハウスを利用しましたが、料金が安く、設備も整っていて利用しやすいと思いました。

学部時代東京に住んでいた私ですが、八王子はまったく土地勘がなく、JR八王子の駅で降りたのもおそらく10年前の東京外大での学会で、八王子駅周辺に泊まったとき以来でした。

八王子駅南口からバスに乗りました。

バスで20分ほど行った山の中に、大学セミナーハウスの建物がありました。

この施設は、山の斜面にいくつもの建物が点在していて、建物間は遊歩道や階段で結ばれていて、自然散策を楽しむことができるようになっています。しかし大量の荷物を持っていると移動がとても大変でした。

やや古く、凝った作りの建物群を見ながら、地元にあった少年自然の家を思い出しました。小中学生の頃宿泊研修で何度か泊まりましたが、毎回どの部屋にお化けが出る等の話題で盛り上がりました。

夕食。ホテルではなく研修施設なので、食堂は学食ふうですがとても美味しかったです。

泊まった部屋から窓を開けると一面木々ばかりの景色が広がっていました。

 

若い人の活躍から中堅世代も刺激を受ける

一日目は、午後に共通テクストJan Peter BremerのDer junge Doktorandについての討論があり、その後夜にリルケ『ドゥイノの悲歌』についての発表がありました。二日目はファスビンダー映画について、およびエスター・キンスキーの『ロンボ』についての発表とディスカッションが行われました。

ズームでの配信のためにSONYα6700をウェブカメラとして使用しました。

毎回発表者は希望者を募ったり、私たち幹事が声をかけたりしているのですが、今回はかなり若い人たちが手をあげてくれました。学部4年生から博士課程1年生までと、これまでになく若い学生の発表を多く聞いて、私も非常に刺激を受けることができました。

学会や学会誌の査読等で、若い研究者のしごとに触れる機会はときどきありますが、やはりまだ論文になる前の研究発表の方が、よりどういう意図や関心で研究をしているのかがよくわかり楽しいです。修士課程や博士課程に上がったばかりくらいの院生がどのように研究の方向性を作ろうとしているのか、どういう点で苦しんでいるのかといったことをより近くで感じることができました。

日頃学生の研究指導をする機会がない私のような教員にとっては、若い研究者の発表を聞ける機会はとても貴重です。

すごいなあと感嘆することも、20年前の自分と同じような挫折をしているなあと思うこともありました。

 

同世代の仲間や他大学の先生との貴重な出会い

現代文学ゼミのいいところは、それほど多くない参加者と一晩ともにすごし、いろいろな話ができる点です。私が最初に参加した2000年代前半の頃は、ちょうど大学院重点化と就職氷河期が重なり、どの大学にもたくさん院生がいました。この研究会も、参加者の半数以上が院生だったと思います。そこで知り合った他大学の院生とは、その後もずっと現在まで交流が続いています。

また、同世代の仲間だけでなく、他大学の教員から自分の研究に意見をもらえるのもたいへん貴重な機会でした。どこも同じようなものだと思いますが、大学院では指導教員からの個人指導になりがちです。こういう場で若い学生の話を聞くと、たいてい指導教員とうまく話せない、恐れ多くて気軽に質問できない、といった悩みを抱えています。私もよく分かりますが、指導教員がどんなに優秀でいい先生でも、教わる学生がそのまま優秀な研究者になれるわけではないし、逆に気後れしたり萎縮したりしてしまって苦しむことも多々あります。

現代文学ゼミのような場は、他大学の仲間だけでなく、他大学の先生を見つけるための場としてもたいへん有益です。

 

学会発表になる前の未完成な発表だっておもしろい

現代文学ゼミナールは「学会」ではないので、しばしばしっかりと論旨がまとまっていない研究発表もあります。私がこれまでにしてきた発表も、学会発表や投稿論文の下書きのような「生煮え」の発表ばかりでした。

しかし、そういったまだ未完成の研究の話をして、多くのコメントをもらう場が、この現代文学ゼミの一つの意義であると思います。

優秀な研究者の話を聞くのももちろん面白いし有益ですが、未完成で不足が多い研究であっても、どうやったらもっとおもしろい研究になるかを参加者が共同で考え、議論することができるので、やはり価値があるといえます。

 

おじさん教員たちのあり方も確実に変わってきた

私が参加し始めた頃に比べると、おっかない先生は明らかに減りました。それがいいことなのか悪いことなのかわかりませんが、少なくとも若手が萎縮して発表したり発言したりしづらくなるのは良くない点だったはずです。

私たちの少し上くらいの世代から、あまり頭ごなしに批判するような先生を見ることはなくなりました。学生指導の経験がある人も、ない人も、より対等な立場で親切なコメントをする人が現在では大半を占めていると言っていいでしょう。

そして怖い先生が少なくなったために、これまで以上に研究歴の浅い若い人たちが積極的に参加したり、発表や発言をしたりできるようになっているのであれば、それは本当に素晴らしいことだと思います。今回のように若い発表者ばかりであることは、やはり参加者全体にとってプラスの意味があったと私は思いました。

 

次は秋の琵琶湖

3月のゼミが終わると、すぐに次回の準備を始めることになります。次は、例年通り滋賀県の近江舞子で開催します。琵琶湖を望む美しいホテルで、また盛んな議論ができることを期待しています。なお、次回からは遠方から参加する学部生、大学院生にはなんらかの補助を行うことを考えております。詳細については後ほどお知らせいたします。

去年の琵琶湖。9月初旬はまだまだ夏の日差しでした。

 

東京外大谷川ゼミの思い出

谷川道子先生を送る

つい先日、1月9日に東京外大名誉教授の谷川道子先生が亡くなられました。ブレヒトやハイナー・ミュラーなどドイツ現代演劇を研究されていた谷川先生ですが、私は明大文学部4年生の頃に、一年だけ東京外大大学院のゼミに入れてもらい、卒業論文の指導を受けていました。

1月14日の日曜日に通夜が、お連れ合いの鷲山恭彦先生の故郷である掛川市で行われ、私はちょうど休日だったので新幹線で参列して、最後のお別れをしてきました。

会場では思い出の写真がスライドショーで流れていました。

大阪へ戻る新幹線を待つ間に、献杯ではないけど、寒い中ビールを飲みました。

谷川先生のもとで学んでいた日々も、もう25年も前のことになるのかと驚く一方、振り返ってみれば、あの出会いや谷川ゼミでの一年間もまた、今の自分の出発点の一つだったと実感しています。

 

1999年、大学4年生だった

大学に入った当初のことは最近振り返りました。

schlossbaerental.hatenablog.com

それから3年が過ぎ、4年生になった1999年、この年はいろいろなことがありました。

このブログを始めたばかりのころに書いた、アパート立ち退きの話もこの年の秋のことでした。

schlossbaerental.hatenablog.com

周囲の友人たちが就職活動を始めたのは、3年生の終わり頃でしたが、私は春休みもドイツに出かけ、現地で演劇や映画を見て過ごしていました。当時の明大文学部は研究者を目指して進学する学生などはほとんどおらず、みんな就職活動を始めていました。私も当初は企業説明会に参加したりするつもりでしたが、やはり進学してもう少しドイツ語や文学の勉強を続けたいと思うようになりました。(このころは修士課程を終えてどこかに就職できればいいや、と考えていました)。

4年生になる直前の春休みに、兄とともに新宿西口でiMacを購入。すぐ使いたいので持ち帰ったのですが、あまりの重さでふたりともへとへとになりました。

ベルリンで見たハイナー・ミュラーを卒論に選ぶ

卒業論文の題材に何を選ぶかは、3年生の後期ごろから友人たちと話し合うことも多かったし、私自身もいろいろな可能性を考えていました。好きだったゲーテの『ヴェルター』やノヴァーリスの詩も気になるし、印象に残っていたマンの『ブッデンブローク家』もいいし、あるいはより難解なツェラーンの詩も気になる、という具合でした。

このころ好きだった作家や作品はその後自分の講義などで何度も取り上げることになりました。

研究であるからには、独自性のあるテーマでなければならない、それならばまずは誰も選ばなそうな作家・作品について書く必要がある、と考えました。あれこれ迷った末、自分が知っている中でいちばん現代に近い、東ドイツで活躍した劇作家ハイナー・ミュラーの作品をテーマに選ぶことに決めました。

ja.wikipedia.org

今思うとこれは非常に危険な考え方です。独自性とは珍しさではありません誰もが知っている有名な作品であっても、いくらでも独自の研究はできます自分が凡庸だと見なされることを恐れて、誰もいない荒野を探すのは文字通り不毛なことです。

谷川先生が訳されたミュラーのインタビュー集。戯曲作品の翻訳とともに、何度も繰り返して読みました。

東京外大の大学院ゼミに入れてもらう

ドイツを旅行しているときにたまたま東京外大の修士課程の院生(たしかTさんというテレビ局に就職される方でした)と知り合い、卒論や進学の相談をしているうちに、そのテーマなら谷川先生に見てもらうのがいいと勧められ、帰国後にメールでやりとりして谷川道子先生に紹介してもらえることになりました。

4月の学期初めに、まだ北区の西ヶ原にあった東京外大に案内され、最初は大学院の事務室で過去問をコピーし、その後谷川先生の研究室に行きました。この過去問が、何十ページにもわたっていて、問題文のドイツ語の量を見て、これは一年勉強したくらいでは到底合格できまいと強く思いました。

谷川先生は、見ず知らずの外部の学生である私をあたたかく迎えてくださり、翌週から大学院の購読のゼミに出ていいと言われました。

 

墓地を歩いて大学に通った日々

こうして幸運にも学部4年生にして大学院の授業に出る日々が始まりました。明大は規模が大きいため、ほぼ全ての授業が学年ごとに分かれているし、学部生と院生が交流する機会はほぼありませんでした。その後進学した京大でもおどろきましたが、国立大学の場合、学年の違いはほとんど関係なく、学部生から若手の教員までいっしょにゼミで学ぶ場があたりまえのようにあったのでした。

大学院のゼミには、私の他に三人の院生がいました。M2に表現主義芸術を研究するKさん、M1は二人いてたしか現在完了形とかそういうのが専門だった言語学のIさん、そしてお名前は失念しましたが言語学専攻の男性の方。また、OBとしてすでに非常勤講師をされていたホフマンや児童文学が専門のHさんもときどき研究室に来られていました。

Kさん、Iさんはお二人とも専任教員としてご活躍されています。Hさんも翻訳家としてさまざまな本を出されています。(あと非常に売れてるドイツ語教科書も書かれていますね)。

ゼミでは、何を読んでいたのかあまり覚えていないのですが、ミュラーの作品ではなく、ミュラー作品の上演についての論文を読んでいたと思います。難しくて予習もままならなかったのですが、毎週先生やゼミのメンバーと会うのが楽しみでした。

東京外大の旧キャンパスまでは、巣鴨から染井霊園を歩いて行っていました。都電荒川線の駅が近いのですが、私は広々した静かな墓地を歩くことが気に入っていました。この墓地には著名人の墓がたくさんあるのですが、それ以上に大小様々な名も知れぬ誰か墓石を見ているうちに、それぞれどんな人生を送ってきたのだろうと考えるのが好きでした。墓地の中を歩きながら、いろんな人の人生の記憶とは何だろうと考えていたことは卒論の着想につながりました。

当時私は進学にかかる費用をためようと平日昼間はほとんど西新宿にある通訳・翻訳・国際会議などの会社でバイトしていました。その合間に外大のゼミや、明大での指導教員との面談(学期に数回だけでしたが)に行ったり、そして図書館に出かけて資料収集などをしました。

 

ゼミ合宿と卒論中間発表、そして院試

谷川ゼミでは、毎年夏休みにゼミ合宿が行われるとのことで、外部メンバーである私も誘っていただけました。例年は、鷲山先生のご実家である掛川市で行われるのですが、99年は何かの事情でそのお家が使えなかったため、喜多見にある先生のマンションで二日にわたって通いのゼミ合宿が開催されました。

ゼミ合宿では、学部4年生や院生が研究内容を発表します。ここで私ははじめて自分の研究テーマについて報告しました。明大には卒論ゼミがなく、夏休みの段階では、まだ指導教員とちょっとした茶飲み話程度の面談しかしていなかったのでした。

はじめてのゼミ発表ということで、卒論で書けそうなこと、今関心を持っていることなどを箇条書きにしてたどたどしい話をしましたが、谷川先生やゼミのみなさんからは、非常にありがたい励ましをいただけました。

ふだん院ゼミに出ていた私は、このとき初めて学部ゼミのメンバーと顔を合わせました。なかでも同級生のH.Mさん(翻訳家のHさんと紛らわしいのでH.Mさんとします)とは意気投合し、それぞれの友達をまじえて家飲みをしたり遊んだりしました。

夏休みの終わり頃に京大の院試があり、二次試験では研究計画のような論述問題が出たのですが、夏休みにゼミ発表をしていなければ、答案を書くことはできなかっただろうと思います。

(京大総合人間学部A号館。私が修士課程の頃まで古い校舎が残っていました。受験時、もう来ないかもしれないと思い写真を取りましたが、まさかその後10年以上通うことになるとは)

京大の院試に合格しましたが、谷川先生には他の志望校も全部受けて、合格してから選べばいいと勧められていました。当初は京大のほかに東大総合文化研究科(駒場)と外大院を受験する予定でしたが、どちらも入試問題が難しく、一回で合格するのは無理そうだと判断し、結果的に受験をやめて京大院を選びました。

 

多和田葉子さんの朗読会にも参加

秋頃には一橋大学で行われた、多和田葉子さんの朗読会にも誘っていただきました。

当時私は毎日のように詩を書いていて、言葉遊びを多用する多和田さんの作品には大きな刺激を受け、朗読会でじっさいにご本人とお話しできて感動しました。

今思うと、あのころ書いていた詩というのは、日常で感じるふとした着想になんらかの言葉によって形を与えようという試みであって、おそらく今のSNSでのつぶやきや、写真やブログなどの表現の原型とも言えるものでした。

谷川先生の下には、数年前に亡くなられた一橋の古澤ゆう子先生も写っています。

このとき初めて中央線に乗って国立で降りて一橋大に行ったのですが、帰りは谷川先生と一緒に谷保から南武線に乗って小田急線で帰ったのを覚えています。(私は引っ越して豪徳寺に住んでいました)。

 

卒論を書き進める

院試が終わってしばらくたって、ようやく卒論を書き始めました。当時私は初代iMacを使っていたのですが、白いワープロソフトの画面と向き合いながら文章をひねり出すのが苦手で、最初はルーズリーフに手で文章を書いていました。10枚程度メモがたまると、Macに文章を移していくといった具合に少しずつ分量を増やしていきました。

この時期もゼミに毎週出ていたのかよく覚えていないのですが、谷川先生には洋書を研究費で注文していただき、それをお借りして少し読んだりしていました。結局卒論にはほとんどドイツ語の二次文献を使うことはできませんでした。

一月のなかばごろが明治大学の提出締め切りでした。一月末ごろに谷川ゼミでも卒論の報告会がありました。先生からは、自分の言葉で書けていると褒めていただけました。

このときは他の学部ゼミのメンバーも来ていて、ドイツ語教員仲間として現在も交流が続いている歴史学のBさんとはこの機会に知り合いました。

研究室で祝杯を上げて、さらに夕方から学生だけで巣鴨でたくさん飲みました。

不義理な教え子だった私

先に書いたように、東京外大の院試は受験せず、京大に進むことを選んでしまったので、谷川ゼミは卒論までで抜けることになりました。

修士課程に入った後で、移転した府中キャンパスで全国学会が行われ、そのときは私も先生やゼミのみんなと会いに東京に出かけました。

しかしその後は以前も書いたように研究で行き詰まり、修士課程で2年も留年し、さらに現代演劇からはかけはなれたテーマを選んでしまったので、谷川先生とは連絡が取りづらくなってしまいました。

博士論文を書き、専任教員になり、それなりに業績をつんでこの業界で生きていけるようになったものの、昔の不義理をいつかおわびしなければいけないなとずっと思い続けていました。

結局ご存命の間に、もう一度会うことも連絡をすることもできなかったのですが、お通夜で祭壇を前にして、これまで教えていただいたことへの感謝を伝えました。

 

いつも思うけど、先生に習うことは難しい

以前恩師が亡くなった時も、それからこれまでの研究生活を振り返っても、私は運良く素晴らしい先生と出会い、教えを受けてきたと思っています。

いっぽうで、谷川先生を始め、それぞれの先生方からちゃんと指導を受けることはできていなかったと反省しています。教えられたことを素直に聞けなかったり、そもそもゼミから逃げたり、会える機会をあえて避けたりしたことも多々ありました。

前にも書いた気がしますが、学生を教えることを仕事にしている今、むしろ教わる側、教師ではなく弟子としてのあり方のほうが、ずっとずっと難しいものだなと痛感します。

 

教えられたことを反芻しながら

新幹線で掛川へ向かう間、2020年に出た『多和田葉子/ハイナー・ミュラー 演劇表象の現場』を読みながら過ごしていました。

 

谷川先生の文章を読むと、ほんとうに当時の先生の声や口調を思い出しました。

退職されて10年ほどたって書かれた本ですが、先生はあのころと全然変わっていないなあと感じました。

多和田葉子さんのハイナー・ミュラー研究や創作との関係について、谷川ゼミ出身のHさん、Kさんの書いた文章を読んで、西ヶ原のキャンパスまで歩いて行った道や、ゼミでの日々、ゼミ合宿などの思い出が蘇ってきました。

私自身はあのころ関心を持っていたテーマからはずいぶん離れてしまったとはいえ、やはり自分自身の中では、連続性があるようにも思います。

ふたたびドイツ現代演劇の研究をすることはないでしょうが、あのころ谷川ゼミで学んでいたこと、先生から教わったことを反芻しながら、自分の研究を続けていこうと思います。

あの頃どんな授業に出ていたのか? 1990年代後半の学生時代

 

昔は大学の授業なんて出てなかったし勉強していなかった→本当なのか?

昔からよく大人たちは、学生時代は勉強しないで遊んでばかりだったと回顧していたものです。それこそ私が学生の頃から、自分たちの頃は毎日雀荘に入り浸っていたとか、授業になんて出ていなかったと語る人はたくさんいました。

私自身も、学部生の頃はあまり真面目に勉強していなかったし、当時はそれなりに頑張っていたと思っていたものの、大学院に入ると自分がいかに怠慢に過ごしてきたかを思い知らされました。

たしかに今と昔では、大学の制度も学生たちの気質もだいぶ変わってきています。ではいったい何が変わったのか、そして授業に出ていなかったという昔の学生は、いったい大学で何を学んでいたのでしょうか?

ちょうど学部時代の成績証明書が見つかったので、自分が一年の浪人後にどのように大学で学んでいたのかを、予備校時代の思い出の続編として書いてみます。

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結論から先に書くと、私は大人たちがいう、「学生時代は勉強してなかった」という言説はあまり真面目に受け取るべきではないかもと思っています。そこには、怠惰に学生時代を過ごしてしまった後悔や、本当はいま勉強したいのだという願望や、先のことを考えずに遊びにも勉強にも熱中できた学生時代への憧憬など、さまざまな感情が含まれているのだと思います。私は必ずしも昔の大学生が大学にも行かず、勉強もしていなかったわけではないという立場から自分の思い出を書きます。

 

成績証明書を見直す

10年前に今の職場に着任するにあたって、学部や大学院の成績証明書や学位証明書などを取り寄せて提出しました。そのさいに母校から送ってもらったのが、この成績証明書です。

取得単位はこれがすべてではなく、右側の列にも続いていたと思うのですが、主なものはこちらの写真に写っているとおりです。

当時、各科目は通年で履修登録しているので、講義科目等は4単位、語学や体育などは2単位となっています。現在はそれぞれ2単位、1単位ですね。現在はどの科目も半期ごとに成績をつけます(また講義科目は半期の15回で1セットになっています)が、昔は通年で一区切りだったので、語学科目は夏休み前に期末テストがあったものの、講義科目は夏休み中に課題レポートを書き、後期に期末試験または期末レポートを出すという形式でした。

上の方に並んでいるのが必修科目のドイツ語、英語、体育、そして独作文や独語学、独文学史などで、それにつづいて専攻選択科目、共通選択科目が並んでいます。たぶん写真の範囲外に卒業論文など3、4年生で習得した科目が記載されていたはずです。

どの科目をどの学年で履修していたのかは書いていないので記憶があやふやな点もありますが、当時何を考えて、どの科目を履修していたのかを思い出してみます。

 

文学部に入るとほとんど語学の授業だった

明治大学和泉キャンパス第一校舎前。10年前に学会にいくついでに寄り道していました。

大講義室があった第二校舎。1年生の頃には共通選択科目の講義などがありました。現在この校舎は無くなり、新しい建物になっています。

1996年に明治大学文学部に入学した私ですが、私立文系専願というわけではなく予備校では国立文系コース、しかも二次試験まで数学を使うつもりで勉強してきたので、予備校の時間割には常に数学も理科もありました。

大学に入って最初に驚いたのは、シラバスや履修要項を見ると数学も理科もなく、ほんとうに文学や語学の授業しかないのだなということでした。あれほど苦手で苦労してきた数学や理科を今後はほんとうにまったく受講しなくていいのだと分かると、安心する反面、ああやっぱり自分は受験に失敗したのだ、私立大学にしか入れなかったのだと落胆する気持ちもありました。たぶん国立大学であれば、膨大な数の選択科目から自然科学科目を履修することもできたのでしょう。

それはともかく、1年時には週に3コマのドイツ語、2コマの英語、それに加えて独語演習やドイツ語会話など実質的な語学科目もあったので、一週間の授業の半分くらいは語学でした。

英語は好きだったし、ドイツ語がやりたくて独文学専攻に入ったのですが、いくらなんでも語学しかないじゃないか、これではどうやって文学の勉強をすればいいのかと途方に暮れました。

そして新たに学び始めたドイツ語の授業が毎日続くので、一度授業についていけなくなると、あっというまに落ちこぼれてしまいました。写真にあるように、ドイツ語科目で可が並んでいるのは、1年生の成績です。(その後1年生の春休みにドイツへ旅行し、2年生からまじめに勉強し始めることになりました。そのときの旅行はこちら。)

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語学くらいは真面目にやらないと卒業できなくなってしまう

私は大人たちがいうことを真に受けて、大学生というのはまじめに勉強せず、授業にも出席せず、モラトリアムの時期を楽しむのが正解なのだと思っていました。そして夏休みも冬休みもなく朝から晩まで予備校で過ごした、大宮での浪人時代の反動もあったことでしょう。

「大学に入ったら授業には真面目に出なくていいし、遊んで過ごしてもいい」という言葉とともに、「しかし必修の語学や体育にはちゃんと出ておかなければならない」という補足もおそらく私の耳に入っていたはずでしたが、都合の悪いことは聞かなかったことにしてしまうものです。私は1年時にドイツ語も体育もさぼりまくってしまいました。

その後2年生以降は毎日大学に行き、たくさん授業に出席することでこれまでの遅れを取り戻しました。

語学や体育は再履修クラスでやっと単位が取れたので、やはり昔の大学では授業に出なくても良かったというのは都市伝説でしかなかったと思います。

 

 

講義科目もいろいろあった

成績表に掲載されている、専攻選択科目や共通選択科目など、おもに1,2年次に履修した講義科目を中心に、どんな授業だったのかを思い出して書き出してみます。

専攻の専門科目のほうが当然よく覚えているのですが、そちらは別の機会に書きます。

 

心に残っている授業

劇場論

演劇学専攻の先生が担当されていた講義科目です。シェイクスピアのグローブ座のことや、鴎外が滞在していた当時のベルリンの演劇事情などの話しを覚えています。たぶんこの授業で聞いた話が、3年生のときにベルリーナー・アンサンブルやドイチェステアターに通っていろいろな作品を見る下地になっていたと思います。しかしなぜか成績は可。

戯曲作品研究

こちらも演劇の先生の授業ですね。『オイディプス王』がテーマで、戯曲テクストを読み、パゾリーニの映画版を視聴した記憶があります。『ハムレット』もこの授業で精読できました。前期後期で、『オイディプス王』と『ハムレット』の二作品を取り上げたのかもしれません。

西洋思想史 

予備校で小論文を習っていた石塚正英先生が出講されていました。私が1年時にいちばん楽しみだった講義です。西洋思想史となっていますが、中身は社会思想史でした。大講義室でけっこう大人数の講義だったので、毎回先生と顔なじみの私が出席表を配布する係をしていました。

あれから25年くらいたっているのに、石塚先生が大学を退職後も旺盛に執筆されていることにいつも驚きます。

 

今年のはじめにも新刊が出ていました。これは面白そうなのでぜひ読んでみます。

芸術学

2年生のときに、大量の単位を取らなければならないので、仕方なく土曜日まで授業を入れた結果出会えた素晴らしい講義でした。谷崎潤一郎を中心とした比較文学的な内容でした。この授業で谷崎作品が好きになり当時熱中して読みました。文学部の共通科目だったため、同じ専攻から受講している友人はいませんでしたが、他の専攻の友人ができました。

 

比較文学

4年生のときに履修していた唯一の講義科目(あとは卒論ゼミだけ)でした。講師は阪大を退職したばかりの小谷野敦先生で、ちょうど私も『もてない男』を読んで感銘を受けたところだったので、毎週楽しみに受講していました。夏目漱石作品について詳しく紹介されていたので、その後大学院に入る頃までいろいろな漱石作品を読みました。

 

印象に残っているが、単位は取れなかった授業

現代思想 

哲学にあこがれていた(のだけど当時の明大文学部には哲学専攻がなかったので独文にしました)私としては、現代思想=現象学や構造主義やポスト構造主義の話だろうと勝手に思って受講しました。しかしこの授業ではいつまでたってもフッサールもハイデガーもデリダもドゥルーズも出てきません。いったい何の話をしているのだろうとわけもわからず過ごしていましたが、今思うとあの授業で扱っていたのはアメリカ現代思想でした。担当されていた先生は青土社から翻訳を出すなど活躍されていました。

難解過ぎて途中で単位取得をあきらめ、コンビニの夜勤明けに半分眠りながら受講していました。

 

西洋音楽史

高校時代は芸術の選択授業は音楽を履修していたので、もうちょっとちゃんと勉強してみたいと考えて受講しましたが、さっぱりわからず挫折しました。モテットの話をしていたことくらいしか覚えていません。私と同様なんとなく受講した友人たちは軒並み途中で受講を諦めたり、期末レポートを提出しても単位が取れなかったりと厳しい授業でした。

 

授業は覚えていないが単位を取っていた授業

人文地理学 

たぶん授業には出ず、友人にもらったコピーを持ち込んで期末テストを乗り切って単位を取得したのだと思います。そうそう、もらったコピー持ち込みで楽勝科目、というのも昔はときどき聞いたように思います。私が受けていた授業では、この科目だけでした。

日本国憲法

教職課程の必修科目なので履修しましたが、教職の他の科目がつまらなくて、早々に諦め、なんとか憲法の単位だけは取りました。あまり授業に出た記憶はありませんが、試験勉強のためにいちおう第何条に何が書いてあったかということは復習しました。

 

独語学概論 

明治には当時言語学の先生がいなかったので、東大駒場の有名な先生が来られていましたがが、全く内容を覚えていません。専攻の学生がほとんど受講する科目だったので、とりあえずみんなが履修していましたが、ちゃんと理解できていた学生がどれくらいいたのか疑問です。(たしか同じクラスに有名なドイツ語学者のお嬢さんがいたので、みんなが彼女に質問して教えてもらっていました)。試験もけっこう専門的なことを問われました。一夜漬け程度の勉強はしていましたが、なぜ単位がとれたのかわかりません。

 

授業に出なくても単位が取れたわけではないが、やっぱり勉強は足りていなかった

昔の大学でも今と変わらないくらい授業に出なければならなかった

こうやって大学入学当初に受講していた科目を振り返ってみると、たしかにあまり内容が頭に入っていなかったり、ほとんど出席していなかったりする科目もあるにはあると分かります。

しかしいっぽうで、演劇や芸術関連の講義や語学や体育などは、毎週しっかり出席し、レポートを書いたりテストを受けたりと、今の学生とほとんど変わらないやり方で(もちろん大規模私学だったので発表や反転授業などはほとんど行われていなかったのですが)勉強していたとも言えます。

出席表もリフレクションペーパーもすでにあった

昔の大学はおおらかで出席も取らなかったし、代返もやり放題だったという話もよく目にしますが、これも私にとっては都市伝説のようなものでした。石塚先生の講義で出席表を配る係をしていたと書きましたし、他にもいくつかの授業で出席表やリフレクションペーパーを提出することはありました。もちろん現在のように半期14〜15回の授業が義務付けられているわけではなかったのでときどき休講はあったし、学生の出席率も(一部必修科目以外は)それほどきっちり確認されていませんでした。

やはり違いは昔の学生の気質によるものというよりは、大学の成績評価や単位の数え方など制度的な違いが大きいように思います。

セメスター制より通年評価のほうが良かった面もあるのでは

最初の方に書いたように、昔は通年で成績評価していたのが、現在はセメスター制(あるいはクォーター制)になってしまったというのも大きな違いです。今私が教えている講義科目は半期15回で終わる内容になっていますが、昔の大学であれば、一つの講義が一年続くのでもっと内容を深めることができたはずだと思います。

語学の勉強は昔の学生の方がまじめにやっていたのでは

私は文学部の外国文学専攻だったので、当然のように4年間ひたすら語学ばかり勉強していましたが、他の学部でもかつてはもっと第二外国語のコマ数が多く、場合によっては4年生になっても必修の第二外国語の単位が揃わなくて苦労していた人もいたようです。

現在は第二外国語は少なからぬ大学で、週1コマ、1年あるいは半年のみの履修で単位が足りるところもあります。第二外国語の重要度が下がる一方で、他の分野の学習が充実しているのは確かでしょうが、逆にドイツ語教員の私としては、昔のほうがむしろ語学の学習については充実していたのだろうと思います。

文学部でなくても2年生まで語学を勉強するのが当然だったし、3年生以降も専門書を購読する授業が多く開講されていたというのも今から見ればだいぶかけ離れた状況でしょう。

それでもやはり勉強していなかったと思う

しかしそんな「昔は良かった」的な大学で学生生活を過ごし、それなりに時間をかけてドイツ語を勉強してきたはずの私ですが、大学院に進むと、いかに自分が遊んでばかりいて不勉強だったかを思い知らされました。前にも書いたように、私は修士課程だけで4年もかかってしまいましたが、そうなった一番の理由は、基礎学力の不足でした。

ひょんなことから高校野球の名門校に入ってきた田舎の少年が、自分がそこそこ活躍できてた田舎の軟式野球とのレベルの違いにショックを受けるように、私は研究者を目指す院生たちの学力や学習意欲に驚き、自分がいかに小さな世界にとどまっていたかを痛感しました。

それで私もいまでは、学生時代は勉強していなかったなあと回顧するおじさんになってしまいましたが、よくよく考えると、それでも当時は授業には出席していたし、講義の内容も覚えていたし、勉強を楽しんではいたのでした。それでもやはり勉強は足りなかった、もっと勉強したかったとは思うものなのでしょう。

 

文学部生にとっての社会からの重圧は今も変わらない

大学生の頃、それなりに勉強していても虚しさや不安を感じることがよくありました。こんなことをしてどうなるんだろう、こんな勉強に熱中しても就職につながらないじゃないか、とはいつも考えていました。

とくに明大駿河台キャンパスは大学の周辺がすぐにオフィス街だったり、新宿駅で乗り換えだったりしたこともあり、日々忙しそうな会社勤めの人たちの世界が大学と隣接していて、自分はどうやって生きていくのだろうと不安に駆られました。

おそらく大学で実社会からかけ離れた勉強をしていることへのうしろめたさや不安や焦りは、今の学生にとっても変わらないでしょう。留学したり、語学の資格をとってアピールの材料にするのもいいし、サークルやアルバイトで社会勉強をすることもたしかに意味はあるでしょう。しかし私としては、文学部で勉強に熱中することこそ、会社にアピールしていいし、会社や役所に入ってからも大学時代の勉強は役に立つはずだと思って欲しいです。会社に入ったことがないし、会社員の友だちもいないのでわかりませんが、大学教員という一社会人として、やはり大学で学んだ外国文学の知見は、社会に対する視点として非常に役に立っていると実感しています。

この点については確証はありませんが、「文学部に行きたかったけどやめておいた」という人は多いものの、「文学部を選んで後悔した」、「文学部ではなく経済学部にしていたらちゃんと就職できたのに」といった意見をあまり聞かないことからも、ある程度推察できそうです。

 

大学でどうやって文学を学ぶのか?

さて、長くなりましたが今回は1、2年生ごろに受講した講義科目を振り返り、私がどうやって大学の勉強を始めたのかということを書いてみました。しかしまだ、大学入学当時に感じた、「語学ばかりの授業でどうやって文学の勉強をするのか?」という疑問についてほとんど言及していませんでした

文学を学ぶというのは、大学で語学の授業を取ったり、講読の授業で短編小説を精読したりするだけではなく、もっと幅広い視野で学ぶ必要があります。これまでにも少し書いたことがありましたが、また改めてどのように文学研究の考え方を学べばいいのか、そして自分自身が学んできたのかという点についてまとめ直してみようと思います。3、4年生や大学院で受講していた科目についてもそこで改めて振り返ります。

現在のリバティタワー。私が3年生の秋に完成しました。

明大の校舎は大きく変わりましたが、富士そばと楽器店は変わっていませんでした。



 

内定から着任までの半年をどう過ごしたか

そろそろ各大学でも来年度の採用が決定し、内定を得られた先生方は、現在の勤務先で残務処理をしたり、新生活の準備に心を踊らせていることでしょう。私も内定をもらってから、ちょうど10年が過ぎたので、あの頃どんなことを考えていたのかを思い出してみました。

 

気づいたらもう10年目

facebookの思い出表示などで、10年前に今の勤務先の面接を受け、内定をもらっていたことを思い出しました。

何年も同じところにいて、同じような仕事をし続けていると、自分が着任何年目なのかさっぱりわからなくなってしまうのですが、指折り数えてみたら今年で10年目ということがわかりました。

10年前の秋に内定の通知を受けてから着任するまでの半年間、どのように過ごしていたのかを思い出しながら、こうすべきだったという気づきについても思い出して書いてみます。

 

9月末面接、即日内々定

それまで勤めていた年限付き助手の仕事を終え、専業非常勤講師になって二年目の2013年、私は目についたドイツ語教員の公募につぎつぎ応募していました。大学院を満期退学するころから公募情報を眺めていましたが、本格的に応募し始めたのはたしか助手になって二年目ごろからでした。論文や発表はそれなりにあっても、博士号も留学歴も学振PDもなかったので、どうせ選ばれるわけがないと最初はあまりまじめに取り組んでいませんでした。12年秋にやっと博士号をとって、ようやく本格的に公募に出し始めて一年くらいがすぎたころでした。

当時私は近大、滋賀県立大、京大、龍谷大と4つの大学で12コマの非常勤を担当していました。7月にちょうど近大で公募が出て、私も非常勤に推薦してくれた先生から勧められたので応募することにしました。

8月に二次選考の案内が届き、9月のシルバーウィークごろに面接を受けに出かけました。そのときは、最初の面接だし、だめでも次につなげればいいかとわりと気軽に構えて出かけました。しかし面接では言いたいことがうまく言えず、これは無理だろうなと感じていました。京都のアパートに戻ると、携帯に先方の先生から電話があり、すぐ内々定と伝えられました。

2013年夏、近大の11号館中庭で見た猫。私はすでに非常勤として出講していたので、専任の先生方とは顔見知りだし面接に呼ばれてもあまり緊張はしませんでした。

バラしちゃいけないのにすぐにバレる

こうして専任教員になれることが決まったのですが、この吉報を身内以外の誰にも伝えず4月の着任を静かに待つことが一般的です。

しかし私の場合は、内々定の知らせを得てすぐに周りの人たちに知られてしまいました。

面接に呼ばれたとき、何人か最近専任教員になった友人や先輩、そして学振の受け入れ教員を頼んでいた先生などに、面接の心得をメールで聞いていました。もちろんどこの大学から呼ばれたかは伏せて相談しました。

どの方もかなり具体的に自分の経験した面接の様子や、用意しておくべきこと(シラバスの説明とか、模擬授業用の授業のネタとか、ドイツ語での研究内容の説明など)を教えてもらえて非常にありがたかったです。

私がうかつだったのは、面接が終わってすぐに、決まりましたと御礼のメールを送っていたことでした。そのため私がいなかった学会懇親会の席で、すぐに私の内々定がバレてしまいました。なぜか私はこのときまで、採用が決まっても隠しておかなければならない、という業界のルールをまったく知らなかったのでした

ここから言えることは、面接の相談をしてもいいが、律儀にすぐに結果を伝える必要はないということです。数ヶ月たってから連絡してもいいし、あるいは新年度を迎えて着任後にお礼をすれば十分でしょう。

 

バレて取り消しになるくらいならしょうがない

なぜ採用内定がバレるとまずいのでしょうか。これは多くの人が指摘していることですが、内定者を知った誰かが逆恨みして怪文書を回して内定取り消しになる可能性があるからだそうです。

もちろんせっかく得た内定なのだから、取り消しにされるなんてとんでもないことだし、そのためにはできる限り慎重に振る舞う必要があるでしょう。

しかし逆に言えば、ちょっとした怪文書くらいで内定取り消しにされてしまうような職場なら、やめておいた方がいいでしょう。その後もつまらないトラブルでクビになることもありそうだからです。

うかつに漏らしたことを内定先の先生からも咎められましたが、まだ一円ももらってないのだし、別に内定取り消しになったって痛くも痒くもないわい、と開き直って着任までの時間を過ごすことにしました。

その後一ヶ月くらい過ぎて、学部の事務職員さんから正式に内定したことが伝えられました。そこまでくれば、まあ人に知られても大丈夫です。ただ周囲からは宝くじを当てた人のように扱われるので、やはりあまり大々的に知らせないほうがいいのは確かです

 

別の大学からも面接に呼ばれる

内定を得る直前に、だめなら次はここだ、と思って応募していた別の国立大学から、10月下旬に面接の通知が来ました。この年私はたぶん10回くらい応募しており、近大のあとにもいくつか応募したい公募がありました。近大は経営学部の語学教員ポストでしたが、国立大学の方は人文学部の専門教員のポストでした。

地方とはいえ伝統ある国立大学だし、私としてはこちらのほうが研究環境はよさそうだし、研究者のキャリアを考えても明らかにプラスになると思っていました。

面接には呼ばれたものの、しかし近大のほうはもう正式決定済みです。でもどうしても行きたいし、と一週間くらい悩んで過ごしました。妻からは百貨店がない田舎に住むのは嫌だと言われましたが、私は単身赴任だって全然構わないと思っていました。悩み抜いて京大の指導教員に事情を話したところ、「もう内定出てるんだからそれが君の運命なんや、諦めや」と諭されました。

他の大学であれば、内定辞退してもよかったのですが、私の場合すでに近大に非常勤講師として毎週2コマ教えに行っていました。内定辞退した場合、せっかく採用してやったのに勝手に辞退して迷惑をかけたヤツと冷たい視線を浴びながらあと半年勤務しなければいけません。それはちょっと耐え難いのではないかと思い、面接の一週間前に、辞退することを国立大学に連絡しました。

一定水準を超えると続けて面接に呼ばれるようになると、以前友人から言われていましたが、本当にそうだったと納得しました。

もったいなかったなと当時は思いましたが、国立大学はその後どんどん状況が厳しくなっていったので、結果的には自分の選択が正しかったのだろうと思っています。このへんは本当に運としか言いようがありません。

研究室のソファを探す

内々定を得て、一安心したものの、なかなか専任教員になるのだという実感やよろこびは湧いてきませんでした。

最初に思ったのは、これで自宅ではなく個人研究室に本を置いて仕事ができるようになるのだということでした。

私の研究室が入ることになる11号館。個人研究室は楽しみだけど、建物の古さは気になっていました。

11号館向かいには16号館があり、整った庭園がきれいでした。内定後は新生活を想像しながら、キャンパスを歩き回ってから非常勤の授業に向かっていました。

私も京大時代の指導教員のように、大きな机、壁一面の本棚、そしてソファを備えた研究室を使えるようになるのだと、そう思うとこれからのことがうれしくてわくわくしてきました。

個人研究室にはどのようなソファを置くのが適切なのだろうか、そう思って見つけたのがこの論文でした。

結局ソファをどうするかはよくわからず、今も私の研究室にソファはありません。おそらく研究室のソファは代々受け継がれているものや、退職する先生の部屋からもらってきたものを置いているのだろうと思います。(妻の研究室にも古びた大きなソファがあります)。

 

専任教員っていくらもらえるのかわからない

私が内定を得ても、新生活の実感がまったく湧かなかったいちばんの理由は、給料が分からなかったためです。

すでに非常勤として近大に1年半通っていましたが、はっきり言って非常勤の勤務環境はよくありませんでした。給料は安いし、交通の便も良くない、コピー機の使用に厳しい(授業資料の印刷は一週間前に申請する必要があり、当日教材のコピーを取ることは事務職員さんから嫌がられました。仕方がないので私は同じ日に出講している別の大学で、近大の授業で使うプリントも印刷していました)など、あまり良い印象がなく、もっと近所の大学で仕事が得られれば、すぐに辞めてやろうと思っていたのでした。

もちろん専任教員だから非常勤講師よりはずっと待遇はいいだろうし、私立大学だから国立よりも給料がもらえるのだろうとは分かっていました。しかしどのくらいなのか?そもそも大学の専任教員というのはいくらくらいもらうものなのか、それもまったく予想ができていませんでした。

30歳まで家賃2万7千円のアパートに住み、助手時代までは3万8千円、結婚してようやく7万5千円の家賃を払えるようになった当時の私にとって、目指すべき年収の頂点は、学振PDの約500万円でした。そのさらに上などあるはずがないとすら思っていました。

ネットで検索すれば古いデータですが、主要私大の平均年収は調べられます。それを見れば確かにだいぶいい金額だとわかりますが、本当に自分がそれだけもらえるとはなかなか信じられませんでした。

結局4月末に初任給がもらえるまで、本当に自分がいくらもらえて、どのくらいの生活ができるのかは分かっていませんでした。

 

どこで、いくらくらいの物件を選ぶか

給料が分からなくていちばん困ったのは、引っ越ししてどこでいくらの物件に住めるかわからないということでした。

京都のアパートからそのまま通うこともできなくはないのですが、片道2時間くらいかかります。

東大阪の大学周辺は家賃が安いのですが、妻の仕事のことを考えると近鉄沿線は不便そうです。

学会の名簿でほかの先生方の住所を調べると、奈良市や生駒市、西宮市など大阪の外に住む人が多いとわかりました。

たしかに奈良であれば京都と同じくらい自然が豊かだし、家賃も安そうです。しかし非常勤に行くついでに電車の乗り継ぎなどを確認して、結局阪神線と近鉄線を乗り継いで西宮から通うことにしました。

家賃についても、京都のアパートよりは高くなるものの、専業非常勤時代の収入でも払える範囲の物件を選びました。

 

クルマも買えるかもしれない

家探しと並行して、クルマのカタログを取り寄せたりもしていました。

京都ではロードバイクでどこでも出かけていましたが、専任教員になるならクルマだって買えるかもしれないと思いました。当時は学振DCくらいの収入しかなかったので、クルマを所有するなど夢のまた夢でした

しかし車と言っても通勤にまで使うつもりはなかったので、すぐに買わなければならないとは思わず、結局西宮に引っ越してからちょうど買い替えのタイミングだったので、実家の母から10万キロ乗った中古車を譲り受けました。

 

非常勤をぜんぶ辞める→辞めなくてもよかったのでは

9月に内々定をもらってから、すぐ12コマの非常勤をどうするかを考え始めました。

近大の2コマはすぐに後輩を推薦することができました。

滋賀県立大学については、別の後輩からぜひとも引き継ぎたいと申し出があったので、お願いすることにしました。

京大、龍谷大は後継者を指名できなかったので、先方の教務の先生に任せました。

非常勤講師のコマは、先輩から後輩に受け継がれるものというわけではなく、けっこうその場で体が空いている人に片っ端からお願いするというケースが多いのではないかと思います。

専任教員になるにあたって、非常勤のすべてのコマをいったん辞めましたが、考えてみたら辞めなくても良かったと思います。京大や関西学院のような図書館が充実した非常勤先は、人文系研究者にとってはある意味で財産です。たとえ収入は専任になって倍増しても、充実した図書館を手放してしまっては、研究ができなくなります。

私は近大に勤めはじめ、図書館の使いづらさと文献の少なさに愕然としましたが、その後神戸大や関西学院大など非常勤に出講するようになり、必要な図書をすぐに使える環境を取り戻せました。

私立大学や単科大学に着任する人は、できるかぎり現在の非常勤先や自分の出身校の図書館が使える環境を保持するのがいいでしょう

 

辞めると決まってもあと半年非常勤が残っていた

内定が確定し、非常勤を今後どうするかもすぐ決まったものの、後期の授業やテストは自分でやらなければなりません。来年度からはもうこんなにたくさん授業をしなくてもいいのだと晴れ晴れした気持ちになりましたが、残り半年は消化試合のようなものだなとも思いました。

消化試合と言ってもいい加減に教えていたのではなく、実はけっこうその後につながるいろいろな試みをこの期間に実践していました。

アクティブラーニング型の授業をワークショップで学び、各大学のクラスで、ドイツ語による動画作成のグループワークを行っていました。

このとき京大、龍谷大、滋賀県大の3クラスで実施した授業について、翌年の独文学会で報告しました。考えてみるとこれほど違う大学でそれぞれのクラスに合わせた教授法を実践することができるというのは、専業非常勤ならではの特権でした。

専業非常勤最後の年にふさわしく、非常に充実した授業ができました。なにより頑張って参加していた学生たちに感謝しています。

 

着任までのそわそわした時間をどう過ごすか

私の場合は内々定を得てすぐに、けっこういろいろな人にバレてしまったので、人に隠してひそかに新年度からの生活を想像してほくそ笑むという状況はあまり体験することはありませんでした。

だから逆に、友人や知人が、どのように内定後の日々を過ごしていたのか、あるいはこれから過ごすのかということは気になります。

例えばわれわれの間でちょっと前に話題になったこの公募。今年の9月に締め切りで、着任はなんと2025年(!)の4月です。内定が出てから一年以上もいったい何をして過ごすのでしょう?(もしこの公募に採用された人がいたら、はてな匿名ダイアリーかnoteで手記を書いてほしいです)

最近では、妻が去年の冬に阪大の面接に呼ばれ、年明けの会議をへて内定が決まり、3月に退職し、移動するということがありました。このようなケースはあまりに展開が早すぎ、そわそわした期間を楽しむどころではなかったと思います。自分が担当していたコマを別の教員にお願いすることもできなかったので、妻は現在も前任校の授業を何コマも続けています。

逆に妻の場合は、内定から着任まで二ヶ月くらいしかなかったので、同僚からの嫌がらせ等はなかったようです。もしこれが一年くらいあったりすると、面倒なことも起こりうるのかと思います。例えば、学部や部局の会議で来年度のことを話し合っていても、自分はもうそこにいないわけだし、同僚に対する申し訳なさでなんとも居心地の悪い気持ちを感じ続けることになりそうです。そう考えると、わくわくした日々は楽しいものですが、まあその期間はできる限り短いに越したことはありませんね。

内定が決まったみなさん、本当におめでとうございます。次の春に新しい職場で充実した日々を迎えられることを心から願っております。

 

 

秋の独文学会をふりかえる

日本独文学会秋季研究発表会に実行委員として参加しました

10月14、15日に京都府立大学で日本独文学会秋季研究発表会が開催されました。私は実行委員(会計担当)として参加していました。多くの仲間に助けられて無事職務をまっとうすることができましたが、せっかくなのでどんなことを考えながら仕事をしていたのか、何がたいへんだったのかを思い出しながらまとめておこうと思います。

けっこう分量が多くなったので、以下目次です。

 

日本独文学会では、春は東京、秋は地方の大学で全国大会が開かれ、地方の場合は北海道、東北、関東、北陸、東海、京都、阪神、中国・四国、西日本の9つの支部が順番に開催してきました。

前回京都で全国学会が開かれたのは2014年で、その前は2005年でした。2005年の同志社での学会では、私は博士課程2年目で、2回目の全国学会での発表をしていました。2014年のときも今回と同じ京都府立大学での開催で、私はブース発表でドイツ語教授法について話しました。

以前『ラテルネ』綜輯号の話で書いたと思いますが、現在地方大学のドイツ語教員が激減しており、これまでは9年ごとに開催されていたけど、すでに全国学会を引き受けられない地方支部も出始めています。京都支部はまだ若手からベテランまでたくさん会員がいるので、まだ今後も大丈夫でしょう。

さて、今回の全国学会で、私は会計係に任命されました。なぜ会計なのかといえば、今年度私が京都支部の会計委員になっていたからです。学会の会計委員は、引き継ぎ時の手続きがとにかくめんどうなのですが、ふだんはときどきお金を数えるだけで別に大変な仕事というわけではありません。会員数も京都支部だけなら130人程度なので、会費の管理も苦になりません。

それで全国学会の会計委員を任せられることになり、まあ他の先生がサポートしてくれるだろうし、私は実際に口座からお金を出し入れするだけで大丈夫だろうと、気楽に構えていました。

 

春休み中に最初の実行委員会が開かれた

実行委員のメンバーは全体で20人余りで、支部長の京都府立大学青地先生をはじめ、何度も全国学会を担当されたベテランの先生方から、1回目あるいは2回目の全国学会となる私たち40代の教員、そしてこれからの中心になっていく若手の先生方など、幅広い年齢層のメンバーが集められました。

初回の実行委員会が開かれたのは3月で、ズームでのオンライン会議でした。

このときは青地先生、庶務の筒井先生(京都外大)あたりが中心になり、学会会場、懇親会場の準備、実行委員の役割分担などがどんどん決められていきました。オンライン会議なので私はぼんやりブルーちゃんの写真を眺めたりしていました。

やる気なさ過ぎで他の先生方に申し訳ないと今は思います。

円マークは徐々に慣れてきれいに書けるようになりました。

夏休み前はまだ何もしていなかった

2回目の会合が開かれたのが6月10日で、このときは京都府立大学に出かけ、2つの会議に参加した後、さらに別の学会の編集委員会がズームで行われるので、京都駅の地下街でベンチに座って参加しました。

北大路駅から歩いて鴨川を見ながら京都府大の敷地に入ります。

自然がいっぱい

大きな木が茂っています。

会場の稲盛会館です。北大路駅からだとけっこう時間がかかります。

しかしまだ仕事がたいへんというわけではなく、私はのんきにうどん屋さんでお昼を食べて集合時間に遅刻したりしていました。

夏休み明け、一気に仕事が始まった

その後夏休み中にもいくつかメールでのやり取りがあったのち、急に学会に向けて私も仕事をし始めたのが、9月に入ってからでした。

学会当日の一ヶ月前ごろに、参加費・懇親会費の事前振込が始まりました。事前振込は前回の明治大学での春の学会ではじめて導入され、今回は参加費と懇親会費を別の口座(参加費は独文学会事務局、懇親会費は京都支部)に振り込む形になりました。

会費を振り込んだ人は、Googleフォームで振込の日時を送信することになっていたので、私はゆうちょの口座とGoogleフォームを見ながら、誰が振り込んだのかを確認し、Excelに転記していました。

ちょっと慌ただしくなってきたかなと思う反面、まだそれほど大変ではありませんでした。

 

現金の準備がいちばん面倒だった

10月に入り、当日までに必要な現金を用意することになりました。

現金で払うのは、20人くらい集められたバイト学生のお給料とスタッフのお弁当代でした。さらに事前振込ではなく、当日現金で支払う人のためにお釣りも用意する必要がありました。

前回会計を担当された大阪府大の谷口先生と相談しながら、お札や小銭をどのくらい用意すればいいか考えながら、ゆうちょで現金を引き出しました。学会や研究会などの口座はふつうの銀行口座と違って通帳やカードがないので、さまざまな手続きがめんどうです。現金を引き出す時も、あれこれ書類を記入し、数十分待ってやっと手続きができました。

1000円札の束や500円玉、100円玉の棒を手渡され、重さや量に驚き、学会当日に現金をどう扱うかちゃんと考える必要があると気づきました。そこでAmazonで手提げ金庫を購入しました。

金庫に小銭を入れて、学会の一週間前にバイト代を分ける作業をしました。

バイト学生は30人弱で、それぞれ勤務時間が違います。勤務時間が長い学生には残業手当もつけたので、1円単位の小銭も使いました。筒井先生から送られてきたエクセルを見ながら、お金を振り分ける作業は本当に大変でした。

結局バイト代を封筒に詰めているうちに、当日使う現金が足りないことに気づき、もう一度数十万円分現金を引き出したりしました。

振込記録の照合もたいへん

現金の準備だけでなく、参加費・懇親会費の事前振込をGoogleフォームと対照し、参加者リストを作成する作業もとても手間がかかりました。

 

先に書いたように、振込を二つの口座に分けたため、誤振り込みが相次ぎました。独文学会事務局にも参加費の払込者リストを送ってもらい、当日用のチェックリストを作ったりもしました。

私の中心的な業務は懇親会の参加費を集めることだったのですが、申し込みがなかなか増えずやきもきと過ごしました。

 

当日はてんやわんや

早朝に自宅を出て、9時の集合に間に合うように京都府大に着きました。

出かける直前にブルーちゃんのニャー顔を撮りましたが、その後2日間は忙しくて何の写真も撮れませんでした。

午前中に会場を設営し、お昼ごろから受付業務をスタートしました。

研究発表会が始まる時間になると、一気に受付に来場者があふれるようになりました。バイトの学生たちに領収書の書き方、渡し方などを説明しながら、当日参加費・懇親会費の現金を管理し、懇親会費の領収書を書いたりしました。

多くの友人・知人が来てくれましたが、ほとんどあいさつくらいしかできませんでした。しかしずっと同じように忙しいわけではなく、手が空く時間帯もありました。バイトの学生たちには見たい発表があれば見てきたらいいよと言っていましたが、私は金庫の管理もあるし、結局受付から動くことはできませんでした。

 

懇親会ではお金を気にしながら飲んだ

参加者がなかなか集まらなくて心配だった懇親会ですが、無事予定の人数が埋まり、とても盛り上がりました。人数の割にお店が狭かったため、少し混み過ぎと感じた人もいたかもしれません。いずれにせよ盛況に終わりました。

 

せっかく地元で開催されるので、分野は違うけど妻を呼んで、研究仲間や出版社の方々に紹介したりしました。

いつもなら手放しでいっぱい飲んで、いろいろな人と話したりできる懇親会ですが、今回は金庫やバイト学生に渡す給料袋も持ち歩いていたので、とにかく飲み過ぎないように注意して過ごしました。

懇親会が終わり、二次会に参加してもやはりあまり飲みすぎるわけにはいかないと自制しながら日付が変わる前にホテルにチェックインしすぐに熟睡しました。

 

私たちは学会屋さんじゃないのに

二日目は一日目よりも気楽でしたが、ちょっと嫌なこともありました。

年配の先生から学会のプログラムが印刷されていないのはおかしい、会費を払っているのだから予稿集は印刷して配布されるべきだ、いったいなにに金を払っていると思っているのか、とかなりキツイ口調でおしかりを受けました。

受付には私よりも偉い先生が常駐していたのに、たまたま誰もいない時間帯だったので私が主に怒られていましたが、受付に座っている学生が機転を効かせてコピーしていたプログラムをその先生に渡して、怒りを収めてもらえました。

本来なら自分がちゃんと対応すべきときだったのに、学生に気を使わせてしまったと反省する一方、なんで私がこんな問題で怒られなければならないのかと腹立たしく思いました。

プログラムを印刷しないというのはもう数年前から始まっていたことだし、受付担当の私は予稿集のことには一切関与していません。私たち実行委員は学会屋さんではなく、来場者のみなさんと同じ研究者仲間なのに、こういう扱いを受けるのは本当に残念だと思いました。

 

久しぶりの達成感

発表会が終わり、後片付けを済ませ、学生バイトに給料を手渡しするとやっと二日に渡る学会が終わりました。失敗はいくつかあったものの、全体的にうまく終えられたし、信頼できる実行委員の仲間と一緒に仕事ができて、心地よい達成感を得られました。

大学院を出てから一貫して大学教員しかやってこなかった私は、考えてみたらこんなふうに他の人と一緒に仕事をすることはこれまでほとんどありませんでした。もしかしたら高校生の頃生徒会役員として学園祭をやったとき以来の感覚かもしれないと思いながら京都から大阪へ戻りました。

大阪への新快速は混んでいて、金庫をリュックに入れたまま立ち続けた私は、へとへとに疲れてしまい、大阪駅から自宅までのバスでは、わずか15分くらいの時間で、4、5本の短い夢を立て続けに見ていました。

 

会計係の学会はまだまだ続いていた

学会当日が終わり、これで会計係の仕事も終わり、とはなりませんでした。考えてみるとここから先もまだ仕事があれこれ残っていました。

当日から一週間後には、懇親会場のレストランに費用を払い込みました。ゆうちょダイレクトでは大きな金額を振り込めないので、郵便局に出向いてまた書類を書いたり、しばらく待ったりして手続きをしました。

さらに独文学会事務局に当日支払われた参加費を送金するため、参加者リストと受け取ったお金を正確に算出する作業をしました。これは参加費担当の谷口先生がきっちり確認してくださったので、楽に作業ができました。

そして学会事務局から収支報告書のサンプルを送っていただき、研究発表会、懇親会それぞれの収支報告をエクセルで作って実行委員のみなさんに確認してもらい、やっと11月なかばに学会事務局に最終的な書類を提出することができました。

じつに学会当日から一ヶ月が経過して、やっと自分が担当する仕事がほぼすべて終わりました。(まだ学会事務局へのお金の払込が残っていますが、来年1月に収支報告が理事会で通ってから送金することになります)。

他の実行委員メンバーや学会に来た友人知人から、会計係ばかり仕事量が多くてたいへんだと労いの言葉をかけてもらえましたが、まあ日頃そんなに忙しくもないし、たまにはちゃんと仕事したという充実感が得られてちょうどよかったかなと思っています。

ふだんから私はあまりみんなの先頭に立って仕事をとりまとめたり、まじめな仕事ぶりで尊敬を集めたりするほうではないのですが、今回はやっと京都支部に貢献できたようでうれしく思っています。

長くなりましたが、今後おなじように学会の会計係をすることになった人や、次に全国学会が回ってきた時、たぶん同じように会計係をすることになろうであろう将来の自分のために、記録を残しておきます。

 

 

ゲーテ全集を見比べる

ゲーテを研究するなら全集を読もう

今年はじめにゲーテの『リラ』について論文を書き、また10月には京大人文研でゲーテにおける妹への愛について『リラ』、『兄妹』を中心に発表しました。そして関学や近大での講義でも、『若きヴェルターの悩み』、『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、『親和力』、『ファウスト』などは例年取り上げています。

論文がどれくらい書けるかわかりませんが、やはりゲーテ作品はもっと原文で読みたいし、解説などもしっかりついた資料がほしいと思うようになりました。

すでに『リラ』論を書くときに、ミュンヘン版全集(Münchner Ausgabe)は入手していましたが、今回あらためてフランクフルト版全集(Frankfurter Ausgabe)も購入しました。それとは別に研究室にもちょっと調べるとき用にハンブルク版全集(Hamburger Ausgabe)を買っていました。

もちろんどの全集を開いたところで、ヴェルターが失恋して自殺する話は変わりません。どの世界線でもロッテと結ばれることはないのです。それは当然なのですが、実は全集ごとに収録作品や解説などが異なっています。今回はゲーテ全集の代表的な三つの版を、内容だけでなく本の作りなども含めて概観してみましょう。

 

もっとも基本的なハンブルク版全集14冊

今年の夏頃に日本の古本屋で5000円くらいで入手していたのが、全14冊のハンブルク版です。この全集がおそらくいちばんたくさん売られていて、一般的な全集といえます。

きれいな箱に入っています。

第1巻、第2巻:詩集。『ヘルマンとドロテーア』、『ライネケ狐』、『西東詩集』など

第3巻、第4巻、第5巻:戯曲集。『ファウスト』、『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』、『タウリスのイフィゲーニエ』、『タッソー』、『エグモント』など

第6巻、第7巻、第8巻:小説集。『若きヴェルターの悩み』、『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、『遍歴時代』、『親和力』など

第9巻、第10巻、第11巻:自伝集。『イタリア紀行』、『詩と真実』、『フランス駐留記』など

第12巻:芸術論、格言集。

第13巻、第14巻:自然科学論集、および索引。

以上のような構成となっています。私が持っている本はdtvから出ているペーパーバック版ですが、それぞれ厚さ5cm以上あってがっちりした本です。

基本的と書きましたが、それでもこの版だけで代表作の殆どを網羅することができます。また注や解説もかなりページ数が多く充実しています。

 

日本語訳全集もほぼハンブルク版に準拠

ゲーテの日本語訳全集は第二次大戦以降に2種類出ていますが、いずれもハンブルク版に準拠しています。

人文書院版『ゲーテ全集』

研究室用に、人文書院版とハンブルク版を並べています。


人文書院版のゲーテ全集(1960〜61)は全12巻で、収録作品はほぼハンブルク版と同じですが、『エッカーマンとの対話』や最終巻にトーマス・マン、カロッサらのゲーテ論が収録され、かわりに自然科学論集などは省かれています。

これもちょっと調べるためにかなり安く買って研究室に置いています。判型が小さくじゃまになりにくい反面、小さな字で上下二段組の紙面はやや読みづらいです。

昔の本なので、文字が小さいです。

えんぴつでマークしているのは、メフィストフェレスのセリフ「あなたが知ろうとする最高の真理は、学生たちにはむやみにいうことのできないものですよ」。フロイトは『夢解釈』をはじめ、何度もこの文章を引用しています。分かるようで分からん表現なのでずっと気になっています。

潮出版社版『ゲーテ全集』

もう一つ、私が大学院のころに新装版(ペーパーバック版)として刊行されていたのが、潮出版社版のゲーテ全集(もとは1970年代ごろに刊行)です。こちらはほぼハンブルク版と同様の構成で自然科学論集も含まれており、合計15冊の構成です。この全集で便利というか、役に立ったのは、『親和力』の舞台となるエドゥアルトとシャルロッテの邸宅の見取り図でした。邸宅内をあちこち移動したり、庭園を造成したりする物語は、図がないとイメージがわかりにくいですからね。

ペーパーバックでかつコンパクトなので持ち歩きに便利です。しかし上下二段組です。

収録作品が多い改造社版『ゲーテ全集』

私が『リラ』論を書くさいに参考にしたのが、戦前に刊行されていた改造社版です。というのもこの版にのみ、初期ゲーテの歌唱劇作品の訳が収録されていたからです。『リラ』の訳はないのですが、同時代のいくつかの作品を読むことができました。

日本語で出ている全集では、いちばん巻数が多いのが改造社版です。全32巻、36冊だそうです。こちらに詳細が載っていました。

iss.ndl.go.jp

私も初期の演劇に関連する巻を日本の古本屋で買っていました。

しかしなにせ戦前の本なので、本自体が扱いにくい(箱から取り出すたびに紙の屑が出る)し、訳文も今の我々には読みにくく、戯曲テクストだととりわけ頭に入りにくいと感じました。結局『感傷の勝利 Der Triumph der Empfindsamkeit』は原文で読み直して話がわかりました。

全作品を収録したミュンヘン版33冊

専門家が論文を書くときに依拠するのが、ミュンヘン版およびフランクフルト版全集です。私は2年前にネット古書店でドイツから取り寄せていました。

ペーパーバック版で33冊。

年代ごとに編集されています。これはヴァイマール赴任からイタリア旅行までの時期。

ページが薄いです。

ミュンヘン版の特徴は、時代ごとにすべての作品を収録し、さらに自然科学論文や、シラー、ツェルターとの書簡集も収録されている点です。

もともとはハードカバー版です(大学図書館には緑の表紙のハードカバーがありました)が、私が買ったペーパーバック版も廉価で出ているのでありがたいです。

本の質感も、解説や注も気に入っていますが、唯一使いにくいのは、どの巻にどの作品が入っているかわかりにくい点です。これは年代順に並べられているため、巻数やタイトルだけではどの巻かわからないからです。ちゃんと覚えておけ、という話かもしれませんが、自分で使いそうな作品が収録されている巻には目立つように付箋をつけています。

しかし、ゲーテの場合書簡や日記も見ておく必要があるし、行政官としてヴァイマールの宮廷でどのような文書を残していたのかを調べる、となるとミュンヘン版だけでは不十分です。

 

ほぼ全部入りのフランクフルト版45冊

ということで日本の古本屋で見つけたフランクフルト版全集を先月買いました。一年分の個人研究費が吹き飛ぶくらいの値段でしたが、それでもドイツから古本を取り寄せるよりもずっと安いと分かったので、思い切って買いました(当然私費です)。

全45冊のうち43冊というセット(10年前に出たばかりの総索引の巻だけ欠)を大阪の古本屋さんから購入し、ダンボール3箱で送られてきました。

古書店の段ボールを開け、机の上に積み上げました。

机の上に並べるとすごい量だと思ったのですが、本棚に並べるとそうでもないと気づきました。いつも言ってることですが、本というのは本棚に入っているときが一番少ない(少なく見える)のです。

 

幅60cmの棚を三段分占領していますが、それほど多くは見えません。

さて、フランクフルト版ですが、ミュンヘン版と同じくすべての作品が収録され、およそ年代順に並べられていますが、巻ごとにテーマが設けられているため、どの巻にどの作品が入っているかはだいぶわかりやすい編集となっています。

全部で45冊ありますが、第一部(作品、自然科学論文)が27巻まで、第二部(書簡、日記、談話など)が28から40巻まで。

代表的な作品を中心にまとめられているので、わかりやすいです。

表紙とプラスチックのカバーもいいです。

ミュンヘン版と違って、巻数が背に書いてありません。最初のページを見ると、第一部10巻とわかりました。

フランクフルト版全集は、Deutscher Klassiker Verlagのシリーズとして刊行されています。ゲーテだけでなく、ドイツ語文学の古典が多数収録されており、近年はペーパーバック版も安く手に入れられます。

シラー、ホフマン、クライスト、アイヒェンドルフなどときどき買っています。

このシリーズは装丁がとてもきれいで、本の大きさも日本の新書判より少し大きいサイズとちょうどよく、さらに文字がとても読みやすく編集されています。特に私はこのシリーズの文字が気に入っています。

全147冊のヴァイマール版もあるよ

さらにもう一種類、いちばん冊数が多いのが、ヴァイマール版全集です。これは全部ひげ文字(フラクトゥーア)で読みづらいし、細かく巻が分けられているのでちょっと参照しづらいですね。

これだけ巻数が多いのに、日本の古本屋などで格安で売られています。安く売られているのは、いまやインターネットですべて読めるようになっているためでしょう。

de.wikisource.org

 

書簡集はまだ完全なものは完成していません。ゲーテの書簡はゲーテ・シラー・アーカイヴ(GSA)に所蔵されているだけでなく、日本にもいくつか残っているそうです。石原あえか先生が今年発表された、日本に所蔵されているゲーテの書簡についての論考が非常におもしろかったです。

PDFが読めます。

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/2006008/files/ES22_009.pdf

 

Siegfried Seifert (hrsg.) Goethes Leben von Tag zu Tag

いくつかの研究書で言及されていた、ザイフェルト編『ゲーテ年代記』全8巻もヤフオクで安く入手できました。この本は、ゲーテの日記、手紙、作品をもとに、いつ頃どんなことを書いていて、誰と会ったり、どのような出来事があったのかが非常に詳しくまとめられています。生まれた時から83歳で死ぬまでの記録なので、全部で8分冊ですが、買ってみてこんなに大きい本だったのかと驚きました。高さが23cm、厚さが5cm以上です。

 

いずれにせよ、これもテクストの成立や、ゲーテの生活史を確認するのに必要でしょうから、持っておくことにします。

ドイツの古本屋で300〜400ユーロでしたが、ヤフオクでほぼ半額程度で買えました。


論文のためなのか、本を揃えること自体が楽しいのか?

ゲーテを本格的に読み始めて、まだ2年くらいですが、文献が増えてきました。

これら大量の本を使って、これから論文を大量生産できればいいのですが、自分の思考のペースを考えると、それもそう簡単なことではないよなと感じています。もしかしたら買うだけで全然使いこなせないかもしれない、とも思います。

そもそもゲーテ研究がやりたいのではなく、本を集めて本棚に並べること自体が楽しいのではないかという気がしてきました。しかしこの点をあまり深く考えると自分の研究者としての自我が崩壊するかもしれないのでやめておきましょう。

おまけ ブルーちゃんの本棚あそび

フランクフルト版全集を本棚に詰めたところ、ちょっと空いた隙間にブルーちゃんが登って遊ぶようになりました。危ないので(ブルーちゃん自身は安全に降りられるのでしょうが、本を叩き落とさないか心配だったのでした)抱きかかえて下そうとすると抵抗して嫌がります。

ブルーちゃんの声がかわいいので、ぜひ音を出して見てください。

 

 

 

 

複製可能なのに唯一無二、コピー本の世界

研究者共通の悩みとしての本の処分

研究者として大量の文献を集めて読んでを繰り返してこれまでやってきましたが、しばしば仲間内でも話題になるのが、蔵書の整理の問題です。

私はそれなりに広い自宅と個人研究室にめぐまれているので、現時点では本を置く場所に困ることはないのですが、もちろんこれから20年たって自分が定年退職するころには、蔵書のかなりの部分を手放さざるを得ないし、自分にもしものことがあれば、残った本の処理を妻に頼むほかありません。

しばしば研究者を悩ませる問題が、引退後あるいは死後の蔵書の処分です。

数年前に大学院時代の恩師であった川島昭夫先生が亡くなられたことを書きましたが、あのときは川島先生門下の多くの研究者たちや、古書仲間の方々が先生の蔵書を形見分けしました。

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先生がせっかく蒐集した蔵書がふたたび散逸してしまうことを惜しむ気持ちはありますが、われわれ弟子たちの手に渡ることで、先生の教えの一部が私たちの中に生き続けているようにも感じます。

自分が収集した知識が、多くの弟子たちへと引き継がれていくというのは考えてみれば研究者の最期として理想的なあり方ではないかと思います。

 

書籍など所詮はモノでしかない

情緒的なことを書いてはいますが、残念ながら引き取り手のない蔵書は、多くの場合図書館への寄贈も断られ、古書店にも買い取ってもらえず、廃棄されることになります。

昨年他大学の先生から大量の蔵書をいただきましたが、これも私が名乗り出なかったら、大学図書館がすべて廃棄していたことでしょう(売れば相当な額になるものもあったのですが、たぶん大学側はめんどくさがって売却など考えもしなかったでしょう)。

もったいないことではありますが、仕方がないと諦める他ありません。

私は文学研究者で、基本的には買ったりコピーしたりした本を読んで研究をしています。文書館で貴重な資料を複写して集めたり、調査地の人々にお話をうかがって聞き書きをしたりといった資料は基本的に用いません。

そのため私は、書籍というのは複製可能なモノでしかないし、廃棄されることがあってもこの世のどこかにかならず保管されているはずだし、コピーやデータとして残っていればそれで十分だと考えています。

私には弟子も子供もいなし妻は他分野の研究者なので、私が集めた資料を受け継ぐ人など今後はいないでしょう。そう思って自分で使う本はどんどん付箋を貼り、ページを折り、書き込みもしています。

書物など使用するためにあるのだ、そしてもし汚れたり水に沈めたりした場合にはいくらでも買い替えは可能なのだと気楽に読んだり書き込んだりすることで、逆に唯一無二のかけがえのない一冊となるのではないか、というなんだか逆説的なことを今回は言いたいと思います。

複製可能な書籍のコピーにすぎないのになぜコピー本は貴重なのか

書籍などモノでしかないし、自分が研究者をやめたり、死んだりしたら何もかも失われても仕方がない、そうはわかっていても自分が持っている本、とりわけ院生時代に作ったコピー本には「使用するものとしての」特別の愛着を覚えます。本そのものではなく、複製されたコピー用紙の束でしかないのに、そう思ってしまうのはなぜでしょう。

以前も書きましたが、もう20年近く前、京大大学院で学んでいた頃は毎日学内の図書館を回って文献を集め、コピー屋さんでコピーをとるのが日課でした。

そのころ私が集めていたのは、19世紀末から20世紀初頭のさまざまなドイツ語書籍だったので、多くの場合表紙から最後までまるごとコピー(すなわち全コピー)をとっていました。A5サイズの書籍であれば、見開き両面コピーで400ページの本が100枚のコピーになります。こうして集めたコピーは、生協や共同研究室にある製本機で製本したり、大阪コピーに依頼してくるみ製本にしてもらっていました。

研究室の一角にはこのようなコピー本のコーナーがあります。大学院に入った2000年代初頭から、今の職場に勤めだした2015年頃にかけて収集したコピー資料です。

幅900mmのスチール本棚を四段分占領している大量のコピー本たち。これでも大学院を出たあとでかなりの量を廃棄しました。よく見るといろいろな種類があるので、以下でお気に入りのコピー本とともに紹介していきます。

コピー本のさまざまな製本方法

コピーの束を製本したものをコピー本とわれわれは読んでいましたが、いろいろな製本方法がありました。

本棚に何冊か見えますが、背も表紙もないのがホッチキス綴じやホッチキスすらせずクリアファイルに入れっぱなしにしたコピーもあります。

大阪府立図書館で2011年3月11日にコピーを取っていた、カール・デュ・プレルの博士論文。図書館の閲覧室がしずかに揺れて、周囲の人がざわついたことを思い出します。

パウル・シュレーバーの主治医だったパウル・エーミール・フレックシヒの自伝です。これは京大医学部図書館で見つけました。あまりちゃんと読んでないので、ホッチキス綴じで済ませていました。

多くのコピー本は、大学生協で売っている製本機で製本カバーを使って綴じていました。

東大駒場生協さんのツイートですが、売り場の写真にあるような縦型もしくは横型のカバーをいつも使っていました。2枚目の写真が製本機です。

製本機は大学生協および共同研究室にあり、電源を入れてしばらく待って糊を熱で溶かし紙束を接着する仕組みでした。

製本カバーは安くて、だいたい一冊150円程度ですみました。しかしこの簡易製本にはいろいろ欠点がありました。

一つは糊が偏って固着してしまうとときどきページが開きにくくなったり、背が真っ二つに割れてしまったり、途中のページが脱落することもありました。構造的にしかたがないと諦め、私は木工用ボンドを常備して、壊れた箇所に塗って修復していました。

もう一つは表紙の透明なカバーが経年劣化するおそれがあるという点でした。何年か保存するとカバーがベタベタになったり、割れたりすると友人から聞いていました。今のところ表紙が破損したコピー本はないのですが、たしかに紙の表紙と違ってページが折れたり、あるいは逆に本棚で近くの本を傷つけることもありました。

院生時代から読み続けているCarl du PrelのDie Philosophie der Mystik. フロイトの『夢解釈』でも数カ所で言及される重要な本です。

カバーの背には自分で印刷したタイトルを糊づけし、上からテープを貼っています。

この本はカバーがすっかり黄ばんで劣化が進んでいます。

中はきれいです。グフタフ・フェヒナーの『死後の生活』の訳です。

同じ本の後半には、平井金三『心霊の現象』。明治期にヨーロッパのスピリチュアリズムを日本で最初に紹介した本の一つです。カール・デュ・プレルがはじめて日本語の文献に出てきたのもこの本だと思われます。

1890年代初頭にレクラム文庫から出ていたデュ・プレルの『心霊主義』です。リルケなど多くの同時代の知識人がこの本を読んだようです。

レクラム文庫なので文庫本サイズでかつこの小さなフラクトゥーア書体です。そのまま読むのはかなり大変なので少し拡大コピーしてB5の紙に印刷しています。

院生時代に苦労して読みました。当時の古書はネットでも買えますが、ネットで本を買って読むより、コピーを拡大して読むほうが当然読みやすいし、ペンでメモしたり付箋をはったりもできます。

大阪コピーのくるみ製本が最高

院生時代私が毎日通っていた百万遍の大阪コピーには、製本サービスがありました。

100枚から500枚くらいの大部のコピー本を作るときは、お店に依頼してくるみ製本にしてもらっていました。納期は5日から一週間ほどで、一冊あたり800円で表紙の色が選べました。

エドゥアルト・フォン・ハルトマンの『無意識の哲学1、2』をまとめた本です。

500ページ以上ある本を2冊まとめているのでかなりの厚みですが、どのページもきれいに開きます。

京大文学部の地下書庫にあった本です。

19世紀半ばから20世紀初頭まで続いた心霊主義の雑誌、Psychische Studienは東大本郷の図書館で二日がかりでコピーしました。皮の装丁がぼろぼろに傷んでいて、コピー機に載せるのがためらわれましたが、自分が読まなかったら図書館に置いてる意味がないと、意を決してコピーしました。どうやって持ち帰ったのか覚えていませんが、京都で大阪コピーにもちこみ、200〜300枚ごとに一冊に分けて製本してもらいました。

年代物で傷みの激しい本であっても一度コピーしてしまえば全く気にせず読むことができます。

これは天理図書館で複写した雑誌Sphinx。カール・デュ・プレルを中心にミュンヘンのオカルティストサークルが参加していました。

天理図書館はこのとき(2005年くらい?)初めて訪れましたが、古くて落ち着いた館内の雰囲気が印象的でした。ブックワゴンで雑誌を書庫から出してもらい、必要なページにしおりを挟みながら読んで、最後に一枚30円で係の人に複写してもらうという形式でした。

判型が大きめの本だったので、B4でコピーし、2冊に分けて大阪コピーで製本してもらいました。クセのある装飾的なヒゲ文字で書かれているのですごく読みにくいです。

この二つの雑誌は、いずれも現在ではフライブルク大学図書館のリポジトリでPDFを全部ダウンロードすることができます。もちろん私は普段はPDF版を利用していますが、たくさんの記事をブラウズしたいときなどはコピー本も有効です。

 

あまりありがたみがないキンコーズ製本

大阪に勤務するようになると、皮肉なことに大阪コピーからは遠くなってしまったので、コピー本をつくる機会が減りました。

それでも2014年、2015年と海外調査に出た時には大量のコピーを取っていたので、南森町にあるキンコーズに持ち込んで製本してもらいました。納期が早くて安いのはいいのですが、キンコーズの製本はかなり簡素です。

背はテープで、表紙・裏表紙は薄めの紙です。

この形式で何冊かコピー本を作りましたが、なんだか味気ないというかありがたみがない感じがします。複製可能なコピー本にありがたみもへったくれもないはずなのに、そう思ってしまうのはなぜなのでしょうか。

 

やたら豪華なコピー本もある

私が作ったコピー本ではありませんが、昨年他大学の先生からもらった古いドイツ語の本のなかに、数冊製本されたコピー本が入っていました。

ハードカバーに金文字のタイトルが入っています。

中身はふつうのコピー用紙ですが、りっぱな装丁で所有欲が満たされます。

同様にハードカバーのコピー本ですが、こちらは紙がすべて2つに折ってありA5サイズになっています。

ドイツ語の詩についての研究書です。

見開きコピーした紙を中央で折って2ページにしています。たぶんこの折る作業も業者さんに依頼していたのでしょう。

もらった本や古書には意外なものが挟まっているものですが、この本からはカセットテープのラベルが出てきました。懐かしいですね。

ハードカバーや紙を折って綴じる方式などは、これまでやってもらったことがなかったのでむしろ自分でもこういうコピー本が欲しいと思ってしまいました。どこか大阪でも近所に持ち込める業者さんを探してみたいです。

思い出や痕跡が遠慮なく残されているコピー本のかけがえのなさ

以上のように私がもっているいくつかのコピー本を眺めながら、かつて毎日ともにすごしたコピー本の世界を振り返ってみました。

現在は海外調査に出かけてもほぼ全ての資料をスキャナで撮影しデータを持ち帰るだけです。しかし改めてコピー本を手に取ると、同じように複製可能なデータとはまったくちがう存在感があることに気づきます。

自分で作ったコピー本を見ると、オリジナルの書籍をどうやって取り寄せたり探したりしたのか、コピーをとるとき風化した皮表紙のかすが手にいっぱいついたことや、でき上がったコピー本を辞書を引きながらせっせと読んではメモを書き込んでいた院生時代の日々のことなどがつぎつぎと想起されます。

コピー本は複製なので遠慮なく使用することができます。貴重な本や古い本であれば躊躇してしまうことも、汚してしまっても所詮はコピーだ、複製可能なのだと考えれば、遠慮なくコピー本に書き込んだり、付箋を貼ったりできるのです。しかし逆にこうして残した痕跡によって、コピー本には所有者の思い出が書き込まれ、印刷されたオリジナルな書物(これも矛盾した言い方ではありますが)よりも、オリジナリティすなわちかけがえのなさを発揮することになりうるのではないでしょうか。

数年前、同じ分野の仲間とあつまってかけがえのなさやオリジナリティをめぐって共同研究をしたことがありました。そのときは、記憶や人の命などのかけがえのなさを問題にしましたが、印刷された書物という媒体についてはまったく頭に思い浮かびませんでした。2016年から17年にかけて書いていた「かけがえのなさ」についての論文です。

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そもそもが複製であり、さらなるコピーが生み出されうる紙の書物において、かけがえのなさやオリジナリティをどのように考えることができるのでしょう。これはなかなかおもしろい問題だなと思いました。

 

あのころのドイツ文学―『ラテルネ』綜輯号を読む

同学社さんから『ラテルネ』綜輯号をいただく

たしか2022年の秋の独文学会のときだったか、オンライン懇親会の席で同学社の近藤社長と話しているとき、雑誌『ラテルネ』のバックナンバーを送ってくださるという話になり、飲酒していたこともあってほとんど覚えていなかったものの、いきなり大きな荷物が学部事務あてに届いて、ああこれが、と思い出したのでした。

日頃封筒に入っている小冊子『ラテルネ』ですが、送られてきたのはB5版箱入りの『ラテルネ綜輯号』全3冊でした。

こちらが最新号(2023年秋号)です。京都での全国学会に向け、京都支部ゆかりのみなさんが寄稿されています。

これが第1巻。

B5サイズで箱入り、全3巻の立派な冊子です。

同学社さんが出しているPR誌である本誌を創刊号から収めた綜輯号を読みながら、ドイツ語教育そしてドイツ文学研究業界が昔から現在へとどのように変化してきたのか考えました。

 

私も以前寄稿していた

『ラテルネ』という雑誌については、すでに2022年春号に寄稿したことをこのブログにも書いています。

schlossbaerental.hatenablog.com

原稿の依頼を受け、この雑誌の傾向に合わせて自分の思い出話を書き始めたのですが、コロナ禍での授業運営の話のほうが自分らしいなと思い、オンライン授業と猫とDIYについて書きました。

全三巻の構成と変遷

今回いただいたのは現在でている第一巻から第三巻までの3冊ですが、

第一巻は創刊号(1960)から30号(1973)まで、第二巻が31号(1974)から60号(1988)、第三巻が61号(1989)から90号(2003)までとなっています。

私が大学に入ったのが1996年で大学院に入ったのが2000年なので、第三巻の最後の方に入っている東北大学での全国学会についてはまだ修士課程のころなので参加はしていませんが、覚えていました。(私が初めて発表したのは、2005年春の早稲田学会でした)。

第三巻になると知っている先生、今活躍されている先生も増えてきます。

話題も教養部の解体、それにともなうドイツ語受講者の減少など、現在の私たちにもつながっている問題が多くなります。

しかし第三巻が終わった時点からちょうど20年を経過した現在になっても、『ラテルネ』本誌の誌面構成はまったく変わっていないし、社長が代替わりしたにも関わらず編集の方針や編集後記の文面もほぼ創刊号から変化はありません。逆にこれだけ変えずに60年続けてこれたことに価値があると思います。

60年前のドイツ文学界の状況を知る

第一巻の冒頭には、「発刊の挨拶に代えて」と題して当時の近藤久寿治社長が、発刊にいたる経緯を説明されています。現在も続いている教科書出版社同学社がドイツ語教科書出版に参入するにあたり、近藤社長と旧制高知高校からの同級生である独文学者高橋義孝およびその紹介で国松孝二ほかの協力により、広報誌として『ラテルネ』を昭和35年(1960)に創刊したそうです。

創刊号の最初の記事は、浜川祥枝(白水社の参考書『現代ドイツ語』やゲーテ、マンの翻訳で有名)による「レーヴェンフェルダーさんのこと」。九州大学が新たに招聘したドイツ人女性研究者が紹介されています。

またこの号に収録されている熊谷恒彦「春を待つ心」では、脊椎カリエス闘病中の思いが綴られています。まだ「脊椎カリエス」という、文学作品のなかでしか見る機会がなさそうな病気が身近な時代だったのですね。

この方は私の親族ではないのですが、おなじ熊谷姓ということでその後どうなったのか気になっていました。読み進めていくと67年春の第16号に、43歳で亡くなったことが伝えられています。カリエスからは回復したものの、その後も病気がちだったそうです。

同じ号で山下肇(ブロッホ『希望の原理』の訳者)は「白銀時代」と題した文章で、近年ではドイツ語を学ぶ熱意を持った学生が減少してきたと嘆いています。すでに彼ら旧制高校で学んできた世代から見ると、60年代初頭ですら、ドイツ語の人気や学習意欲は陰りが見えていたのでしょう。

 

高橋義孝伝説

目次をざっと眺めて初めに気づくのは、特定の著者が何度も書いていることでした。それぞれの先生方がどのくらい記事を書いているのか、索引にまとめてあったので見てみると圧倒的に多かったのが高橋義孝です。

上述したように近藤前社長の同級生という間柄のため、しょっちゅう原稿を寄せていたのだろうと想像できます。また、ラテルネ表紙の「Laterne」の文字も高橋によるものだそうです。

高橋義孝といえば新潮文庫でゲーテの『若きウェルテルの悩み』や『ファウスト』、カフカの『変身』、さらにはフロイトの『夢解釈』などが今でも読める非常に有名な独文学者です。

 

 

江戸っ子で横綱審議委員会のメンバーだったことや、九州大学に毎週飛行機で通勤していたことはよく知られていますが、北海道大学でのエピソードも強烈です。

昭和23年秋に汽車と連絡船を乗り継いで札幌に着任し、半年は勤めたものの翌年の春休みに帰省した後高橋はそのまま6月まで札幌に戻らずに過ごしました。その後やめてしまおうと職場を訪れると法文学部長に怒鳴りつけられ、さらに一週間ほど札幌で夏酒を楽しみ、東京へ戻り、そのまま退職したという話です。つまり最初の半年くらいしかまともに働かずに辞めてしまったようです。

そのほか当時活躍していた有名な先生方も文章を載せています。

私の恩師で現在90歳を超えている神品芳夫先生も、かなり若い時期(第4号、昭和36年)に学会準備の苦労について書いていました。

 

学会特集号ではさまざまな大学が登場

『ラテルネ』誌は現在も春と秋の学会シーズンに合わせて刊行されており、それぞれ特集号として全国学会実行委員の先生やその地域の大学関係者(出身者や現在勤務している教員など)がエッセイを寄稿するのが慣例です。

綜輯号を読んでいて興味深いのは、いろいろな地方大学で全国学会が開催され、その地域ゆかりの先生方が思い出などを綴っている記事です。

第6号は高知学会特集。当然旧制高知高校出身の高橋義孝も寄稿しています。

第13号は弘前学会号。小栗浩先生はつい最近100歳で亡くなられました。

岐阜大、鳥取大、静岡大、熊本大、新潟大などいまではドイツ語教員がほとんど残っていない(あるいはもういなくなっているかもしれない)地方大学でも全国大会が開かれていました。全国学会が開かれているということは、当該の大学にドイツ語教員が複数所属していたし、近隣の大学に実行委員として参加できる教員が多くいたということを意味します。

一昔前の先生方にとっては、秋の学会に合わせて日頃おとずれないようないろいろな地方に出かけ、旧友と集まり、酒を飲んだり温泉に行ったりするのが何よりの楽しみだったのでしょう。残念ながらわれわれの世代では授業が休めなかったり、出張旅費が出なかったり、あるいは家族の事情などによって、地方大学への出張を楽しむことはできなくなりました。*1

また近年では、京都支部、阪神支部など教員や学生院生がまだまだたくさんいる地方支部でないと全国学会の開催は難しくなっています。小さな支部(東北、北海道、北陸など)の場合はオンライン開催を選ばざるを得なくなっています。今後は地方で学会を行うこと自体も見直しを迫られているといえるでしょう。

 

詳細な学界消息と追悼記事特集

現在でも教科書会社のPR誌というよりは、学会(業界)消息のような雰囲気のある『ラテルネ』ですが、昔の号を見ると、現在よりもかなり詳しく、どこの先生が何をした、どうなったなどと各先生の消息が書かれています。

創刊号には中大の菊盛英夫、早大の浅井真男がそれぞれミュンヘンとボンへ在外研究に出発することが報じられています。

先に書いた熊谷恒彦氏への追悼記事のように、本誌に寄稿していた人物、独文学会の著名人などについては多くの追悼記事が掲載されています。

第2号は小牧健夫(ゲーテやノヴァーリスの翻訳で有名)の追悼特集。多くの著名な独文学者が追悼文を寄せている中、ご子息らしい小牧昌実という人も文章を寄せています。この雑誌では他の追悼特集でも、家族や子供による文章が収録されているのが特徴的です。

最新号の目次にも、最近亡くなられた独語学者在間進先生の追悼特集があるように、現在も著名な研究者については追悼記事が載せられています。

 

業界が高齢化したんじゃなくて昔からずっと懐古的だった

最初に紹介した私の記事にもあるように、私は『ラテルネ』は回顧調の記事が多いみたいだし、私自身のこれまでを振り返ったり、研究にまつわる思い出話を書いたりするべきなのかなと考えていました。結局当時収束しつつあったコロナ禍の体験を書きましたが、『ラテルネ』は書き手が若い人でもベテランの方でも総じて研究者が自分の学生時代や修行時代をふりかえる、ちょっとじじくさい思い出話が中心的な雑誌といえます

おそらくそれは、創刊号において中心的な寄稿者だった高橋義孝がすでに47歳、彼と同世代の多くの寄稿者もみな、すでに大学教授というひとかどの人物となって自分の青春時代を振り返る時期に差し掛かっていたことが挙げられます

私は最初、『ラテルネ』のじじくささ(失礼!)は、ドイツ文学という業界が高齢化してしまったためなのかと思っていましたが、綜輯号を紐解いてみると、創刊号から続く、なかば伝統のようなものにも思えてきました。

もちろんどの執筆者も同じように昔話を書いているわけではなく、最新のドイツ事情や研究者としての所感などを書いている人も多くいます。

もしかしたら、われわれドイツ語教員が常に大学1年生、2年生ばかりを相手にしてずっと若者たちに対峙しながら自分はどんどん歳をとっていくという状況に置かれているからこそ、そこそこ若い教員であっても、ついつい老人じみた懐古をしてしまうものなのかもしれません。すなわち自分の若い頃を思い出させるような少年少女を常に相手にしているので、日々自分がドイツ語を学び始めたころのことを回想し続けているのが私たちドイツ語教員の宿命なのかもしれないと思っています。

 

これからどうなるのか?

いまや大学におけるドイツ語教育はがけっぷちどころか虫の息です。ごく一部のエリート大学をのぞけば、ドイツ語を本格的に学べる場所は徐々に減りつつあります。

今後このような雑誌に寄稿できるドイツ語教員も徐々に減っていくでしょう。未来は暗いと思ってしまいそうですが、先に書いたように60年ほぼ変わらない形で続けてこれたのだから、まだまだやっていけるのでは、とも思ってしまいそうです。

業界の今後は決して明るくはないけれど、せめてわれわれ研究者が元気で活動していたひとつの資料として、ふたたび『ラテルネ』綜輯号が第四巻、第五巻と刊行されることを願っています。

 

*1:自分自身のことを振り返っても、院生やOD時代のほうがお金はなかったけどもっと野放図に地方学会を楽しめていたように思います。夜の博多で痛飲したり、金沢でりっぱなノドグロをごちそうになったりしたのはいい思い出です。

ゲーテ研究、はじめました

ゲーテについての論文を書きました

先日発行された『希土』48号(希土同人社)に、「演劇で病を治すことはできるか——ゲーテの『リラ』について」という論文が掲載されました。


こちらからPDFをダウンロードできます。

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ドイツ近代文学講義から出てきたテーマ

関西学院大学のドイツ近代文学の授業で取り上げてきたゲーテの歌唱劇「リラ」を論じています。この授業については、去年も秋ごろに内容をまとめていますが、だいたい3年くらい同じテーマで少しずつ内容を変えて続けています。

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2020年に関西学院大学でドイツ近代文学における狂気のテーマについて講義をすることに決めました。そのとき私が念頭に置いていたのは、これまで関心を抱いてきた精神病者シュレーバーと世紀転換期ヨーロッパの心性というテーマを別の角度から考え直したいということでした。

そこで、これまで専門としていた19世紀末よりももっと古い時代(1770年代くらいから)から19世紀なかばごろにかけて、狂気がどのように考えられ、文学作品に描かれてきたのかを知ることで、シュレーバーや世紀転換期ヨーロッパとの差異や連続性が見えてくるのではないかと考えていたのでした。

ゲーテの作品で狂気が描かれるものといえば、『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』や『タウリス島のイフィゲーニエ』が有名です。また、強すぎる絶望や悲嘆から正気を失ってしまう人物としては、『若きヴェルターの悩み』や『親和力』のオティーリエなどをあげることもできます。

 

ゲーテの未邦訳の作品『リラ』

今回取り上げた『リラ』は1777年に最初に書かれ、上演された(1788年の第三稿が決定版とされています)歌唱劇です。ゲーテといえばドイツ文学でもっとも有名な作家ですが、全作品が日本語訳されているわけではありません。

『リラ』はいまだ日本語訳がなく、広く読まれているであろう潮出版社版『ゲーテ全集』にも収録されていません。(そもそも潮版全集の底本であるハンブルク版ゲーテ全集にも入っていないからです)。戦前に出された改造社版『ゲーテ全集』は潮版より多くの作品が入っており、初期の劇作品も読めますが、『リラ』はなぜか訳されていませんでした。

なぜ訳されなかったのかはいろいろ理由がありそうですが、ドイツ語でも30ページと非常に短い作品なので、わりと簡単に読めます。

あらすじは以下の通りです。

主人公リラは、夫のシュテルンタール男爵が留守にしている間、彼の身を案じていたが、何者かによる夫が死んだという誤報を信じてしまい絶望し、妄想の世界に入り込んでしまう。家族や親戚の者たちは彼女の身を案じるが、彼女は自分の妹すら本物の人間とは信じられず、家族は人喰い鬼に囚われていると考える。医師ヴェラツィオは、彼女の病を治すために家族がみな、彼女の妄想の世界に合わせて劇を行うことを提案する。ここから劇中劇が始まり、劇の中でリラはヴェラツィオ演じる賢者マーグスや義妹の演じる妖精たちに導かれて、人喰い鬼に捕えられた夫や家族を解放し、皆がふたたび再会を祝って歌い踊るという場面で終わる。

今回の私の論文では、医師ヴェラツィオがおこなった治療とはどういうものなのか、演劇における意味、そしてゲーテをめぐる実際の人間関係においてこの治療をどう考えることができるか、という点について論じました。

いちばん有名な作家の研究を新たに始めることの難しさ

ゲーテの「リラ」を読んだのが2年前ですが、論文として完成するまでに2年もかかってしまいました。現代文学の作品を論じるときなどは、作品を読み終わったら即学会発表、そして半年後に論文完成というスケジュールも珍しくないので、今回は非常に時間がかかってしまったと感じています。

なぜ2年もかかったのかといえば、やはりドイツ文学でもっとも著名な作家の作品を扱っていることが理由といえます。

古典的な作家・作品を論じようとなると、数多くの先行研究に目を通す必要があります。論文を書く前の手続きとして考えられるのは以下のとおりです。

1)代表作、日本語で読める作品は当然全て読む。

2)日本語で読める研究書・伝記なども関連するものは当然読む。

3)代表的なドイツ語論文、研究書などを読み、研究の動向を探る。

4)当該作品(分野)を論じた最新のドイツ語文献を読み、芋蔓式に必読文献を集める。

私は2年前に、この作品で論文を書こうかなと思い始めたときは、ゲーテの作品は正直なところあまり読んでいませんでした。学生時代に『ヴェルター』、『ファウスト』、『親和力』などは日本語・ドイツ語で読んだものの、『ヴィルヘルム・マイスター(修行時代・遍歴時代)』などはやたら長いので途中で挫折していました。

それで2年前にミュンヘン版ゲーテ全集を買い、日本語訳もあわせて代表的な作品に目を通し、研究史を概観し、いろいろな文献を読みました。

最初の論文を2年前に書き上げたものの、2回も不掲載と判断されてしまい、ようやくこの夏にこの論文が完成したという流れです。

一本の論文に2年もかけるなんてあまりに生産性が低いと言わざるを得ませんが、未知の分野に踏み込むということはそれだけ時間がかかるのだろうと思います。

 

参考文献がたくさんあるのってやはり便利だ

今回の論文を書くのにつかった文献のうち、面白かったものを挙げておきます。

ホルスト・ガイヤー(満田久敏校閲、泰井俊三訳)『狂気の文学』創元社、1973年。

原書は1955年刊行なのでけっこう古い研究ですが、ゲーテ、クライスト、ビューヒナーなどの作品に登場する狂気をおびた人物について、わかりやすく紹介されています。

 

コンラーディ(三木正之ほか訳)『ゲーテ 生活と作品』南窓社 2012年。

上下巻の分厚い伝記です。他の伝記的研究であまり言及されていない、ヴァイマール移住後の1770年代後半あたりのゲーテの活動がくわしく書かれており参考になりました。

 

 

ジークリット・ダム(西山力也訳)『奪われた才能コルネリア・ゲーテ』郁文堂 1999年。

 

『リラ』が書かれた当時、ゲーテの妹コルネーリアは結婚して最初の出産後に鬱状態となり、さらに第二子を産んだ直後に亡くなっています。『リラ』における治療や救済はやはり妹コルネーリアにむけたものだったのではないかとしばしば解釈されます。

 

オットー・ランク(前野光弘訳)『文学作品と伝説における近親相姦モチーフ』中央大学出版部 2006年。

 

ゲーテだけでなく、シラーやロマン派の作家たちなどにおけるオイディプス・コンプレクスや近親相姦の問題について論じた大著です。ゲーテにおける妹への愛着は、『リラ』だけでなく、『兄妹(Geschwister)』、『タウリス島のイフィゲーニエ』、『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』などの作品で形を変えて描かれています。この本は、ゲーテだけでなくいろいろな作家について、これまでに気づかなかった読みの視点が得られたように思えました。

 

Eissler, K. R. Goethe. Eine psychoanalytische Studie 1775-1786. DTV München  1987.

20代から30代終わりごろまでのゲーテについて、精神分析的に解釈している重要な研究です。この本も大いに参考になりました。

 

Goethe, Huber, P. Borchmeyer, D. (Hrsg.): Johann Wolfgang Goethe Dramen 1776-1790. Sämtliche Werke, Briefe, Tagebücher und Gespräche Bd. 5. Deutscher Klassiker Verlag, Frankfurt am Main 1988. 

フランクフルト版ゲーテ全集です。私はおもに2年前にまとめ買いしたミュンヘン版全集を使っていましたが、フランクフルト版(こっちのほうが高い)も参照しました。フランクフルト版はテクストの初稿、第二稿も収録されており異同を確認できます。また、解説や文献案内も充実しており、最初はここに挙げられている論文を集めるところから始めました。

 

次は何をするか?

せっかく始めたゲーテ研究なので、今後しばらくは続けてみる予定です。

さしあたっては、授業でも紹介した『タウリス島のイフィゲーニエ』や『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』に描かれた狂気について考えてみようと思います。

また、ゲーテの作品でちょっと気になっているのが父子関係です。ゲーテ自身の父そして息子との関係も興味深いし、いくつかの作品でも年をとった父親が息子と同じ相手に恋をする話が描かれるなど、兄妹関係と同様にゲーテの気持ち悪さ(あるいは危うさ?)が見えるのが、父子のモチーフではないかと考えています。

いずれにせよ、非常に大きな研究分野なので、いくらでもこれからできることはあるかなと思います。

 

研究室にもっと自作本棚を増やそう

春休みはDIYの季節

毎年集中的に本棚などを自作しているのが、夏休みと春休みです。自宅ではベランダが工作場所になるので、直射日光が照りつける夏よりは、すこし日が長くなった春がいちばんDIYにもってこいの季節と言えます。

例年春休みにいろいろなものを作ってきました。

昨年は2月から3月に、一ヶ月ほどかけて研究室に自作棚を作ったり、使いみちのなかった出窓をきれいにしたり、床に木目調のフロアシートを貼ったりと大掛かりな作業をしました。

schlossbaerental.hatenablog.com

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あまりできが良くなかった出窓の棚を直したい

昨年思い切って出窓を塞いで本棚を作りました。幅150cm、高さ120cmほどの大きな棚ですが、使用している1x8材は歪みがひどく、組み立てて設置してもなんだか不安定なままでした。棚板が明らかに見てわかるレベルで傾いているので、本を並べても整然とした感じがまったくなく、その後一年間、あまり活用することができずにいました。

本棚の裏側の窓は、夏の西日が嫌なのでほぼ年間を通じてブラインドを下ろしたままにしていましたが、それでも隙間から入ってくる日光が気になっていました。どうせ窓として役に立たないなら本棚に背板をつけて、完全に塞いだほうがいいと思いました。

 

大量のもらった本が部屋を埋め尽くす

別のある大学で退職されることになったドイツ語の先生から、貴重な図書をたくさんゆずっていただきました。本来ならば研究室の書庫に保管しておくべき全集や辞書などが多数含まれていましたが、文系の専攻をもたない大学なので、個人研究室で保管し、その先生の後任が採用されないということですべて廃棄せざるをえなくなったということです。

私の専門分野とは少し離れた本もありましたが、そのうち論文の参考文献に使うこともあるかもしれないと考えて、たくさんの本をいただきました。ダンボール20箱以上が年末の研究室に届きました。

これらの本を収めるため、既存の棚のリメイクだけでなく、いくつか新しい棚を設置することにしました。

 

出窓の本棚のリメイク

出窓に設置するのは、高さ127cm、幅160cmほどの棚です。以前は最上段は文庫本、下段はプリンタと大型本が入る高さにしていました。今回は大きい本からハードカバーまで(26cm〜22cm)まで各段で高さを変えています。

昨年新たに取り入れた、トリマーを使った大入れ継ぎで接合時に棚板の高さがずれないようにしました。また、年末頃に使い始めたポケットホールジグと専用スクリューで、棚受け金具を使わずに接合しています。ポケットホールジグは私が棚作りを始めた3年前頃はそれほど普及していなかった(はず)のですが、一年ちょっと前からYou Tube動画などでもしきりに取り上げられています。もっと早く取り入れるべきだったと思います。

youtu.be

このように専用の器具を木材にあてて、ドリルで斜めに穴を彫り、そこに専用のネジを打ち込みます。かなり強力に接合できます。今回の棚のように、2列の棚板の間に側板が入る場合にとくに適しています。

また、窓からの光を防ぎ、堅牢性を高めるために、側板に溝をほって背板をはめ込んでいます。片方はまったく抵抗なくつるっとはめ込んだのですが、もう片方は溝の深さが足りなかったらしく、うまくはめ込めず、板の大きさを変えたりしてなんとか背板をつけました。

低い本棚に拡張棚をつける

研究室の本棚は前からあったスチール棚がほとんどですが、高さが低いものもいくつかあります。低い棚の上にはPCの空き箱などを置いていましたが、考えてみればもったいないスペースです。この部分にも板を組んで2段の棚を設置しました。

高さ70cmほどの隙間には、ホフマンスタール全集とヘルダーリン全集などがぴったり収まりました。

(追記:2月14日)

上の写真ではバラバラに並べていたホフマンスタール全集ですが、番号順に並べ直してみたら、なんと全40巻(42冊)揃っていました。去年春に出た最終巻もちゃんと含まれていました。本を並べ替える際に、上の段が重さで揺れ動いていたので、やはり下の段に補強を兼ねた仕切り板を挟む必要があると思いました。

入り口にあった棚も上が空いていたので、こちらも同じく2段の棚を作り、ハイネ全集などを置きました。

使い道のないスペースにも細い棚を

もう一つ、ずっと前から気になっていたのが、ちょうど机の左手側にある幅35cmの隙間です。本棚を置くには狭いので、とくに決まった用途はなく、掃除機やプリンタトナーやゴミ箱などどうでもいいものを置く場所となっていました。せっかく天井まで空いているのだし、ここにも本棚を作りました。

数ヶ月前に猫脱走防止扉を作る際に、間違って短めにカットし、塗装まで済ませていた2x4材があったので、それを側板にして、棚板は1x6材を使うことにしました。新たに買う必要があるかと思ったら、自宅のベランダに転がっていた木材だけで十分な数がそろったので、端材を利用することにしました。

トリマーで木端から角まで丸くカットすると、端材には見えないくらいきれいに仕上がりました。これも出窓の棚と同様に、大入れ継ぎで側板にくっつけました。

すべての段の高さを19cmにしているので、文庫、新書、そしてドイツの中公新書ともいえる、C. H. Beck Wissenシリーズがぴったりと収まります。

棚板の幅は28cmほどしかありませんが、実はこの棚だけでもそれなりに収納力があります。やはり隙間があれば自作本棚を作るというのが正解です。

 

高いところの本を取るのに便利な踏み台チェアも自作

今回の工作で余っていた、カフェ板(20cmx3cmの杉板)があったので、組み合わせて、座面30cm四方くらいのチェアを作りました。サブデスクとして使っているスキャナ台(これも以前廃材で作りました)にちょうどいいイスになります。

高さは40cmあるので、上に登ればどの棚の本も取り出すことができます。これも本棚と同様にポケットホールスクリューでがっちりと接合しているので上に登っても安心です。

このチェアは油性ニスで塗装しましたが、ワックス仕上げより木目がはっきり出ています。

 

今回は以上のように、

窓際の本棚のリメイク、

スチール棚の上の拡張本棚2つ、

小さな隙間の文庫・新書棚、

そして踏み台チェアの自作をレポートしました。

実はもう一つ、数ヶ月前から構想を練っていた棚がありますが、それは次回。