ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

はじめて海外旅行に行ったときのこと

 

1997年春 パリに行くことにした

私は96年に大学のドイツ文学専攻に入り、ドイツ語を学び始めました。当時は海外旅行はおろか、飛行機に乗ったことすらなかったので、ドイツ語を学んだところで、一生に一度くらいしか海外旅行には行けないだろうと思っていました。

成田空港だって、同じ関東平野だけどどこにあるのかわからないくらい遠い場所(たしかに地の果てのようなところですが)だと思っていたし、さらにドイツ語もドイツも、あまりにも遠い世界でした。入学した当時は、兄もまだ学生だったし、実家は家計が厳しく、大学に貸与制の奨学金を申請していました。冬ごろ大学からまとまった額(授業料の半額くらい)の奨学金が借りられることがわかりました。母は授業料に使ったら、と言っていました(当然ですね)が、私は海外に行ってみたいと主張し、春休みにヨーロッパに行くことを決めました。

決意したのがたぶん10月ごろでしたが、お金はとにかく十分に用意しておきたいということで、コンビニの夜勤をはじめました。12時間シフトの過酷な勤務で、大学の授業にもあまりでられなくなりましたが、半年でそこそこの額がたまりました。このバイトについては、以前ブログに書いています。

schlossbaerental.hatenablog.com

行き先をフランス、パリと決めたのは、当時毎日のように通っていた、銀座や渋谷、下高井戸などのミニシアターでフランス映画を何本も見ていたからでした。映画に出てくるパリの街に行けるのだと思うと期待がつのりました。この当時はドイツ語の勉強にはあまり身が入らず、ドイツへの関心もうすれていましたが、せっかく行くのだからと、旅程の中に一週間くらいドイツ周遊も入れました。フランス語については、少しくらい勉強しようと思っていましたが、独学ということもあり、ほとんど何も知らない状態で現地に赴きました。

 

ネットがなかった時代はどこでチケットを買っていたのか

旅行までの準備は、『地球の歩き方』などのマニュアル本を頼りに進めました。当時はまだ、インターネットはそれほど普及していませんでした(私がネットを使い始めたのは、大学4年生、1999年の春からでした)。ネットで航空券を買うなんてことは当然できないため、旅行雑誌で安いチケットを売っているお店を探し、電話をかけたり、実際に店舗に行ったりして購入していました。(私の場合、旅行会社が集まる新宿・渋谷は大学から10分くらいでしたが、地方の人はどうやってチケットを買っていたのでしょう?)。

日系航空会社は当然高いし、ルフトハンザやエールフランスもやや高い、サベナベルギーやKLMならちょっと安いけど人気があってなかなか買えない。中華系やトルコ航空は南回りで時間がかかる、とあれこれ悩みました。何回か旅行代理店に行ったり、電話をかけたりしながら(雑誌には載っているけど、もう売り切れていたり、実際の商品と違う情報が掲載されていることはよくありました)、結局渋谷の代理店で、アエロフロートのモスクワ経由パリ行き、オープンチケットを7〜8万円くらいで購入しました。オープンチケットというのは、帰りの便を仮に予約し、あとで変更可能であるということです。実際に私は3週間の予定で旅に出て、現地から航空会社に電話して、さらに旅程を2週間延長しています。

また、鉄道旅行もするつもりだったので、ユーロパス(一日ごとに使えるタイプのフリーパス、一定期間で使用するユーレイルパスより、のんびりした旅に適している)も14日分買っていました。

チケットを買い、都庁でパスポートを発行し、学期末テストを終えて、いよいよ旅行の直前というタイミングで、当時バイトしていたコンビニの店長から、大量のカロリーメイトをいただきました。コンビニバイトの話でも書きましたが、店長はバイトたちのさまざまな挑戦(海外旅行、演劇、ボクシングなど)をいつも応援してくれて、長期休職も可能でした。

飛行機に乗ったことすらはじめてだった

出発の当日、成田空港にいくのもたいへんでした。成田空港は東京の西のほうからだと非常に不便です。なるべく交通費を安く上げたかったので、混雑する京王線から山手線に乗り換えて新宿から半周して京成線に乗っていきました。いまはシャトルバスとか特急列車など便利な手段があるのでしょうが、当時は東京の西のほうから成田に行くのはとてもたいへんだったことを覚えています。

飛行機に乗り込むと、新幹線のような座席が並んでいました。一人旅だとだれが隣になるかは乗り込むまでわかりません。日本人だったらいいなと思っていましたが、残念ながらロシア人のおじさんでした。しかしありがたいことにこの方は、英語がよくできる物理学か数学の研究者で、東大などに滞在していたという人でした。離陸時にはげしく機体が揺れ動くので私が動揺していると、気流がどうのこうのという理由だから大丈夫だと、専門知識を生かして説明してくれました。

当時はまだ飛行機に喫煙席が残っていて、ヘビースモーカーだったわたしは当然のようにたばこを吸っていました。しかしその後数年で、喫煙可能な飛行機は減少し、一度はトイレで隠れて喫煙したこともありました。これは今ならものすごく怒られるのでしょうが、当時は換気扇に煙を吐けばまったく平気でした。

日本人のお兄さんにバックパッカーの基礎を学ぶ

モスクワで物理学者のおじさんと別れ、パリ行きの便の待合所に行きました。ここですぐ前の席に座った日本人のお兄さんと、その後パリで三日間行動をともにしました。

たしかHさん、という独協大学(経済か法学部)の四年生で、卒業旅行のために、パリからイスタンブールまで行くのだ話していました。すでに何度か海外を経験しているという彼と、パリ市内に到着し、北駅から5分くらいの安宿にチェックインしました。すでに夜8時頃になっていたので、もうどこでもよかったのでした。

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Hさんとサクレクールの階段で

後になって思うと、このHさんは、旅慣れた学生にありがちなマウンティングをしないし、知っていることや注意した方が良いことなどを簡単に教えてくれました。とにかく親切な人で、最初の旅のパートナーとして理想的な人でした。三日間パリで二人で過ごした後、Hさんは南仏からイタリアへと向かい、私はストラスブールを経て、ドイツに入りました。

一人でドイツに行って一週間各地を回る

パリを出発したのち、このような経路で一週間くらい一人で行動しました。

パリ

ストラスブール

ハイデルベルク

フランクフルト

ケルン

ブレーメン

ハンブルク

ヴァイマール→パリ

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ストラスブールでは旧市街の安宿(2000円代?)に泊まりましたが、考えてみるとこれがはじめて一人で泊まった経験でした。大学入試は東京も地方もすべて親戚宅か自宅から行ったので、一人で宿泊したことがなかったのでした。

ドイツでは、特に計画などはなく、フランクフルトで祖父の教え子だった女性と会うことと、ケルン大聖堂を見ることくらいしかやることはありませんでした。

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ハイデルベルク旧市街。グリューヴァインを二杯飲んで、気分が高揚していました。


ハイデルベルクからフランクフルトに着き、ここでは現地に住んでいる、祖父の元教え子の女性と会いました。この人は石巻の祖父の教えをうけ、東工大を出て、ドイツに渡り、フランクフルトの銀行に勤務されているという話でした。ザクセンハウゼンのレストランで、ドイツ料理をごちそうになりました。

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フランクフルトの旧オペラ座。

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フランクフルト中心街のシラー像

なぜかどうでもいい風景の写真しか出てきません。昔はいまのように、食べたものを写真に撮るという習慣がなかったのかなと思います。
ドイツでは、毎日特急電車で移動し、有名な観光名所を訪れました。真冬だったので、自然の風景を楽しむことはできませんでしたが、教会や美術館などを見て回るだけでも楽しめました。とりわけ印象に残っていたのが、ケルン大聖堂です。

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当時の自分の興奮ぶりがわかるのが、この写真です。なんと尖塔の上まで階段で上っていました。ぜんぜん覚えていませんが、今ならぜったいやらないことです。

それぞれユースホステルに宿泊(ヴァイマルは夜に着いたので駅前のホテル泊)しましたが、当時たくさんいた日本人学生の旅行者からいろいろな情報を聞いて、次の目的地を選びました。ベルリンは工事現場ばかりでつまらないという話を聞いて、ハンブルクからヴァイマルという旅程を選んだのでした。ヴァイマルからふたたびパリに戻ったのですが、どういうルートでどのくらい時間がかかったのかぜんぜん覚えていません。

ドイツの町で印象に残ったのは、最後に訪れたヴァイマルでした。こじんまりとした町でしたが、落ち着いていて緑が豊かでした。ゲーテの家、シラーの家、ニーチェ記念館などを訪れましたが、簡素でかつ明るい雰囲気のシラーの家が印象に残っています。

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シラーの家。

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ヴァイマル国立劇場

 

パリから南仏へ

パリに戻り、今度は中心部から少し離れたユースホステルに宿泊しました。当時のパリは安宿がたくさんあったので、ユースホステルでなくとも連泊はできたのですが、旅の情報を得る目的もあって、20区にあるユースホステルに行きました。

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ポンピドゥーセンターの外壁。どういう状況だったかまったく思い出せないのですが、これは自撮りではなく、だれかに撮ってもらったのだと思います。

ここで知りあった学生二人(ひとりは筑波大の4年生で、もうひとりは短大生でした)と、ロワール川流域の古城めぐりに行きました。

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古城っていかにもフランス観光的でたしかに見に行って良かったのですが、タクシーで名所をめぐるよりは、自分の足で町歩きをしたいと思い、次はマルセイユを目指しました。

南仏の中心都市マルセイユは、明るい雰囲気で、海や坂道が多く、なんだか石巻のようだなと少し思いました。すでにわりと暖かくなっていたパリと比べても、もう春のような気温で、コートを脱いで町歩きを楽しみました。

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『世界ふれあい町歩き』感のある写真。まあフランス語ができなかったので、誰ともふれあうことはありませんでしたが。

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原宿で買った黄色いセーター。当時気に入っていてよく着ていました。


夕方の駅前広場で煙草を吸っていると、一人旅の日本人男性と出会いました。この人は明大政経学部の4年生で、卒業旅行で来ていて、夜行列車の出発まで時間を潰しているとのことでした。私がおなじ明大の1年生と分かると、おごるから夕食を食べようと誘われました。この先輩は、フランス語を履修していたというので、ちょっと頼りにしかけていたのですが、店のボードに書いてあるpoissonという語を見て、「毒!?毒なの?でもサカナの絵だよな?」とあたふたしていました。不安を感じながらも名物のブイヤベースを食べることができました。

再びパリに滞在

マルセイユから戻り、こんどはパリ中心部のセーヌ左岸で数日を過ごしました。毎日町歩きをして、美術館や博物館をめぐり、宿に戻って読書をするという生活でした。

そうこうするうちに予定の三週間が終わろうとしていました。安宿に泊まっているせいか、お金はかなり残っていたので、航空会社に電話して、帰りの便を2週間後に予約し直しました(先述のように、オープンチケットだったため)。バイト先には、考えた末に、まだ帰りたくないので旅行を伸ばします、バイトは辞めます、と手紙を書きました。

最後の二週間は、市内を見下ろすモンマルトルの丘のふもとにあった、一泊2500円くらいの安宿に連泊しました。毎日10時ごろに外出し、サクレクール寺院から町を眺めたり、気になった遠くの建物まで歩いて出かけたりして、夕方宿に戻る、という日々を過ごしていました。今考えると、あまりことばもわからないし、本も読めない世界で、そんな旅行をして楽しいのだろうか?と思ってしまいますが、当時は見るものすべてが美しく、毎日楽しく過ごしていました。

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セーヌ川を東に行ったところにあった、何かの官庁みたいな建物です。

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モンマルトル、サクレクール教会下の広場。

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宿から近かったモンマルトル墓地。ゾラ、デュマ息子など有名人の墓が並んでいました。

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カプチン派の地下墓地、カタコンベ。たしかたまたま知りあった留学生たちが見学ツアーに行くというので、着いていったのだと思います。

ちなみに、この旅行では、けっこう買い物も楽しみました。シャンゼリゼ通り近くのお店で(たぶんけっこう高かったし、ちゃんとフィッティングもしてもらいました)買ったサングラスを私はいまも愛用しています。もう25年も前ですが、ゆがんだり折れたりすることはなく、快適に使っています。

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帰国して、また行こうと決意する

3月半ばに、やっと東京に戻りました。給料を受け取りに、おみやげ片手にコンビニに行き、店長からは急に辞めたことを叱られましたが、すぐにバイトに復帰して欲しいと言われました。(その後さらに2年つづけることになりました)。

東京の生活に復帰しましたが、美しかったパリに比べて、何もかもがばかばかしく色あせて見えました(こういうショック症状はその後も何度も体験することになりました)。

新学期が始まると、いよいよ気分が沈みました。一年次にさぼりまくってほとんど単位が取れていなかった(20とか24単位くらいしか取っていませんでした。今の大学だと留年ぎりぎりで、担当教員と面談になるレベルです)ので、二年目はほぼ毎日3〜5コマの授業にでなきゃいけなくなりました。こんなところでくすぶっていないで、ヨーロッパで勉強した方がいいのではと思い、担任のT先生に相談しました。先生からは、いま日本語で勉強できることをまずはやってみなさいと言われました。先生のことばをうけとめ、その年からまじめに大学の勉強に取り組むようになったことが、じつは今の自分の出発点になっています。

ヨーロッパに旅行して、あこがれの場所を目の当たりにして、ようやく自分が何を大学で勉強しているのかが、具体的なイメージを伴って見えてきました。一浪して大学に入り、文学は楽しんでいたけど、手応えや具体性がないまま苦しんでいた自分にとっては、あのタイミングでヨーロッパに行けたことはとてもありがたかったし、やはりあの旅行が最初の一歩だったのだと思います。