ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

東京外大谷川ゼミの思い出

谷川道子先生を送る

つい先日、1月9日に東京外大名誉教授の谷川道子先生が亡くなられました。ブレヒトやハイナー・ミュラーなどドイツ現代演劇を研究されていた谷川先生ですが、私は明大文学部4年生の頃に、一年だけ東京外大大学院のゼミに入れてもらい、卒業論文の指導を受けていました。

1月14日の日曜日に通夜が、お連れ合いの鷲山恭彦先生の故郷である掛川市で行われ、私はちょうど休日だったので新幹線で参列して、最後のお別れをしてきました。

会場では思い出の写真がスライドショーで流れていました。

大阪へ戻る新幹線を待つ間に、献杯ではないけど、寒い中ビールを飲みました。

谷川先生のもとで学んでいた日々も、もう25年も前のことになるのかと驚く一方、振り返ってみれば、あの出会いや谷川ゼミでの一年間もまた、今の自分の出発点の一つだったと実感しています。

 

1999年、大学4年生だった

大学に入った当初のことは最近振り返りました。

schlossbaerental.hatenablog.com

それから3年が過ぎ、4年生になった1999年、この年はいろいろなことがありました。

このブログを始めたばかりのころに書いた、アパート立ち退きの話もこの年の秋のことでした。

schlossbaerental.hatenablog.com

周囲の友人たちが就職活動を始めたのは、3年生の終わり頃でしたが、私は春休みもドイツに出かけ、現地で演劇や映画を見て過ごしていました。当時の明大文学部は研究者を目指して進学する学生などはほとんどおらず、みんな就職活動を始めていました。私も当初は企業説明会に参加したりするつもりでしたが、やはり進学してもう少しドイツ語や文学の勉強を続けたいと思うようになりました。(このころは修士課程を終えてどこかに就職できればいいや、と考えていました)。

4年生になる直前の春休みに、兄とともに新宿西口でiMacを購入。すぐ使いたいので持ち帰ったのですが、あまりの重さでふたりともへとへとになりました。

ベルリンで見たハイナー・ミュラーを卒論に選ぶ

卒業論文の題材に何を選ぶかは、3年生の後期ごろから友人たちと話し合うことも多かったし、私自身もいろいろな可能性を考えていました。好きだったゲーテの『ヴェルター』やノヴァーリスの詩も気になるし、印象に残っていたマンの『ブッデンブローク家』もいいし、あるいはより難解なツェラーンの詩も気になる、という具合でした。

このころ好きだった作家や作品はその後自分の講義などで何度も取り上げることになりました。

研究であるからには、独自性のあるテーマでなければならない、それならばまずは誰も選ばなそうな作家・作品について書く必要がある、と考えました。あれこれ迷った末、自分が知っている中でいちばん現代に近い、東ドイツで活躍した劇作家ハイナー・ミュラーの作品をテーマに選ぶことに決めました。

ja.wikipedia.org

今思うとこれは非常に危険な考え方です。独自性とは珍しさではありません誰もが知っている有名な作品であっても、いくらでも独自の研究はできます自分が凡庸だと見なされることを恐れて、誰もいない荒野を探すのは文字通り不毛なことです。

谷川先生が訳されたミュラーのインタビュー集。戯曲作品の翻訳とともに、何度も繰り返して読みました。

東京外大の大学院ゼミに入れてもらう

ドイツを旅行しているときにたまたま東京外大の修士課程の院生(たしかTさんというテレビ局に就職される方でした)と知り合い、卒論や進学の相談をしているうちに、そのテーマなら谷川先生に見てもらうのがいいと勧められ、帰国後にメールでやりとりして谷川道子先生に紹介してもらえることになりました。

4月の学期初めに、まだ北区の西ヶ原にあった東京外大に案内され、最初は大学院の事務室で過去問をコピーし、その後谷川先生の研究室に行きました。この過去問が、何十ページにもわたっていて、問題文のドイツ語の量を見て、これは一年勉強したくらいでは到底合格できまいと強く思いました。

谷川先生は、見ず知らずの外部の学生である私をあたたかく迎えてくださり、翌週から大学院の購読のゼミに出ていいと言われました。

 

墓地を歩いて大学に通った日々

こうして幸運にも学部4年生にして大学院の授業に出る日々が始まりました。明大は規模が大きいため、ほぼ全ての授業が学年ごとに分かれているし、学部生と院生が交流する機会はほぼありませんでした。その後進学した京大でもおどろきましたが、国立大学の場合、学年の違いはほとんど関係なく、学部生から若手の教員までいっしょにゼミで学ぶ場があたりまえのようにあったのでした。

大学院のゼミには、私の他に三人の院生がいました。M2に表現主義芸術を研究するKさん、M1は二人いてたしか現在完了形とかそういうのが専門だった言語学のIさん、そしてお名前は失念しましたが言語学専攻の男性の方。また、OBとしてすでに非常勤講師をされていたホフマンや児童文学が専門のHさんもときどき研究室に来られていました。

Kさん、Iさんはお二人とも専任教員としてご活躍されています。Hさんも翻訳家としてさまざまな本を出されています。(あと非常に売れてるドイツ語教科書も書かれていますね)。

ゼミでは、何を読んでいたのかあまり覚えていないのですが、ミュラーの作品ではなく、ミュラー作品の上演についての論文を読んでいたと思います。難しくて予習もままならなかったのですが、毎週先生やゼミのメンバーと会うのが楽しみでした。

東京外大の旧キャンパスまでは、巣鴨から染井霊園を歩いて行っていました。都電荒川線の駅が近いのですが、私は広々した静かな墓地を歩くことが気に入っていました。この墓地には著名人の墓がたくさんあるのですが、それ以上に大小様々な名も知れぬ誰か墓石を見ているうちに、それぞれどんな人生を送ってきたのだろうと考えるのが好きでした。墓地の中を歩きながら、いろんな人の人生の記憶とは何だろうと考えていたことは卒論の着想につながりました。

当時私は進学にかかる費用をためようと平日昼間はほとんど西新宿にある通訳・翻訳・国際会議などの会社でバイトしていました。その合間に外大のゼミや、明大での指導教員との面談(学期に数回だけでしたが)に行ったり、そして図書館に出かけて資料収集などをしました。

 

ゼミ合宿と卒論中間発表、そして院試

谷川ゼミでは、毎年夏休みにゼミ合宿が行われるとのことで、外部メンバーである私も誘っていただけました。例年は、鷲山先生のご実家である掛川市で行われるのですが、99年は何かの事情でそのお家が使えなかったため、喜多見にある先生のマンションで二日にわたって通いのゼミ合宿が開催されました。

ゼミ合宿では、学部4年生や院生が研究内容を発表します。ここで私ははじめて自分の研究テーマについて報告しました。明大には卒論ゼミがなく、夏休みの段階では、まだ指導教員とちょっとした茶飲み話程度の面談しかしていなかったのでした。

はじめてのゼミ発表ということで、卒論で書けそうなこと、今関心を持っていることなどを箇条書きにしてたどたどしい話をしましたが、谷川先生やゼミのみなさんからは、非常にありがたい励ましをいただけました。

ふだん院ゼミに出ていた私は、このとき初めて学部ゼミのメンバーと顔を合わせました。なかでも同級生のH.Mさん(翻訳家のHさんと紛らわしいのでH.Mさんとします)とは意気投合し、それぞれの友達をまじえて家飲みをしたり遊んだりしました。

夏休みの終わり頃に京大の院試があり、二次試験では研究計画のような論述問題が出たのですが、夏休みにゼミ発表をしていなければ、答案を書くことはできなかっただろうと思います。

(京大総合人間学部A号館。私が修士課程の頃まで古い校舎が残っていました。受験時、もう来ないかもしれないと思い写真を取りましたが、まさかその後10年以上通うことになるとは)

京大の院試に合格しましたが、谷川先生には他の志望校も全部受けて、合格してから選べばいいと勧められていました。当初は京大のほかに東大総合文化研究科(駒場)と外大院を受験する予定でしたが、どちらも入試問題が難しく、一回で合格するのは無理そうだと判断し、結果的に受験をやめて京大院を選びました。

 

多和田葉子さんの朗読会にも参加

秋頃には一橋大学で行われた、多和田葉子さんの朗読会にも誘っていただきました。

当時私は毎日のように詩を書いていて、言葉遊びを多用する多和田さんの作品には大きな刺激を受け、朗読会でじっさいにご本人とお話しできて感動しました。

今思うと、あのころ書いていた詩というのは、日常で感じるふとした着想になんらかの言葉によって形を与えようという試みであって、おそらく今のSNSでのつぶやきや、写真やブログなどの表現の原型とも言えるものでした。

谷川先生の下には、数年前に亡くなられた一橋の古澤ゆう子先生も写っています。

このとき初めて中央線に乗って国立で降りて一橋大に行ったのですが、帰りは谷川先生と一緒に谷保から南武線に乗って小田急線で帰ったのを覚えています。(私は引っ越して豪徳寺に住んでいました)。

 

卒論を書き進める

院試が終わってしばらくたって、ようやく卒論を書き始めました。当時私は初代iMacを使っていたのですが、白いワープロソフトの画面と向き合いながら文章をひねり出すのが苦手で、最初はルーズリーフに手で文章を書いていました。10枚程度メモがたまると、Macに文章を移していくといった具合に少しずつ分量を増やしていきました。

この時期もゼミに毎週出ていたのかよく覚えていないのですが、谷川先生には洋書を研究費で注文していただき、それをお借りして少し読んだりしていました。結局卒論にはほとんどドイツ語の二次文献を使うことはできませんでした。

一月のなかばごろが明治大学の提出締め切りでした。一月末ごろに谷川ゼミでも卒論の報告会がありました。先生からは、自分の言葉で書けていると褒めていただけました。

このときは他の学部ゼミのメンバーも来ていて、ドイツ語教員仲間として現在も交流が続いている歴史学のBさんとはこの機会に知り合いました。

研究室で祝杯を上げて、さらに夕方から学生だけで巣鴨でたくさん飲みました。

不義理な教え子だった私

先に書いたように、東京外大の院試は受験せず、京大に進むことを選んでしまったので、谷川ゼミは卒論までで抜けることになりました。

修士課程に入った後で、移転した府中キャンパスで全国学会が行われ、そのときは私も先生やゼミのみんなと会いに東京に出かけました。

しかしその後は以前も書いたように研究で行き詰まり、修士課程で2年も留年し、さらに現代演劇からはかけはなれたテーマを選んでしまったので、谷川先生とは連絡が取りづらくなってしまいました。

博士論文を書き、専任教員になり、それなりに業績をつんでこの業界で生きていけるようになったものの、昔の不義理をいつかおわびしなければいけないなとずっと思い続けていました。

結局ご存命の間に、もう一度会うことも連絡をすることもできなかったのですが、お通夜で祭壇を前にして、これまで教えていただいたことへの感謝を伝えました。

 

いつも思うけど、先生に習うことは難しい

以前恩師が亡くなった時も、それからこれまでの研究生活を振り返っても、私は運良く素晴らしい先生と出会い、教えを受けてきたと思っています。

いっぽうで、谷川先生を始め、それぞれの先生方からちゃんと指導を受けることはできていなかったと反省しています。教えられたことを素直に聞けなかったり、そもそもゼミから逃げたり、会える機会をあえて避けたりしたことも多々ありました。

前にも書いた気がしますが、学生を教えることを仕事にしている今、むしろ教わる側、教師ではなく弟子としてのあり方のほうが、ずっとずっと難しいものだなと痛感します。

 

教えられたことを反芻しながら

新幹線で掛川へ向かう間、2020年に出た『多和田葉子/ハイナー・ミュラー 演劇表象の現場』を読みながら過ごしていました。

 

谷川先生の文章を読むと、ほんとうに当時の先生の声や口調を思い出しました。

退職されて10年ほどたって書かれた本ですが、先生はあのころと全然変わっていないなあと感じました。

多和田葉子さんのハイナー・ミュラー研究や創作との関係について、谷川ゼミ出身のHさん、Kさんの書いた文章を読んで、西ヶ原のキャンパスまで歩いて行った道や、ゼミでの日々、ゼミ合宿などの思い出が蘇ってきました。

私自身はあのころ関心を持っていたテーマからはずいぶん離れてしまったとはいえ、やはり自分自身の中では、連続性があるようにも思います。

ふたたびドイツ現代演劇の研究をすることはないでしょうが、あのころ谷川ゼミで学んでいたこと、先生から教わったことを反芻しながら、自分の研究を続けていこうと思います。