ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

1995年、浪人生の街大宮の思い出

受験生の親の年になっていた

気がついたら私も受験生の親でもおかしくない年齢になっていましたが、今でもときどき19歳で大学に入る前の予備校での一年間を思い出します。

もう30年近く前のことだし、大宮という街にも20年くらい行っていないので記憶があやふやになりつつあります。ときどき思い出しては、あの一年は何だったのだろうと考えます。学生時代を過ごした東京や京都にはいまでもときどき行きますが、予備校があった大宮にはもう行くことはありません。

今回は、30年近く前の大宮で、自分がどんな浪人生ライフを送っていたのか、地図などを見ながら思い出してみます。

大宮駅JR線の出口にある「豆の木」。ここが待ち合わせ場所で、当時は朝や夕方に多くの浪人生が集っていました。

書き始めたらまたもやだいぶ長くなってしまったので、目次をつけておきます。

 

最初の受験の失敗

もう30年近く前のことになってしまいましたが、1995年冬、高校3年生だった私は、志望校の東北大学教育学部を受験しました。本当は文学部がよかったのだけど、センター試験の出来が悪かったので二次試験の配点が高い教育学部に変更し、それでもやはりぜんぜん手が届きませんでした。受験後に山形に住む兄を訪ねて、街の寒さに驚き、やはり東北に住むのは無理そうだと気づいたので、結果が出たときはむしろこれで良かったのだと思えました。

大学教員になった今の私であれば、とにかく志望校のランクを落として入れそうな大学にさっさと入るのがいいとアドバイスをしたくなりますが、高校生だった私は、何がなんでも一流国立大学の文学部に行かなければと思っていたのでした。

1回目の受験で合格できなかったことにはそれほど落胆はありませんでした(逆に両親の落胆は計り知れません)。早く気持ちを切り替え、予備校を決め、模試の成績で特待生になれる河合塾を選びました。

 

あの頃みんなが大宮の予備校に通っていた

当時私の通っていた地方公立校でもそこそこ浪人を選ぶ生徒は多く、同じ河合塾大宮校ハイレベル国立文系コースにも、同じ高校の仲間が十人以上集まっていました。いまではきっと、もっとずっと浪人を選ぶ生徒は減っているでしょう。

大宮市は浦和市、与野市と合併後、中心部が大宮区となりました。新幹線、宇都宮線、高崎線、埼京線、東武野田線などが集まる交通の要衝です。

栃木県南部からだと、大宮も宇都宮もだいたい1時間程度で行けるので、たいていの生徒は大宮の予備校を選びましたが、同級生のうち数名は宇都宮の予備校や東京の予備校に進みました。

いまどうなっているかはわかりませんが、あの頃はさまざまな予備校が大宮駅周辺にありました。西口の代ゼミ、駿台、東口の河合塾をはじめ、東進ハイスクール、慶応進学会、一橋学院などおもな予備校の校舎があったので、栃木から同じ電車で通う仲間うちでも、それぞれ行き先の予備校が違っていました。

大宮という街は、埼玉大がある浦和駅、芝浦工大がある東大宮駅とはことなり、なぜか大学がありません。その代わりに予備校がたくさんありました。(ついでにいえば、兄が講習に通っていた美術系の予備校もありました)。

北関東一円の受験生、とりわけ浪人生たちが、大学に入る前の一年ないし二年だけを過ごすのが、この大宮という街だったのです。

 

 

電車通学の仲間たち

予備校に通い始めると、毎日の通学でいろいろな仲間ができました。

同じ高校出身で河合塾に通っていた友人たちだけでなく、同じ時間帯に通う栃木女子高など他校出身の浪人生たち、さらに友人の地元の友達で別の予備校に通う仲間、そして自宅通学で埼玉大学や都内の大学に通う友人なども、毎日いっしょに電車に乗っていました。

私の自宅は駅から近く、当時は東武日光線とJR宇都宮線を乗り継いでちょうど1時間ほどで大宮まで通学できました。(現在は東武線の本数が激減したのでもっと通学はたいへんでしょう)。

高校までは自転車通学だったので、電車通学は初めてでした。大宮まではうまく時間を調整すればけっこう座って行くことができました。夕方は少し混むけど乗り換えの栗橋駅が近くなるとほぼ座れました。

自転車通学時はいつも家が近所の(小中学校からの)友人たちくらいしか話し相手はいませんでしたが、大宮への電車は毎日いろいろな友達と会えるので楽しみでした。

帰りの電車では、漫画や新聞を拾って読むのが楽しみの一つでした。ジャンプ、マガジン、サンデー、夕刊フジなど、網棚に放置された雑誌を友人たちと回し読みしながら帰りました。

大宮の予備校に集まるクラスメイトたちは、地元出身者だけでなく、春日部、太田、熊谷、栃木、そして宇都宮など少し離れたところから来ている生徒も多くいました。実はとなりの栃木県から来る私たちの方が、埼玉県西部や群馬県から通う生徒よりも通学時間が短かったのではないかと思います。

帰宅時には太田方面の友人たちとも大宮から久喜までいっしょに行くこともありました。久喜で降りた彼らは東武伊勢崎線に乗り換えます。おそらく栃木市よりも時間がかかったのだろうと思います。

 

予備校はビル一個だった

高校や大学と異なり、たいていの予備校はビル一個あるいはビルの一フロアでしかありません。校庭も体育館もないし、理科室などの特別教室もありません。上から下まで大小いくつかの教室がある一個のビルだけです。はじめに手続きをしに行ったときか、そこだけでこれから一年過ごすのかと気づき、これが浪人ということなんだなと初めて自分が惨めな立場で一年を過ごすことが実感されたのでした。

ストリートビューで見る河合塾大宮校。私が通っていた頃と何も変わりません。

校舎がビル一個でちょっと寂しいなと思ったのは最初だけで、慣れてくれば近所のローソンやモスバーガー、中央デパートのゲームセンター、そして氷川神社の参道や大宮公園など、授業の合間や夕方などに散策する場所はたくさんありました。

大宮での過ごし方

大学生は夏休みになれば下宿とバイト先を往復するようになったり、長期間帰省したり、海外に行ったりするのでしょうが、浪人生は学期中も夏休みもずっと予備校に通っていました。

しかし毎日毎日勉強ばかりしていたのかといえばそうでもなくて、やる気が出ないときは街を歩いたり、ファストフード店やゲーセン、書店などをうろついていました。

大宮駅西口は大都会です。当時は新しいビルが多く、初めて来た時は驚きました。代ゼミ、駿台は西口でしたが、河合塾は旧市街方向の東口でした。

こちらが東口。ぐっと親しみやすい雰囲気です。待ち合わせにはマクドナルドまたは「子リスのトトちゃん像」前でした。

氷川参道

東口前の大通りから直角に北方向に伸びているのが、大宮公園までつづく氷川参道です。

河合塾を出てすぐのところにあるので、いつもコンビニで買ったお昼を食べたり、授業の合間に鳩を眺めたりして過ごす場所でした。細長い緑地が1kmくらい続いているのですが、氷川神社や大宮公園まで行ったことは、1、2回しかなかったように思います。

大人になった今、地図を眺めてみると、行動範囲が思ったよりずっと狭かったことに気づきます。

モスバーガー

予備校がある東口にはマクドナルド、ドトール、モスバーガーなどがあり、私はよくモスバーガーを利用して、授業の空き時間などを過ごしていました。

残念ながら数年前に無くなっていました。

今ではあまりカフェで読書や仕事をするほうではないのですが、たぶんあの一年がいちばんよくモスバーガーやドトールなどに行っていたと思います。

中央デパート

モスバーガーのすぐ隣にあったのが、中央デパートでした。

大宮駅西口にはそごうがあり、東口には高島屋やロフトがあったのですが、浪人生たちが集うのは中央デパートの屋上でした。

数年前に取り壊されて、現在は新しいモールになっていますが、当時からすでに昭和の地方都市っぽさがあってだいぶ時代遅れな雰囲気が漂っていました。

ゲームコーナー(一回50円と激安だった)や観覧車があり、授業の合間にあてもなくぶらぶら歩くにはちょうどいい場所でした。

押田謙文堂

私がよく通っていたのが、東口から北方向に商店街を進んだところにあるこの書店でした。

参考書コーナーを見るだけでなく、岩波文庫、講談社学術文庫や人文書をたち読みしていました。

哲学科を志望しているのだから、大学に入る前になにかちゃんとした本を読んでおくべきだと思ってはいたものの、数千円する単行本を買う勇気はなく、文庫本や新書をときどき買って眺めるだけでした。

たぶんこの書店で見つけたのですが、駿台予備校が出している雑誌に、大川興業の大川豊社長が受験生の悩みを聞くコーナーがあり、そこに11年間一度も入試に合格したことがない「谷崎十一浪(仮名)」という受験生が出てきたことを覚えています。北海道から沖縄まで全国の大学を受けては落ち続けているという話でした。私の記憶違いかと思って確認したら、たしかに実在の記事でした。(↓5chの過去ログ。なぜかリンクは開けませんでした)

居酒屋

押田謙文堂の近くは飲み屋街で、さまざまなお店がありました。当時は今とちがって未成年飲酒など当たり前だったので、浪人生たちもときどき飲み会を開いていました。

中でも印象に残っていたのが、夏期講習の最終日に、世界史の先生を囲む会をしたことでした。雑談が多く楽しい授業をする先生は生徒たちに絶大な支持を集めていて、いろいろなクラスからたくさんの生徒が飲み会に集まりました。

 

帰ってきたら公園に寄る

ほぼ日課のように、電車を降りてから家に帰るまでに、新大平下駅東側の公園に寄り道していました。

日立の大きな工場があるのですが、工場の周辺に緑地が広がっています。

ベンチに座って、缶コーヒーを飲んだりタバコを吸ったりしながら、一日のできごとを振り返りながらぼんやりする時間を過ごしていました。

家に帰るのが嫌だったわけではないし、予備校がつらかったのでもないのですが、それでもやはりいつまで受験勉強をするのか、ほんとうに大学に入れるのかという不安に日々苛まれていました。

今の自分だったら、運動しろ、熱い風呂に入れ!とアドバイスしたくなるところですが、当時の私は公園でぼんやりするのが気分転換の方法でした。

ふと思い出したのですが、ある日電車の網棚に置き忘れられたケーキの箱を持ち帰り、公園で食べたことがありました。(明らかにダメなことですが、忘れ物として届けたところでなまものなので間に合わないし、仕方ないだろうと判断したのでした)。

 

講演会に参加した

現在の受験生は大学のオープンキャンパスや見学会に参加するのが一般的でしょうが、私たちの頃は大学の状況を知る機会はほぼありませんでした。

栃木市には(高校はたくさんあるものの)短大しかないので、私は兄が大学に入るまで大学生を見たことがなかったし、たまに帰省した部活の先輩や教育実習生から大学の状況を聞き知ることしかできませんでした。(兄は美大生だったので私はあまり参考にならないと思っていたのでした)。

予備校に入って良かったのは、大学教員や作家、文化人などの講演会が行われていたことでした。

この種のイベントはやはり東京が中心だったのですが、いちど大宮校でも学問分野の紹介ということで、東大の心理学の先生と都立大の社会学の先生から話を伺う機会がありました。

哲学や文学の先生が来る機会がなくて残念でしたが、大学の学問の雰囲気を知ることができました。

また、千駄ヶ谷校に当時話題になっていた、クロード・ランズマンの『ショア』の上演会にも行きました。なにせ9時間半もある作品なので、友人とふたりでときどきお昼を食べたり散歩をしたりと休憩をとりながら見たのを覚えています。

同じく千駄ヶ谷には、沢木耕太郎さんの講演会にも行きました。そういえば家にもあったと、父が『深夜特急』の最初の巻を買っていたことを思い出し読み始めたところ、講演会当日までに全巻読破し、友人とともに本にサインをいただくことができました。沢木さんは「高い視点で、大きな視点でものを見ること、そしてつねに途上にあること」が大事だと話していました。

 

浪人時代の読書

大学には入るまでにたくさん本を読んでおきたいと思って、押田謙文堂に通っていましたが、やはり毎日の勉強が気になってなかなか読書量は増えませんでした。

このころ読んで印象に残った本が、最近復刊された東京大学出版会の『知の論理』でした。

 

知の論理 新装版

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東大教養学部のさまざまな分野の研究者が、学部生(および一般)向けに各分野の最新の知見を紹介するという論文集です。

この本に収録された、高橋哲哉さんの論稿で映画『ショア』を知って、上映会に行ったのでした。『ショア』で提示された死者の表象(不)可能性や記憶の語り方という問題は、その後の卒業論文にも(おそらくは偶然的に)つながっていました。

ほかに印象に残っているのは、池田晶子さんの書かれた西洋哲学の入門書です。

 

また、現代思想についてはこちらの本を眺めたりしました。

 

よくわからないながらも、こういう哲学を勉強するのだから、大学生になったらドイツ語を勉強しようと思っていたのでした。

当時あまり理解していなかったにせよ、この頃抱いていた関心は現在の自分まであきらかに連続しているのだと改めて思いました。

 

 

浪人の一年間で何を得たのだろう

以前の記事にも書いたように、私は浪人してまで大学に入ることを勧めません。私のように一年浪人しても、希望の大学に入れないこともよくあるからだし、勉強するなら大学の勉強を早く始めた方がいいからです。

 

schlossbaerental.hatenablog.com

それでもこうして改めて思い出してみると、95年から96年までのあの一年間で、その後につながる何かを得たことはわかりました。

勉強への姿勢が変わった

学力的には、当初期待したほど伸びなかったのですが、それでも勉強への姿勢は大きく変わりました。受験ではいちばんの得意科目となった英語ですが、予備校で基礎からしっかり身につけた経験が、当然その後のドイツ語学習にも役立ちました。

何を学ぶために進学するのか考える時間

将来何を仕事にするか、ということだけでなく、大学で何を学びたいかということを高校時代よりじっくり考えることができました。栃木の高校生からそのまま大学に進んだら、大学に入った後のギャップが大きかっただろうと思います。

文章の書き方を意識的に学んだ

当時英語と並ぶ得点源と思っていたのが、小論文でした。高校時代から現代文の先生に個人指導を受けていましたが、予備校で毎週講義と作文を繰り返すことで、自分なりの文章の書き方が確立してきました。ブログや論文など、文章を書くことは自分の仕事になりましたが、書き方を集中的に学べた浪人時の経験が生かされています。