ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

あの頃どんな授業に出ていたのか? 1990年代後半の学生時代

 

昔は大学の授業なんて出てなかったし勉強していなかった→本当なのか?

昔からよく大人たちは、学生時代は勉強しないで遊んでばかりだったと回顧していたものです。それこそ私が学生の頃から、自分たちの頃は毎日雀荘に入り浸っていたとか、授業になんて出ていなかったと語る人はたくさんいました。

私自身も、学部生の頃はあまり真面目に勉強していなかったし、当時はそれなりに頑張っていたと思っていたものの、大学院に入ると自分がいかに怠慢に過ごしてきたかを思い知らされました。

たしかに今と昔では、大学の制度も学生たちの気質もだいぶ変わってきています。ではいったい何が変わったのか、そして授業に出ていなかったという昔の学生は、いったい大学で何を学んでいたのでしょうか?

ちょうど学部時代の成績証明書が見つかったので、自分が一年の浪人後にどのように大学で学んでいたのかを、予備校時代の思い出の続編として書いてみます。

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結論から先に書くと、私は大人たちがいう、「学生時代は勉強してなかった」という言説はあまり真面目に受け取るべきではないかもと思っています。そこには、怠惰に学生時代を過ごしてしまった後悔や、本当はいま勉強したいのだという願望や、先のことを考えずに遊びにも勉強にも熱中できた学生時代への憧憬など、さまざまな感情が含まれているのだと思います。私は必ずしも昔の大学生が大学にも行かず、勉強もしていなかったわけではないという立場から自分の思い出を書きます。

 

成績証明書を見直す

10年前に今の職場に着任するにあたって、学部や大学院の成績証明書や学位証明書などを取り寄せて提出しました。そのさいに母校から送ってもらったのが、この成績証明書です。

取得単位はこれがすべてではなく、右側の列にも続いていたと思うのですが、主なものはこちらの写真に写っているとおりです。

当時、各科目は通年で履修登録しているので、講義科目等は4単位、語学や体育などは2単位となっています。現在はそれぞれ2単位、1単位ですね。現在はどの科目も半期ごとに成績をつけます(また講義科目は半期の15回で1セットになっています)が、昔は通年で一区切りだったので、語学科目は夏休み前に期末テストがあったものの、講義科目は夏休み中に課題レポートを書き、後期に期末試験または期末レポートを出すという形式でした。

上の方に並んでいるのが必修科目のドイツ語、英語、体育、そして独作文や独語学、独文学史などで、それにつづいて専攻選択科目、共通選択科目が並んでいます。たぶん写真の範囲外に卒業論文など3、4年生で習得した科目が記載されていたはずです。

どの科目をどの学年で履修していたのかは書いていないので記憶があやふやな点もありますが、当時何を考えて、どの科目を履修していたのかを思い出してみます。

 

文学部に入るとほとんど語学の授業だった

明治大学和泉キャンパス第一校舎前。10年前に学会にいくついでに寄り道していました。

大講義室があった第二校舎。1年生の頃には共通選択科目の講義などがありました。現在この校舎は無くなり、新しい建物になっています。

1996年に明治大学文学部に入学した私ですが、私立文系専願というわけではなく予備校では国立文系コース、しかも二次試験まで数学を使うつもりで勉強してきたので、予備校の時間割には常に数学も理科もありました。

大学に入って最初に驚いたのは、シラバスや履修要項を見ると数学も理科もなく、ほんとうに文学や語学の授業しかないのだなということでした。あれほど苦手で苦労してきた数学や理科を今後はほんとうにまったく受講しなくていいのだと分かると、安心する反面、ああやっぱり自分は受験に失敗したのだ、私立大学にしか入れなかったのだと落胆する気持ちもありました。たぶん国立大学であれば、膨大な数の選択科目から自然科学科目を履修することもできたのでしょう。

それはともかく、1年時には週に3コマのドイツ語、2コマの英語、それに加えて独語演習やドイツ語会話など実質的な語学科目もあったので、一週間の授業の半分くらいは語学でした。

英語は好きだったし、ドイツ語がやりたくて独文学専攻に入ったのですが、いくらなんでも語学しかないじゃないか、これではどうやって文学の勉強をすればいいのかと途方に暮れました。

そして新たに学び始めたドイツ語の授業が毎日続くので、一度授業についていけなくなると、あっというまに落ちこぼれてしまいました。写真にあるように、ドイツ語科目で可が並んでいるのは、1年生の成績です。(その後1年生の春休みにドイツへ旅行し、2年生からまじめに勉強し始めることになりました。そのときの旅行はこちら。)

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語学くらいは真面目にやらないと卒業できなくなってしまう

私は大人たちがいうことを真に受けて、大学生というのはまじめに勉強せず、授業にも出席せず、モラトリアムの時期を楽しむのが正解なのだと思っていました。そして夏休みも冬休みもなく朝から晩まで予備校で過ごした、大宮での浪人時代の反動もあったことでしょう。

「大学に入ったら授業には真面目に出なくていいし、遊んで過ごしてもいい」という言葉とともに、「しかし必修の語学や体育にはちゃんと出ておかなければならない」という補足もおそらく私の耳に入っていたはずでしたが、都合の悪いことは聞かなかったことにしてしまうものです。私は1年時にドイツ語も体育もさぼりまくってしまいました。

その後2年生以降は毎日大学に行き、たくさん授業に出席することでこれまでの遅れを取り戻しました。

語学や体育は再履修クラスでやっと単位が取れたので、やはり昔の大学では授業に出なくても良かったというのは都市伝説でしかなかったと思います。

 

 

講義科目もいろいろあった

成績表に掲載されている、専攻選択科目や共通選択科目など、おもに1,2年次に履修した講義科目を中心に、どんな授業だったのかを思い出して書き出してみます。

専攻の専門科目のほうが当然よく覚えているのですが、そちらは別の機会に書きます。

 

心に残っている授業

劇場論

演劇学専攻の先生が担当されていた講義科目です。シェイクスピアのグローブ座のことや、鴎外が滞在していた当時のベルリンの演劇事情などの話しを覚えています。たぶんこの授業で聞いた話が、3年生のときにベルリーナー・アンサンブルやドイチェステアターに通っていろいろな作品を見る下地になっていたと思います。しかしなぜか成績は可。

戯曲作品研究

こちらも演劇の先生の授業ですね。『オイディプス王』がテーマで、戯曲テクストを読み、パゾリーニの映画版を視聴した記憶があります。『ハムレット』もこの授業で精読できました。前期後期で、『オイディプス王』と『ハムレット』の二作品を取り上げたのかもしれません。

西洋思想史 

予備校で小論文を習っていた石塚正英先生が出講されていました。私が1年時にいちばん楽しみだった講義です。西洋思想史となっていますが、中身は社会思想史でした。大講義室でけっこう大人数の講義だったので、毎回先生と顔なじみの私が出席表を配布する係をしていました。

あれから25年くらいたっているのに、石塚先生が大学を退職後も旺盛に執筆されていることにいつも驚きます。

 

今年のはじめにも新刊が出ていました。これは面白そうなのでぜひ読んでみます。

芸術学

2年生のときに、大量の単位を取らなければならないので、仕方なく土曜日まで授業を入れた結果出会えた素晴らしい講義でした。谷崎潤一郎を中心とした比較文学的な内容でした。この授業で谷崎作品が好きになり当時熱中して読みました。文学部の共通科目だったため、同じ専攻から受講している友人はいませんでしたが、他の専攻の友人ができました。

 

比較文学

4年生のときに履修していた唯一の講義科目(あとは卒論ゼミだけ)でした。講師は阪大を退職したばかりの小谷野敦先生で、ちょうど私も『もてない男』を読んで感銘を受けたところだったので、毎週楽しみに受講していました。夏目漱石作品について詳しく紹介されていたので、その後大学院に入る頃までいろいろな漱石作品を読みました。

 

印象に残っているが、単位は取れなかった授業

現代思想 

哲学にあこがれていた(のだけど当時の明大文学部には哲学専攻がなかったので独文にしました)私としては、現代思想=現象学や構造主義やポスト構造主義の話だろうと勝手に思って受講しました。しかしこの授業ではいつまでたってもフッサールもハイデガーもデリダもドゥルーズも出てきません。いったい何の話をしているのだろうとわけもわからず過ごしていましたが、今思うとあの授業で扱っていたのはアメリカ現代思想でした。担当されていた先生は青土社から翻訳を出すなど活躍されていました。

難解過ぎて途中で単位取得をあきらめ、コンビニの夜勤明けに半分眠りながら受講していました。

 

西洋音楽史

高校時代は芸術の選択授業は音楽を履修していたので、もうちょっとちゃんと勉強してみたいと考えて受講しましたが、さっぱりわからず挫折しました。モテットの話をしていたことくらいしか覚えていません。私と同様なんとなく受講した友人たちは軒並み途中で受講を諦めたり、期末レポートを提出しても単位が取れなかったりと厳しい授業でした。

 

授業は覚えていないが単位を取っていた授業

人文地理学 

たぶん授業には出ず、友人にもらったコピーを持ち込んで期末テストを乗り切って単位を取得したのだと思います。そうそう、もらったコピー持ち込みで楽勝科目、というのも昔はときどき聞いたように思います。私が受けていた授業では、この科目だけでした。

日本国憲法

教職課程の必修科目なので履修しましたが、教職の他の科目がつまらなくて、早々に諦め、なんとか憲法の単位だけは取りました。あまり授業に出た記憶はありませんが、試験勉強のためにいちおう第何条に何が書いてあったかということは復習しました。

 

独語学概論 

明治には当時言語学の先生がいなかったので、東大駒場の有名な先生が来られていましたがが、全く内容を覚えていません。専攻の学生がほとんど受講する科目だったので、とりあえずみんなが履修していましたが、ちゃんと理解できていた学生がどれくらいいたのか疑問です。(たしか同じクラスに有名なドイツ語学者のお嬢さんがいたので、みんなが彼女に質問して教えてもらっていました)。試験もけっこう専門的なことを問われました。一夜漬け程度の勉強はしていましたが、なぜ単位がとれたのかわかりません。

 

授業に出なくても単位が取れたわけではないが、やっぱり勉強は足りていなかった

昔の大学でも今と変わらないくらい授業に出なければならなかった

こうやって大学入学当初に受講していた科目を振り返ってみると、たしかにあまり内容が頭に入っていなかったり、ほとんど出席していなかったりする科目もあるにはあると分かります。

しかしいっぽうで、演劇や芸術関連の講義や語学や体育などは、毎週しっかり出席し、レポートを書いたりテストを受けたりと、今の学生とほとんど変わらないやり方で(もちろん大規模私学だったので発表や反転授業などはほとんど行われていなかったのですが)勉強していたとも言えます。

出席表もリフレクションペーパーもすでにあった

昔の大学はおおらかで出席も取らなかったし、代返もやり放題だったという話もよく目にしますが、これも私にとっては都市伝説のようなものでした。石塚先生の講義で出席表を配る係をしていたと書きましたし、他にもいくつかの授業で出席表やリフレクションペーパーを提出することはありました。もちろん現在のように半期14〜15回の授業が義務付けられているわけではなかったのでときどき休講はあったし、学生の出席率も(一部必修科目以外は)それほどきっちり確認されていませんでした。

やはり違いは昔の学生の気質によるものというよりは、大学の成績評価や単位の数え方など制度的な違いが大きいように思います。

セメスター制より通年評価のほうが良かった面もあるのでは

最初の方に書いたように、昔は通年で成績評価していたのが、現在はセメスター制(あるいはクォーター制)になってしまったというのも大きな違いです。今私が教えている講義科目は半期15回で終わる内容になっていますが、昔の大学であれば、一つの講義が一年続くのでもっと内容を深めることができたはずだと思います。

語学の勉強は昔の学生の方がまじめにやっていたのでは

私は文学部の外国文学専攻だったので、当然のように4年間ひたすら語学ばかり勉強していましたが、他の学部でもかつてはもっと第二外国語のコマ数が多く、場合によっては4年生になっても必修の第二外国語の単位が揃わなくて苦労していた人もいたようです。

現在は第二外国語は少なからぬ大学で、週1コマ、1年あるいは半年のみの履修で単位が足りるところもあります。第二外国語の重要度が下がる一方で、他の分野の学習が充実しているのは確かでしょうが、逆にドイツ語教員の私としては、昔のほうがむしろ語学の学習については充実していたのだろうと思います。

文学部でなくても2年生まで語学を勉強するのが当然だったし、3年生以降も専門書を購読する授業が多く開講されていたというのも今から見ればだいぶかけ離れた状況でしょう。

それでもやはり勉強していなかったと思う

しかしそんな「昔は良かった」的な大学で学生生活を過ごし、それなりに時間をかけてドイツ語を勉強してきたはずの私ですが、大学院に進むと、いかに自分が遊んでばかりいて不勉強だったかを思い知らされました。前にも書いたように、私は修士課程だけで4年もかかってしまいましたが、そうなった一番の理由は、基礎学力の不足でした。

ひょんなことから高校野球の名門校に入ってきた田舎の少年が、自分がそこそこ活躍できてた田舎の軟式野球とのレベルの違いにショックを受けるように、私は研究者を目指す院生たちの学力や学習意欲に驚き、自分がいかに小さな世界にとどまっていたかを痛感しました。

それで私もいまでは、学生時代は勉強していなかったなあと回顧するおじさんになってしまいましたが、よくよく考えると、それでも当時は授業には出席していたし、講義の内容も覚えていたし、勉強を楽しんではいたのでした。それでもやはり勉強は足りなかった、もっと勉強したかったとは思うものなのでしょう。

 

文学部生にとっての社会からの重圧は今も変わらない

大学生の頃、それなりに勉強していても虚しさや不安を感じることがよくありました。こんなことをしてどうなるんだろう、こんな勉強に熱中しても就職につながらないじゃないか、とはいつも考えていました。

とくに明大駿河台キャンパスは大学の周辺がすぐにオフィス街だったり、新宿駅で乗り換えだったりしたこともあり、日々忙しそうな会社勤めの人たちの世界が大学と隣接していて、自分はどうやって生きていくのだろうと不安に駆られました。

おそらく大学で実社会からかけ離れた勉強をしていることへのうしろめたさや不安や焦りは、今の学生にとっても変わらないでしょう。留学したり、語学の資格をとってアピールの材料にするのもいいし、サークルやアルバイトで社会勉強をすることもたしかに意味はあるでしょう。しかし私としては、文学部で勉強に熱中することこそ、会社にアピールしていいし、会社や役所に入ってからも大学時代の勉強は役に立つはずだと思って欲しいです。会社に入ったことがないし、会社員の友だちもいないのでわかりませんが、大学教員という一社会人として、やはり大学で学んだ外国文学の知見は、社会に対する視点として非常に役に立っていると実感しています。

この点については確証はありませんが、「文学部に行きたかったけどやめておいた」という人は多いものの、「文学部を選んで後悔した」、「文学部ではなく経済学部にしていたらちゃんと就職できたのに」といった意見をあまり聞かないことからも、ある程度推察できそうです。

 

大学でどうやって文学を学ぶのか?

さて、長くなりましたが今回は1、2年生ごろに受講した講義科目を振り返り、私がどうやって大学の勉強を始めたのかということを書いてみました。しかしまだ、大学入学当時に感じた、「語学ばかりの授業でどうやって文学の勉強をするのか?」という疑問についてほとんど言及していませんでした

文学を学ぶというのは、大学で語学の授業を取ったり、講読の授業で短編小説を精読したりするだけではなく、もっと幅広い視野で学ぶ必要があります。これまでにも少し書いたことがありましたが、また改めてどのように文学研究の考え方を学べばいいのか、そして自分自身が学んできたのかという点についてまとめ直してみようと思います。3、4年生や大学院で受講していた科目についてもそこで改めて振り返ります。

現在のリバティタワー。私が3年生の秋に完成しました。

明大の校舎は大きく変わりましたが、富士そばと楽器店は変わっていませんでした。