ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

ドイツ文学史をどの本で学ぶか?

 

読んだふりではなく、これからの読書のために文学史を学ぶ

昨年から関西学院大学で、ドイツ近代文学講義およびドイツ文学特殊講義という講義科目を半期ずつ担当しています。ドイツ文学を専攻する学生を相手にした授業というのは、じつは初めてなので、何を教えたらいいのか戸惑うことばかりでしたが、一年やってみて、要はこれから自分がやりたいことを話せばいいのだと気づきました。もちろん、すでに知っていることや、長年研究してきたことを授業で話すのほうがやりやすいのでしょうが、私はこれまであまりちゃんとした独文学研究をしてきていないので、この機会に、これまで分かったつもりになっていた知識を整理して、これから自分が研究したいことを模索しようと思いました。

春学期は、「狂気とドイツ近代文学」というテーマにしました。私はこれまで19世紀末から20世紀初頭にかけての狂気や精神病をめぐる言説を研究していましたが、それがもっと以前の時代や、ドイツ文学のさまざまな作品とどう関係しているかについては、あまり考える機会がありませんでした。そこでもう少し視野を広げ、博士論文以後あまり手を付けていなかった狂気というテーマをもう一度見直そうと思ったことがこの講義のきっかけでした。(関学の講義についてはまた別の機会にどんなことをしていたかをまとめて書きます)

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講義の準備のために、文学史の本を取り出して読んでみましたが、日本ではもはやすっかり不人気なドイツ文学についても、たくさんの入門書や文学史の本が出版されています。

今回は、読んだふりではなく、これからどんな本を読むか、そして好きな作家や作品をよく知るために、私がいつも参考にしている文学史の本を紹介していきます。

 

ドイツ文学を知るための第一歩

手塚富雄・神品芳夫:『増補 ドイツ文学案内』(岩波文庫)(1993)

 

おそらく多くの大学のドイツ文学専攻で最初に読む本の一つではないでしょうか。私は著者の一人である神品芳夫先生に必修科目の独文学史の授業を受けていたこともあり、大学入学時に購入しています。授業ではおそらく19世紀から20世紀初頭あたりまでしか進まなかったのですが、今読み返すと現代文学の記述が充実しています。多くの作家作品が取り上げられる中、もう現在ではほとんど研究されていない作家も少なからずいることに気づきます。昔の紀要や学会誌などを開くと、今よりももっとさまざまな作品が読まれ、論じられています。独文学の研究者が減り、一般の読者層も減少し、その結果一部の限られた作家作品しか読まれなくなっているのでしょうか。

 

代表作から文学史を知る

保坂一夫:『ドイツ文学 名作と主人公』(自由国民社)(2009)

 ニーベルンゲンの歌から、シュリンクの『朗読者』まで、ドイツ語圏文学の代表作が、2〜4ページほどで紹介されています。20世紀文学の割合が多く、第二次大戦前、戦後の東西ドイツ時代の作品が多く紹介されています。また、各章の最後には、作家の印象的なことばが「この一言」として引用されています。一例を挙げます。

人間の思考は、話しているうちに、だんだんにまとまってゆくものである。(保坂一夫、クライスト『ミヒャエル・コールハース』の項、80ページ)

 

一昔前のスタンダード

佐藤晃一:『ドイツ文学史』明治書院 (1972)

 昭和42年に出版された本です。中世から現代までをカバーしており、執筆者からみても、ちょうど東京大学出版会の『ドイツ文学史』の一世代前のバージョンといったところです。また、中心となるのは近代文学なので、第二次大戦後については、エンツェンスベルガー、フリッシュ、ドーデラーをはじめ、60年代までの著名な作家が挙げられていますが、記述はあっさりしています。

 

原文に触れてみたい人向け

柴田翔:『はじめて学ぶドイツ文学史』ミネルヴァ書房(2003)

 私が大学院生のころに出た本で、読書会のテクスト選びのさいに参考にしたような記憶があります。特徴は、文学史や代表的な作家作品を紹介するだけでなく、じっさいのドイツ語文も掲載されている点です。とりわけ戯曲や詩については、原文を音読して、それから訳を読むと、音の美しさや文のリズムを味わいながら楽しむことができます。院試の勉強として読解練習などにもよさそうです。

 

評伝、年表、翻訳文献一覧などが充実

岡田朝雄・リンケ珠子:『ドイツ文学案内 増補改訂版』朝日出版社(2000)

私の教科書などでいつもお世話になっている朝日出版社さんからも、文学史の分厚い本が出ていたことを思い出して、この機会に読んでみました。前半はレッシングからグラスまで、主要な作家の評伝と作品紹介が写真入り見開き2ページにまとめられています。さらに、写真なしで多くの作家が紹介され、後半部分は主要作品の解説、そしてロマン主義や写実主義など、文学史上のエポックごとに作家たちの生きた時代と出来事が年表にまとめられています。私がとくに便利だと思ったのは、主要作家の翻訳文献がまとめられているページです。ゲーテなどは7ページにも及びます。今ではあまり研究されない作家についても詳しく書かれているので、卒論、修論を書いている学生さんにおすすめです。

放送大学のテキストもおすすめ

神品芳夫:『ドイツ文学 歴史のなかで文学の流れをみる』日本放送出版協会(1998)

保坂一夫:『新訂ドイツ文学 文学の伝統と美的主体』日本放送出版協会(2003)

どちらも中世から現代までの歴史を叙述していますが、とりわけ現代文学の紹介に力を入れていることが分かります。前者はクリスタ・ヴォルフやヨーンゾンなど、旧東ドイツの作家を、後者は現代オーストリア文学や、統一後のドイツ文学について多くのページを割いています。残念ながら、現在では放送大学にドイツ文学という科目は開講されなくなっており、「ヨーロッパ文学の読み方—近代篇」という各国文学のリレー講義のような形式になっているようです。しかしこの講義もとてもおもしろそうです。

 

大学院入試ならやはりこの一冊

藤本・岩村・神品・高辻・石井・吉島:『ドイツ文学史[第2版]』東京大学出版会(1995)

 私が大学に入るころに出た本です。著者はこの当時の重鎮といえる人たち(現在80〜90代くらいの世代)です。中世から現代に至るまで、ドイツ語圏の作家作品が網羅的に記述されています。この本はある程度専門家向けということもあり、時代状況や思想的な問題に、それぞれの作家たちがどのように対処したのかという点についても掘り下げて書かれている点に特徴があります。私は大学院入試の勉強として、この本を(高いので図書館で借りて)通読して文学史の流れを勉強しました。とはいえもうだいぶ昔のことになってしまったので、改めて読んでみると勉強になる箇所が多々ありました。

執筆者たちの思い入れが伝わってくる記述

岡本和子、畠山寛、吉中俊貴:『ドイツ文学の道しるべ』ミネルヴァ書房(2021)

 

今年出版された新しいドイツ文学の入門書です。編者、執筆者は40代くらいの若手研究者のみなさんです。前半(第1部)は、『ニーベルンゲンの歌』から多和田葉子までの作家と代表作の紹介、後半(第2部、第3部)には、講義編として「ゲーテとの関係」、「幻想文学」、「過去への反省」などさまざまなテーマからドイツ文学が論じられ、さらに日本、フランス、アメリカ、中国、ラテンアメリカなど世界のさまざまな言語文学との関係についても書かれています。

第1部の作家作品の紹介は、伝記的事実と作品の概要に留まらず、それぞれの分野の専門家が、作品のどこが面白いのかを本人の言葉で伝えようとする記述が非常に魅力的です。また、第2部、第3部の講義編は、文学ファンにとっては読書の幅を広げるきっかけになるでしょうし、学生にとっては卒業論文等のテーマを模索するのにたいへん役に立つでしょう。読書案内として、文献の翻訳、二次文献、映像作品などがまとめられている点も便利です。

 

地域ごと、時代ごとの文学史も学びたい

これまで取り上げてきたのは、ニーベルンゲンから現代までという、同じ時間軸でドイツ文学を紹介する本ばかりですが、ほかにも地域や時代を限定した文学史の本が出ています。

恒川・小松・尾川・若槻・根本・平子・大中:『文学にあらわれた現代ドイツ—東西ドイツの成立から再統一後まで—』三修社(1997)

 

私が学部生の頃にずっと習っていた恒川先生の本です。卒業論文で東ドイツ文学をテーマとすることに決めたときに買って読みました。東西ドイツの代表的な作家・作品だけでなく、当時おこったさまざまな事件、文学史上の論争、そしてそれぞれの作家がどのように行動したかといった点について詳しく書かれています。

 

W. エメリヒ、津村正樹訳:『東ドイツ文学小史』鳥影社(1999)

東ドイツ文学小史

東ドイツ文学小史

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「小史」とありますが、かなり大きな、いわゆる鈍器本です。これもまた卒論執筆時にちょうど出版されたので、大学図書館で何度も延長を繰り返して読んで参考にしました。東ドイツの政治や文化についての研究は、最近さまざまな重要な本が刊行されていますが、文学についてはやはりこの本が必読文献といえるでしょう。

 

クリークレーダー、斎藤成夫訳:『オーストリア文学の社会史—かつての大国の文化』法政大学出版局(2019)

 ドイツではなく、オーストリアに限定した文学史の本は、『新訳オーストリア文学史』、『オーストリア文学小百科』などがありますが、ボリュームや記述の新しさという面ではやはり本書が優れているといえます。2019年に刊行されたばかりの本で、私もたぶん去年買って、そのまま自宅書棚の置き物にしていました。今回記事を書くためにちょっと開いてみました。

現代文学については、ベルンハルトはもちろん、ランスマイヤー、ケールマン、グラヴィニチといった日本の研究者にも人気の作家たち、そして最近話題になったゼーターラーや、つい先日小説『インディゴ』の翻訳が出たクレメンス・ゼッツなどについても詳しく書かれています。

 

スイス文学会編:『スイス文学・芸術論集 小さな国の多様な世界』(2017)

ドイツ文学といえば、スイスの作家たちも忘れてはいけません。日本でも人気の、ヘッセ、シュピリ、ヴァルザー、デュレンマット、フリッシュなど著名な作家作品論を中心に、スイス文学を概観できる本です。