ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

ドイツ語の先生はこの先生きのこれるのか?

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半年くらい下書きを続けてきた記事をまとめました。*1私たち語学教員はどんな状況に置かれていて、今後どうなっていくのでしょうか。昨今の状況を参照しつつ、考えたことを書いておきます。

 

今学期もドイツ語は超少人数

昨年も話題にしましたが、勤務校ではここ数年、第二外国語4言語(独・仏・中・韓)のなかでドイツ語がいちばん少数派となっております。私が勤め始めた頃は、フランス語よりだいぶ人数は多く、とりあえずフランス語に負けることはなかろうと思っていたのですが、気がつくと立場は逆転し、いまや学部によってはフランス語の半分程度の受講者しかいません。

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このことについては、昨年春の記事でもとりあげました。正直、自分としてはこのまま超少人数で推移していくことがベストではないかと思っている*2のですが、今年は不開講になりそうなクラスがあったため、別の学部のクラスとの間で人数調整をしてなんとかクラス存続を図るといった事案が発生しました。*3このまま減少傾向が続けば、従来通りの開講クラス数を維持していくことすら難しくなります。

さらにこういう状況が続いていくと、遠からず、ドイツ語の授業が減っていき、ドイツ語の教員も減り、ゆくゆくは私もドイツ語以外の科目を教えることで、大学でのポストを維持せざるを得なくなるのではと思っています。

 

初年次教育、専門ゼミ、教養科目の講義、そして語学の授業

私の職場の場合、英語でも第二外国語でも、担当教員は各学部に所属し、語学の授業以外に各学部のゼミや講義を担当します。私の場合は、経営学部経営学科の基礎ゼミ(初年次教育科目)と、外国文化の講義をしています。↓私の担当する講義についての過去記事です。

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所属学部によっては卒論ゼミや大学院も担当することもあります。また、卒業単位にならない語学教育センターの講座を担当している先生も多くいます。しかし語学教育センターは今後英語が中心になるとのことで、ここでも第二外国語(とくにヨーロッパ言語)は軽んじられている、というかお弁当のいろどり程度の扱いです。

それぞれいろいろな授業を担当しているとはいえ、私たちの仕事の中心はあくまで語学を教えることだと思っています。

 

学部のなかで立場が弱い第二外国語の教員

私たちの同世代は、2010年代のはじめにつぎつぎ就職していきました。はじめは年限付きの助教や講師、その後はパーマネントの准教授や教授になっていった人も多くいます。仲間たちの多くは、国立大学の旧教養部的な部局や、私のように語学を主に教える学部所属の教員として着任しました。(私も皆と同じようにどこか田舎の国立にいくのかなあとぼんやり考えていましたが、よくわからない偶然で今の職場に決まりました)

かつて教養部に所属し、さまざまな学部からきた学生たちに語学を教えてきた私たちですが、現在は国立大学の場合は語学教員だけの部局、私学の場合は私のところのように、各学部に分属するかたちが一般的です。 

私の場合は、経営学部の教養・基礎教育部門というところに所属しています。ここにはスポーツの先生、英語の先生、そして私と他2名の第二外国語の教員がいます。どこの大学でも同じだろうと思いますが、専門科目を教える教員と教養の教員との間には、さまざまな差があります。

もちろん事務職員さんや専門の先生方には、私たち外国語教員を下に見ているなんていうつもりはないでしょう。私も明確にバカにされたり意地悪をされたりしているわけではありません。しかし、専門と教養の差別、いわば大学教員としての格のちがいとでも言えるものが存在しているように思います。

大学教員の格

大学教員の世界には、ぼんやりとですが、「格」というものがあります。大学自体の研究・教育のレベルや伝統、規模ももちろん重要ではあるのですが、それ以上に、どのような立場で大学に所属しているかが、教員の格を決めています。ざっくり分けると以下のようになります。(私がわかる範囲なので、外国語外国文学系です)

1)旧帝大など一流国公立大で専門科目を教え、研究指導もする教員。

2)私立大学文学部で専門科目を教える教員。

3)地方国立大学の人文学部や教育学部で語学と専門科目を教える教員。

4)私立大学や国立大学の語学センターや文学部以外の学部で語学を教える教員。

本当はこのさらに上に、授業や学生の指導を(基本的に)しない、研究所勤務という人たちがいるのですが、全国的にもごくわずかなので省略します。

この表の順番がおそらく大学教員の格ではないかと私は考えています。研究環境がいい大学で、自分の専門を授業で教え、そして学生たちと最先端の知を探求するというのが、建前的には私たちの理想であり、それが実現できそうな職場にいることが、教員の格となります。

職位は各職場における立ち位置の一部でしかない

大学教員の格というものを私なりに考えてみましたが、もちろんこのような「研究ができるか」あるいは「専門分野の教育ができるか」というのは、多くの指標の一つでしかありません。権力、収入、職位、何を一番大事と答えるかはそれぞれの職場、それぞれの人ごとに違うでしょう。

権力という側面については、私はほぼ何も知りません。今の職場にきて6年目ですが、何もできることはありません。人事に口を出したり、ドイツ語のコマ数を増やしたりなんてことはまったくできていません。せいぜい、知り合いに非常勤講師をお願いするくらいのことしかできません。どこに権力があるのかという問題はわりと職場ごとに違うのではないでしょうか。

また、収入という側面は非常に判断に苦しみます。一般的に私がいるような大規模私学は給与が恵まれているといいますが、給与というのは、勤続年数や職歴から決まってくるので、同世代でも全然違ったりして、比べようがありません。(私は43歳で勤続6年目ですが、分野によっては同世代で専任教員になってもう15年、30代半ばで教授になっている、という人もいます。)

 

どこにいれば安心なのか

なぜ、いまどき教員の格だの、専門教員と語学・教養教員の差なんてことを言い出したのかといえば、つい最近このような記事が話題になったからでした。

gendai.ismedia.jp

河野先生の場合は、国立大学ですが、このような流れは当然私たちのいる私学でも起こりつつあることです。今後苦しい立場になるのはやはり語学教員、とりわけ私たちのような文学や文化を専門とする教員たちでしょう。国際系学部が各大学にできて、外国語教育業界は活況を呈しているように見えますが、よく見ればどこの大学でもやってることは英語と東アジア言語(中国語・韓国語)ばかりで、ヨーロッパ言語はおまけです。教員の専門分野も言語教育学や国際的な実務に関係しそうな分野が重用されていて、伝統的な外国文学はやはり蚊帳の外です。

ここで一度整理します。

ドイツ語を教える場というのは、国立大学文学部のドイツ文学専攻から、私立大学経営学部の第二外国語まで、学生たちの目的や意欲、到達目標(さらに履修者数も)などが全く違っています。大学におけるドイツ語不人気問題を考えるときには、大学や大学教員をひとくくりに論じることなどできないものだという前提を思い出しておく必要があります。

 

ドイツ語教員はこの先生きのこれるのか?

どうやってクラスを維持するか?

今年は、定員厳格化のあおりで、各学部に超少人数クラスが発生しました。今後もうマイナー言語については、これまでのクラス数を維持するのは困難になりつつあります。

いくつかの学部では定員を決め、抽選を行っていますが、非常に手間がかかるので、これまで通り、学生の自由に選ばせ、あとで教員が不開講や追加クラスの設定をするなどの方法がおそらく手間が少なくなります。

一方で、もちろん非常勤の先生方の雇用を守ることは第一に考えなければなりません。超少人数であっても、不開講を避け、クラスが維持できるように働きかけていくことはぜひとも必要です。

 

ドイツ語の履修者減は、単純に不人気だから?

ここまでいろいろ書いてきましたが、よく考えるとドイツ語のクラスがなくなりそうだといっても、それは別に誰かがドイツ語に対してネガティブキャンペーンを行ったからとか、学部の専門の先生方がドイツ語なんてやめておけと言ったからではありません。私たちのクラスは、単純に不人気ゆえに、存在感がうすれ、新入生たちに選ばれなくなってきているのです。

このような傾向が始まったのは、もちろん文学部以外では専門課程で外国語文献を読む必要がなくなったからでしょう。かつて重視されていた、ドイツ語やフランス語の文献を読むという大学での学びは、英語で書いたものが読めればいい、あるいはビジネス中国語のような需要がある科目を優先しようという方向へと変わってしまいました。その結果ドイツ語やフランス語は、難しくて1、2年学んでもそれっきり役に立たないものに成り下がり、ネガティブなイメージだけが広まって、現在の状況へと追いやられてしまったのでしょう。

ここ数年の状況だけを見れば、ドイツ語教員の人気を得るための努力が足りないから、学生に選ばれなくなり、勝手に不人気になって苦しんでいるだけのように思われてしまいます。しかし、根っこにある問題は、ドイツ語を不要なものへと追いやってしまった、学問・教育のあり方です。これは河野先生が先の記事で指摘している市場原理の導入という問題とも繋がります。

 

私たちはこれから何を教えるのか?

私たちはもうこの先生きのこれないかもしれません。あと数年後には語学教員でいなくなっている可能性だってあるでしょう。そのときに私はいったい何を教えるものとして持ちうるのか。語学を教えない語学教員が、専門と関係ない学部で教えられることとは何なのか。そういったことをここ数年いつも考えています。

私は語学教育を通して、学生に言語との向き合い方や、文化とは何かを教えたいと思っています。経営学部に入る学生の多くは、社会に出てすぐに役立つ=会社に入れてもらいやすくなる能力を得ようと望んでいます。それゆえ世の中の流れ的には、教員も少しでも役立つことを教えるべきだということになりつつあります。

もちろん私だって、役に立つことは教えたいし、何より語学教師なのだから、使える語学を教えています。しかし信念としては、会社に入れなくても、あるいは会社がなくなっても生きる力を大学で身につけてほしいと願っています。

 

将来的な展望

こういう話になると、どうしても理念的にならざるをないので、もう少し具体的に何ができるかを考えてみます。私自身は、学部生の頃の語学や文学の勉強から、世界の広さや生きる上での励ましを得てきたと思っています。だから今は学生にとって何らかの希望や楽しみが見つかるような授業をしたいし、あるいはそんな教科書を作るのもいいかと思います。

 

 

 

 

*1:はてなブログには、下書きという機能があります。私はリリースした記事のほか、そのうち書きたいと思ったテーマをいくつか下書きに置いておいて、折を見て完成させ、発表しています。まだ日の目を見ていない下書き記事はおそらく50本くらいあるでしょう

*2:そのうちに、5人以下の超少人数クラスにおけるアクティブラーニングの実践、みたいな研究発表でもできるのではないかと考えています。

*3:具体的に説明すると、超少人数で開講不可能となったA学部のクラスに、同じ時間にB学部で開講されているクラスから、担当教員・学生の承諾を得て、何名か移動してもらい、不開講を回避したということです。