ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

信玄餅とおばあさんの思い出

信玄餅もらって食べたこんな味だったっけな

先日、数十年ぶりに甲府の名物信玄餅を食べました。

妻が山梨大学医学部で行われた研究会に参加し、お土産は何がいいかと聞かれたので、信玄餅をリクエストしたところ、定番の桔梗信玄餅をはじめ、いろいろな種類を買ってきてくれました。

こどもの頃何度も食べたのと同じ、風呂敷包みふうのビニールの包装を開け、こぼさないように注意深く黒蜜をかけてきな粉のついた餅を食べていると、何度も思い出していた昔と変わらない味だと感じるいっぽうで、このお土産を買ってきてくれた父方の祖母のことを思い出していました。

おなじみ桔梗信玄餅と手前は金精軒の信玄餅。どちらも包装は似ています。

黒蜜をかけて、きなことよく混ぜて食べます。子供の頃は黒蜜を少し残しておいて、あとで吸ったりしていました。

信玄餅はプルーストにおけるマドレーヌ、あるいはティークが『金髪のエックベルト』で書いた、どうしても思い出せない犬の名前シュトローミアンのように、私の封印していた記憶を呼び起こすものでは決してありませんでした。*1

およそ20年前にはもう亡くなっていた祖母を思い出す時、いつも同時に信玄餅のことも考えていました。回想を繰り返すうち、きなこと黒蜜を練り混ぜるように、私はおばあさんの記憶を自分の中に作り上げ、反芻してきました。

今回おそらく10年ぶりに食べた信玄餅は、これまでと違って、子供の頃の自分の記憶だけではなく、祖母がどんな人生を送ってきたのかという、本人が亡くなって、そして私自身が大人になって新たに見えてきた記憶をも呼び起こしたのでした。

 

石巻の祖父母

石巻市に住んでいた父方の祖父母ですが、祖母の実家は山梨県です。結婚後ずっと宮城県に住み続けていた祖母ですが、私が子供の頃には毎年のように山梨に帰省し、親族と会ったり同窓会に参加したりしたあと、栃木の私の家を訪れてしました。

私の両親は宮城県出身で、ふたりは高校時代栗原市の岩ヶ崎高校の同級生でした。栃木には父の勤務先の会社(仙台の本社に採用され、栃木支社に転勤になったのでした)があったため私が2歳くらいの頃に移住しました。私が育った大平町(現在の栃木市大平町)は、大きな工場はあるものの基本的には昔ながらの宿場町で、同級生のほとんどは、祖父母も親戚もみんな同じ町内という典型的な田舎町でした。

だから、他県からの移住者というのはとても珍しかったと思います。夏休みには父の実家、そして母の実家を訪ね、一週間以上自宅を離れることもありました。県を跨いで親の実家に帰省する子供など周りにはほとんどいませんでした。

母方の祖父母は栗原市で農家を営んでいたので、農閑期には、私の家や那須地方にいた叔母の家にやってきて、孫の相手をしてくれました。保育園のころには、父方母方それぞれの祖父母が定期的に家を訪ねてきて私たちの保育園への送迎をしてくれたり、遊んでくれたりしました。

父方の祖父は教師でしたが、私が生まれる頃にはすでに定年退職し、自宅で数学の私塾を開いていました。祖母は、叔母(父と叔父の姉)が重い障害を持っていたため、家にいて専業主婦をしていました。祖父の家は石巻の中心から近い小高い丘の上にあり、商店街から長く続くけっこう急な坂を登らなければなりませんでした。祖母は当然車には乗らないし、自転車も役に立ちそうにない坂だったので、おそらく70代に入り本格的に弱ってくるまで、ずっとあの坂道を登り下りしていたのだと思います。

 

祖母はなぜ信玄餅を買ってくるのか

祖母はそもそもなぜ山梨から宮城の祖父の家に嫁いできたのでしょうか。二人の出会いは戦時中でした。東北大工学部を出たのち、陸軍の技術将校として航空機開発に携わっていた祖父は、おもに立川の飛行場にいたそうです。

山梨にいた祖母は、看護学を学び、看護婦として勤務していました。祖母が看護婦だったということは、死後本棚から『産婆学』の教科書が出てきた時にはじめて知りました。祖母の一族はもともと農家で、山梨で果樹栽培をしていました。私も子供時代に一度訪れたことがありますが、美しい山の麓に広がるすもも林のいい匂いや、樹木にむらがる立派なクワガタムシをよく覚えています。(しかしそれ以上に印象に残っているのが遠さでした。栃木から車で行きましたが、地の果てのような遠さだと思いました)。

戦闘機に乗っていた祖父と看護婦だった祖母は、なんらかの機会に出会い、戦争終結直後に結婚し、仙台郊外に移住したそうです。その後祖父は教員になり、父が小学生くらいのころに石巻の丘の上に家を建てました。

祖母は20代で故郷を離れ、以後ずっと仙台や石巻周辺で生涯を過ごしたわけですが、親族は山梨に残っていたし、非常に仲が良かった妹さん(めちゃくちゃ見た目も似ていた)が千葉*2に住んでいたこともあり、たびたび栃木の我が家を経由して親族のもとへ出かけていたのでした。そのときの私たち孫へのお土産が、信玄餅だったのです。

 

祖母の石巻ぐらし

祖母はもともと関東から中部地方あたりの言葉を話していたはずですが、長く住み続けているうちしぜんと「だっちゃ」がつく石巻の言葉を話すようになっていました。祖父の口ぶりはあまり思い出せないのに、祖母の「だっちゃ」は今でもよく思い出します。

祖母がどんな人だったのか、どんな生活をしていたのかということは、大人になった今考えてみるのですが、記憶が薄くて、あまり想像ができません。

祖母の数少ない趣味はプロレス観戦でした。当時は夜のテレビでプロレスが流れていることがあったし、夏休みに遊びに行った際には祖母は奥の寝室でテレビを見ているのが聞こえました。祖父母の寝室にはポスターが貼ってあり、石巻の体育館で試合がある日には見にでかけていたそうです。

それからよく覚えているのが、祖母の親友であるAさんの家です。市立図書館の近くにお家があったので、私たち兄弟もしばしば立ち寄りました。Aさんのお宅には二人の息子さんがいて、私たちより15歳くらい年上で、お二人は父の葬儀にも来てくれました。お宅にはダックスフントを飼っていて毎回私たちは犬を触るのが楽しみでした。

石巻の家は、2000年代の初頭に祖父母が亡くなって数年経ったころ、叔父と父の立ち合いのもと解体されました。震災後一度だけ訪れたことがありますが、祖父母の家周辺は何も変わっていませんでした。あの家や石巻の街のことはしばしば思い出しますが、栃木の家周辺と違って、そこらじゅう坂道だらけだったので、私たちはほとんど自力で遠出することはできませんでした。おそらく祖母もまた、遠くに住む親族の家を訪ねるとき以外は、ごく狭い範囲で過ごしていたのだろうと思います。

急坂の上にあった石巻の家(2012年再訪)

石巻駅から商店街を抜けると、坂へとつながる道がはじまります。昔は坂を下り切ったところに本屋さんがあって、小学生の頃に毎日通って、楳図かずお『漂流教室』を立ち読みで読破しました。

カーブを曲がると徐々に傾斜がきつくなってきます。

右の細い道に入ります。小さい頃はこのあたりでもう坂が嫌になり、父におんぶしてもらいました。

急坂を登り切ったところには駐車場があり、そのすぐ近くに祖父母の家がありました。2012年夏に17年ぶりに訪れて道の狭さに驚きました。軽自動車くらいしか安心して通れない狭さです。

坂道の上からはこのように市内中心部が見渡せます。遠く見えますが、徒歩15分くらいで駅まで行けます。

晩年のお祖母さん

私が最後に元気だったお祖母さんにあったのは、もしかすると1995年高校3年生の冬に、東北大を受験するために石巻の家に泊まったときだったかもしれません。

当時母校からは毎年80〜100人くらいが東北大を受験するので(そのうち30人くらいが合格していました)、なかば修学旅行のように旅館を予約して多くの同級生はいっしょに宿泊して試験を受けていました。

私は祖父の家があるので、宿は予約せず石巻から仙台まで試験を受けに行ったのでした。たぶんあのとき2泊したのが、最後に石巻の家に泊まった日で、最後に元気なおばあさんと会ったときだったのだと思います。

ひさしぶりに祖父母の家に泊まって、祖母の作ってくれた塩味濃いめの料理を食べ、受験に行きましたが、それなりの装備を整えてきたにも関わらずとにかく寒くて、仙台に着いた時点でこんな寒い街で暮らせるはずがないと諦めムードになっていました。多少なりとも期待して送り出してくれた祖父母には申し訳なかったと思います。

 

弱っていく祖父母、離れていった私

私が大学に入って実家を離れるのと入れ替わりで、祖父母が石巻から栃木に移りました。祖母の体が弱っており、二人で暮らすのが難しくなったためでした。その後祖母は徐々に認知症が進み、たまに帰省してもなかなか意思疎通が難しくなっていきました。とはいえ孫のことは忘れても、祖父や看護師さんにはひっきりなしに元気に喋り続けていたので、当時私はあまり悲しいとは思いませんでした。

祖母は近所の病院に入院し、一方祖父も癌の再手術等で千葉大に入退院を繰り返していました。一度大きな手術の前に祖父に会っておいてほしいと父から頼まれて、大学の授業を休んで朝一番で千葉に出かけたことがありました。たしか朝9時くらいに手術開始と言われていたのですが、いそいで東京の自宅から病院に向かっても間に合いませんでした。千葉ってクッソ遠いなと悔しい思いをしました。

東京にいた頃は、それまでより距離が近くなったので、離れてはいても祖父母とはしばしば顔を合わせていたように思います。

 

祖母の最期

そうして私が大学院修士2年の春、ちょうど連休が始まる頃に祖母は亡くなりました。私は祖父のほうが弱っているように感じていたので、祖母が先に逝くとは予想外で驚きました。あのときが私にとって初めての身内の葬儀でした。葬儀のとき、弱っていて車椅子に乗って移動していた祖父は、それからちょうど一ヶ月後に亡くなりました。

祖父母がそうやって亡くなるということは別に早すぎたわけではないし、仕方がないことではあったのですが、なぜか当時非常にショックを受けて、数ヶ月もやもやして勉強に集中できませんでした。その年、私は一度目の留年を決めるのですが、原因は祖父母の死でした。

亡くなった当初、もう私は祖母の元気な姿や祖母がどんな人だったのかなど、あまり思い出せなくなっていました。大人になって疎遠になってしまったし、認知症で会話ができなかった最晩年の印象が強かったせいでしょう。

しかしそれから祖父、叔母、叔父、そして父と石巻の家にいた一家はみな亡くなってしまい、家そのものもすでに更地になっている今、逆にようやく落ち着いて、あの家のことやおばあさんの人生のことを考えられるようになったのかもしれません。

 

本人の語りではなく記憶を通して故人を再構成すること

最近、生活史の聞き書きによって過去の出来事や過去に生きていた人を知るということが注目されています。

 

東京の生活史

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この本は、私も非常に興味深く読みました。また、昨年夏には雑誌『壮快』で親の生活史聞き取りについての特集記事も出ていましたが、こちらもぜひ自分で母や義父母に話を聞いてみたいと思いました。

しかし一方で、話を聞きづらい人間関係もたしかに存在しているし、無理に本人に話を聞く機会を設けなくてもいいのではないかと私は思います。祖父は技術者として戦争に参加し、その後も酒を飲んでは戦時中の思い出話をしましたが、私は祖父にあらためて話を聞いて記録を残そうとは思えませんでした。どうしても近親者に直に話しを聞くとなると、関係の近さが語りをさまたげることになるように思います。そもそも私は聞き手としてうまく話しを引き出す自信がありません。

私はむしろ、いま死後20年を経て、当時の記憶を回想し、思い出された物事を再検討することで、本人の語りとはまた別の形で、故人の人生を再構成することも可能ではないかと思っています。本人の語りからその人の生きた時代を再現することが社会学の手法だとすれば、故人を知る人の思い出から、故人の歴史を浮かび上がらせるというのはまさに文学の方法といえるでしょう。

文学作品を読むように、私たちはそれぞれが持っている記憶を読み出し、並べ替え、整理する中で、亡くなった人の人生、そして私たちの生との関わりを想像することができるのでしょう。

 

 

*1:『金髪のエックベルト』はルートヴィヒ・ティークによる短編小説で、ドイツロマン派を代表する幻想文学です。エックベルトの妻ベルタは親からの虐待を逃れて森の奥に住む謎の老婆の家に住み、宝石を卵として産む鳥と名前がわからない犬とともに暮らすが、老婆が留守の隙に鳥を盗んで脱走し、鳥の産む宝石を売って生計を立てていた、という昔話を話す。犬の名前シュトローミアンは、どうしても思い出せないのに、不意にベルタの話を聞いていた友人ヴァルターから言い当てられる。ベンヤミンがカフカ論で指摘するように、シュトローミアンは想起が発動する鍵となる言葉を意味しています。

*2:西千葉駅前で机など学校向け用具の会社をされていた。祖父もまた癌の治療でたびたび千葉大病院に入院していたこともあり、千葉は私たち家族にとって身近な場所になりました。