ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

子なし夫婦の10年

もう結婚して10年も経っていた

私が妻と結婚したのは、2011年の春のことでした。気がつけば10年。ずっと二人で暮らしてきました。考えてみると、結婚した当初とは二人の関係性も、暮らし方も、徐々に変化してきたように思います。今回は、この10年でどんなことがあったか、どのような変化があったかをふりかえります。

この10年で私たちは、2回転居しました。京都、西宮、大阪という住む場所の変化は、当然生活の変化でもあったので、結婚生活を、3つの段階に分けてみました。

ケンカが絶えなかった最初の3年(京都市右京区太秦)

結婚を決めた私たちは、京都市右京区の太秦に転居しました。太秦を選んだのは、二人とも大学院を単位取得退学し、もはや京大生ではなくなったため、京都大学や学生文化の雰囲気が強い左京区から少し距離を置きたいと思ったからでした。また、左京区には単身者用の安いアパートは多い反面、夫婦や家族向けとなるととたんに高くなるという点も不安だったからです。

f:id:doukana:20110405154448j:plain

太秦のマンション。目の前は丸太町通り。愛宕山がよく見えます。

f:id:doukana:20110427101737j:plain

引っ越して家具を設置しています。
当時私は、京都精華大学の特任助手(3年任期)になって2年目で、いちおう一人であれば問題なく食べていけるくらい(目安としては学振DC+ボーナス3ヶ月分程度)の収入を得ていたので、結婚するとしても問題はないし、お互いの家族にも納得してもらえると考えたのでした。(逆に、何としても助手の3年のうちに結婚しなければと必死でした)。

結婚した最初の年、妻は母校の非常勤が週1回、2コマしか仕事がなく、ほぼ主婦でした。私一人の稼ぎではまったくお金が足りず、貯金はあっというまになくなりました。2年目、3年目は妻の仕事が増え、より家計は安定していきました。

結婚生活を始めたころは、新しい生活を楽しんでいた反面、ケンカもしょっちゅうでした。最初は6畳間に机を二つ並べていましたが、後のケンカが原因で、それぞれが独立した部屋を仕事部屋に使うようになり、現在もそうしています。

日々ぶつかり合う中で、私たちは共通の生活をどう作り上げるか試行錯誤をしていたのでした。そして、やはり当時のケンカばかりしていたのは、それぞれ金銭的にめぐまれていなかったことも原因としてあったでしょう。

 

不妊治療に熱中した4年間(西宮市夙川)

私が今の職場に就職し、妻も同じ年に大阪大学の特任助教となったのを機に、西宮に転居しました。大阪ではなく西宮を選んだのは、阪神間の便利さ(大阪、京都どちらも行きやすい)や、維新の影響力を避けるためでもありましたが、いちばんは子供を育てる環境として理想的と言われていたからでした。

f:id:doukana:20140308071528j:plain

夙川のマンションから。六甲山が見渡せる景色のいい部屋でした。

f:id:doukana:20140315145713j:plain

マンションから走って10分くらいで海岸に出ます。ここを散歩するのも気に入っていました。

この街で私たちは、子供をつくり、子供を育てることを目標に暮らしていましたが、結局4年近く不妊治療に没頭し、子供はできませんでした。不妊治療について細かいことは書きませんが、二人とも収入はそこそこ多かったので、できることはほぼすべてやりました。

ホルモン注射や採卵など体に負担のかかる治療が多かった妻に比べ、私の負担は金銭的な面ばかりだったので、失敗してもあまり落ち込まなかったし、妻の前ではいつも明るく前向きな態度でいるように心がけていました。それでもやはり、私にとって、夫婦の10年間で一番しんどかったのは、4年目から6年目くらい、まさに不妊治療の時期だったと思います。当時は月に何回か、逃げだしたくなることがありました。

私にとって辛かったのは、治療が失敗に終わると数十万円が無駄になるということだけではなく、ほぼ確実に、次に行う治療はもっと高額になるということでした。宝くじは何回買っても大体同じ額でしょうが、不妊治療は外れれば外れるほど高くなる宝くじです。失敗すればするほど、次にかかる金額が確実に増えます。そして、お金を費やせば費やすほど、結果への期待値も高まり、失敗した時の落胆も大きくなります。

こうやって毎年新車一台分くらいのお金を無駄にしていくなかで、仮にうまくいって子供ができても、おそらくずっと同じことの繰り返しになるのではと不安になってきました。つまり、あれだけ苦労して、お金をかけて作った子供なのだから、よく育ってほしい、他の子供よりも優秀で、美しく、立派な人間になってくれなきゃ困ると、生まれた子供にまで勝手な期待をかけてしまうのではないかと思ったのです。もちろん不妊治療でうまくいったご夫婦でも、子供さんを伸び伸び育てているというひとはたくさんいるでしょうが、私は追い詰められている妻を見るうち、自分だって冷静ではいられなくなるかもしれないと怖くなってきたのでした。

結婚して6年目、妻が40歳になる頃に、不妊治療をやめました。妻は心身ともに消耗し、落胆していました。私にとってもこの時期はつらい思い出です。しかし、私は、子供がいないから自分たちが不幸でかわいそうな夫婦として暮らしていくつもりはありませんでした。西宮に来て2年目に、新古車のアウディA4を買ったのもそういう理由でした。不妊治療中だって、日々の生活を楽しんでかまわないのだ、という自分なりの決意でした。(衝動的に買うことにしたので、貯金が足りず、母から借りました。その後ボーナスですぐ完済できました)。

f:id:doukana:20150712144645j:plain

アウディを買って、最初にドライブに出かけた淡路島。

アウディでいろいろな場所に出かけ、マラソン大会のついでに旅行をしたりするうちに、治療がうまくいかなくてもまあいいんじゃないかという雰囲気になってきました。

不妊治療をやめてしばらくたって、私たちはマンションを買うことにしました。

 

開き直ってマンションを買って二人暮らし(大阪市福島区)

2018年の初めに、自宅で二人飲み会をしているときに、ふと家でも買うかという話になりました。車を買う、海外旅行に行く、家を買うなど、私たち夫婦は、重要な事柄はすべて飲み会の最中、酔った勢いで決定してきました。

春休み期間に何度か家探しに出かけ、福島の中古マンションに決めました。福島という場所は、土地勘はなかったのですが、私と妻の職場の中間地点(おたがい電車で1時間以内)というちょうどいい場所だったからです。おしゃれで高級なイメージだけでなく、居酒屋やレストランがたくさんある、酒飲み人の街であることも、私たちにとっては重要なポイントでした。

f:id:doukana:20190108134804j:plain

家のすぐ近くには堂島川があります。中之島もふだんの散歩コースです。

f:id:doukana:20180304173658j:plain

梅田ヨドバシ前。梅田が徒歩圏内というのも気に入ったポイントでした。

18年の夏から新居に移ってすぐに父が亡くなって、しばらくは落ち着きませんでしたが、19年が始まる頃から、私たちは意識的に、子なし夫婦としてのくらしを楽しむようになっていきました。もちろんそれ以前からそうだったのですが、ちょうどコロナ禍もあり、家や家の周辺で二人で過ごす時間を大事にするように変わってきました。妻は念願のワインセラーを買い、我が家の飲酒ライフは次のステージに移行しました。

f:id:doukana:20191226193551j:plain

2019年末には、クリスマスマーケットを見に、オランダ、ドイツ、ルクセンブルクを旅行しました。毎日飲んでばかりの旅でした。

2020年には、偶然的なめぐりあわせで、保護猫だった白い子猫を引き取ることにしました。私は以前から猫が飼いたいと思っていたのですが、マンション暮らしだし、二人とも不在がちなので躊躇していました。しかし妻が乗り気だったので、子猫を迎えることにしました。それから一年あまりが過ぎ、猫も大切な家族の一員となりました。

f:id:doukana:20201129200505j:plain

日本酒を開栓すると必ずやってくる猫。これは一年くらい前。



さまざまなイベントを越えて、二人家族になっていく

子供さんがいるご家庭では、いつまでも二人だけで生活しているということが想像がつかないかもしれません。学生時代の恋人同士のような関係をずっと維持できているように見えるかもしれませんが、やはり長い時間の中で、いろいろな家族・親族のイベントを越えて、私たちは二人で暮らす他人同士ではなく、家族となっていきました。

私の家では葬式が相次いだ

家族のイベントというと、私たちが結婚してから、葬式が相次ぎました。とりわけ私の親族の葬儀がこの10年で4回もありました。12年に叔母(父の姉)が亡くなり、15年には叔父(父の弟)、18年春には祖母(母の母)、18年秋には父が亡くなりました。

父の弟である叔父は、西宮に引っ越したときに、わざわざ会社を早く終えて様子を見に来てくれました。近所のステーキハウスでおそい夕飯を食べてワインをご馳走してもらったのが、最後の対面でした。なぜか叔父は一族が痔の家系で、いかに自分の痔が辛かったかという話を熱弁していました。

叔父が亡くなって3年後に父も亡くなりました。結婚後私の両親は、それまでのように私にあまり連絡をしなくなりました。疎遠になったのではなく、妻に余計な負担をかけないよう気づかってくれたのでしょう。

葬儀となると、私だけでなく妻もいちいち栃木や宮城(母の実家)まで来て、よく知らない親族と会うことになります。葬儀ばかりつづいて、一族が減るのは残念ですが、繰り返し顔を合わせることで、逆に生きている親族のつながりは深まっているように思います。親族のみなさんの優しさもあって、私たちは大人として、ファミリーの一員として認められるようになりました。

妻の家族との関係も変わる

また、妻の家族との関係も、徐々に変わってきました。実家の近くに住んでいる娘というのは、親から見れば心配だし、また頼りたいものなのでしょう。結婚した当初は、しばしば両親が尋ねてきて、私は妻と両親の近すぎる関係にすこし戸惑いました。その後妻は何度か両親と衝突し、だんだんと彼女も自立した大人として、両親から認められるようになってきたのだろうと思います。ただ、妻の家族・親族には私のほうと違って葬儀が少ないので(もちろんそれはありがたいことですが)、これからがたいへんだろうと心配しています。

 

子なし夫婦だって家族として生きていく

こうして私たちは、子なし夫婦として、これからも二人で(そして白猫もいっしょに)生きていくことになりました。大学教員という業界では、シングルの人や子なしの夫婦はめずらしくないのですが、一般的にはやはりまだ少数派でしょう。妻もそうですが、女性の場合はとりわけ子供がいないということが「できて当然のこと、やるべきことができていない」と考えられてしまったり、あるいはそんな価値観を内面化してしまって苦しむ人も少なくないでしょう。

しかし10年続けてきて、やはり子供がいなくても二人は家族なのだという思いを強くしています。子供がいないと老後が不安という意見もあるでしょうが、私の父も叔父も、そもそも老後が始まる前に死んでしまっています。あるいは子供がいたとしても、私のように30代になっても仕送り暮らしの博士課程院生になってしまっては、安心もへったくれもありません。子供を持つ・持たない、結婚する・しないということはしばしば効率やリスクの観点から語られがちですが、それはたいていつまらない結論しか得られないので、不毛なことです。私はいつも、人生のあらゆる出来事は、さいころを振った結果のようなものだと考えています。自分ではコントロールできない偶然があるから、私たちはかけがえのない存在なのだと思います。

これが私たちが10年間ともに暮らして得た答えです。

f:id:doukana:20211015235129j:plain

f:id:doukana:20211015235136j:plain