ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

大学受験の失敗をどうやって乗り越えるか?

だいたい毎年同じ時期に同じことを考えている

今年も無事に後期の授業が終わり、あとはテストや成績評価を残すのみとなっております。昨年は2月に書いたこの記事が、当ブログではめずらしく、多くの人に読んでいたただき、たくさんのコメントやさらには電話取材などを受けました。

schlossbaerental.hatenablog.com

私たち大学教員は、農家の仕事のように、だいたい一年間の仕事のサイクルが決まっています。(会社員でもそうなのかもしれませんが、会社勤めをしたことがないので、母の実家の農家を思い浮かべていました)。私たちはだいたい毎年同じ時期に、同じような問題について頭を悩ませながら日々を過ごしています。

4月:科研費の当落、新クラスの履修者数(たいていは少ない)

5月:講義の進め方についての新たな見解、ドイツ語を学ぶ学生たちについて

6月:春の学会について

7月:期末テスト前のクラスの状況、テスト後に単位懇願にくる学生について、夏休みの研究計画

・・・・

年度のはじめから7月ごろまでを思い浮かべても、だいたいこんな状態で、毎年同じようなことをブログに書いているはずです(そしてその合間にマラソン・カメラ・DIYといった趣味の話題が挟まっています)。私たちがサイクルが決まっている仕事を進めるように、私たちが教えている学生たちも、作物が育つ中でさまざまなトラブルや病気に見舞われるように、成長の過程でいろいろな問題につきあたり、それを見て私たちもあれこれ考えさせられます。これも毎年のことです。

今回は、授業後に面談に来た学生と話したことをきっかけに、大学受験の失敗という悔しい経験をどうやって乗り越えて、大学で学んでいけばいいのかということを考えてみました。

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大学入試とは、シンプルな勝負

昨年の記事でも書いたことですが、大学に入ったら、もう受験の失敗のことは忘れるべきです。しかし、なかなか忘れられないし、自分が入った大学への不満がつのるほど、失敗した悔しさも高まるものです。

私のクラスの学生も、浪人したけど志望校には入れず、仕方なくあまり考えずに受験した本学に入学したということでした。さすがにもう再受験や転学部を考えてはいないけど、経営学部での学生生活はあまりおもしろくないというのでした。

大学受験というのは、スポーツの大会などと同じように、非常にシンプルな勝負です。高校3年生までに積み重ねてきた学力を使って、自分の行きたい大学を受験し、(だいたい1回のテストで)合否が決まります。非常にシンプルに成功と失敗が分かれます。それゆえに、多くの人がこの機会に地元を離れようとか、将来の夢を掴もうと努力するのでしょう。

成功すれば、家族や学校には褒められるし、母校の学校便りなどに合格体験記を載せることもできるでしょう。*1

では、失敗したらどうなるか。しかたなく、滑り止めの大学に進むことになります。合格・不合格という点だけを見ればそうかもしれませんが、人生においてその成功と失敗というのはどれほどの意味があるのでしょうか。失敗はもう取り返せないのでしょうか。*2

 

シンプルな勝負の世界は長く続かない

私自身は、高校生くらいまでは、周りのみんなが横並びで、平等な競争である大学受験に取り組んでいると思っていました。(公立男子校に通っていた私には、大学選びで親にあれこれ言われ、さらに受験しても点数に差をつけられる女子生徒たちの状況などは全く目に入っていませんでした。国立も私立も、好きな大学を受験できるだけでもだいぶ恵まれていたのだと後になってわかりました。)

もちろん大人になってからも、なんだかんだでいろいろな競争はあるし、夢に向かって競争や勝負を勝ち抜くために頑張る必要はあります。しかし、大学受験とは少し違っているなあと今は思います。

自分自身の経験を振り返ると、大学に入り、大学院や専業非常勤と進んでいくにつれて、何か一つのテストや面接で、成功と失敗がばっさり分かれるような機会はそれほど多くはないように思えてきました。

私たち大学教員にとっての試験というとやはり教員公募が大きな意味を持つのですが、それだって純粋に研究者としての資質や能力だけで決まるものではありません。キャリアや学歴、専門分野と教える分野のマッチングなどさまざまな要素が絡み合っています。*3そのため、よほどひどいデキ公募でもないかぎり、なぜ自分が選ばれないのか!あの大学のふし穴どもが!と悔しがったりはするけど、まあ次でがんばればいいかとあっさり切り替えて行けるものです。(大学受験や就職試験と違って同じ時期に教員公募があるわけではないので、先に応募した大学は不採用でも、もっとあとにより条件の良い大学に採用されるということはいくらでもあります)。

あるいは、研究者としての評価の一つの指標である、科研費の採択だってそうです。さまざまな年代、分野の研究者と競争しているわけですから、どうやったら勝てるかなんてそう簡単に言えないし、採択されなかったから、研究者として怠慢だ、ダメなんだということにはなりません。

このように考えると、大人になってからは、受験のような、本人の努力がすべて結果に反映される(ことになっている)勝負というのはあまりないように思えます。自分自身がもとから持っていたもの(生まれた家庭、育った場所、文化資本など)やそれまでの人生で積み重ねたさまざまなものごと(学力、体力、価値観など)を含めて、評価されたり、採用されたりといった結果が提示されるのが、大人の世界ではないでしょうか。

 

シンプルな勝負だからこそ、大人になっても悔しさが残る

しかし自分自身もそうだし、妻にきいても同じでしたが、やはり受験の失敗というのは今でも悔しいものです。あの不合格は惜しかったなあとか、もっと別の大学を受験していたら浪人なんてしなくて済んだのかなあ、とは今でも思います。

以前から好きで何度も読み返している野球マンガ『ラストイニング』では、主人公の野球部監督鳩ヶ谷の指導の元、野球部員たちは甲子園準決勝まで進みますが、惜しくも敗れてしまいます。悔しがる生徒たちを見て、鳩ヶ谷はこう言います。

「あいつにも忘れられねえ試合が出来ちまったな… 夢の中で何度も蘇ってきて悔しさで目が覚めちまうような試合がよ—」

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中原裕『ラストイニング』第44巻、143ページ。

くやしい敗北が忘れられないのは当然です。しかし、受験は高校野球ではないし、私たちは野球部員ではないので、さっさと次の何かを見つけたほうがいいのです。

大人になって、高校を卒業して25年もたつのにいまだに悔しさが残るのは、受験が高校野球のようなシンプルな勝負だからです。試合の勝敗と同様に、合格・不合格という結果が出るからです。*4そして、重要なことですが、この失敗は、大学受験という一回の試験での失敗でしかないのです。この失敗は、自分自身のこれまで育った時間や、今後の明るい未来を全否定しまうような失敗では、ぜんぜんないのです

 

人生の成功や失敗は競争の結果とは関係ない

中には医師になりたいのに医学部に入れなかったという人もいるでしょう。そのような職業と直結している大学を目指していたのでない限り、自分の入った大学でしっかり勉強すれば、いくらでも受験の失敗を克服することは可能です。(そして医師を目指していた人だって、他学部でべつの何かを目指して勉強いけばいいのです)。

偏差値やネームバリューのある大学に入ることは、社会的な評価や自己肯定感を得ることにはなるでしょうが、その人の能力や可能性を保証することにはならないのです。

就職活動のとき、今の大学では不利だと思ってしまう人もいるでしょう。たしかに一流大学の学生であれば、いろいろな企業から選ばれる可能性は広がります。しかしそれもごくわずかな差でしょう。大学でしっかり学び、その後の人生でも学びつづけたことはかならず評価されるし、自分自身の人生を豊かにします。

そもそも、いい大学を出て、いい仕事について、たくさんお金を稼いでいるということは、成功なのでしょうか?志望校に入れず、希望の職に付けなければ、人生の失敗者になってしまうのでしょうか?

人生にはお金や地位、試験の成績のようにわかりやすい指標で他者から評価される部分はあるし、それが自己評価や自己肯定感にもつながるということは確かですが、当然それ以外の部分が山ほどあるわけです。趣味や家族との時間、日々の仕事そのものの楽しさ、そういった部分にこそ、人生の楽しさやよろこびがあるのではないでしょうか。

 

勝負の世界が好きで好きでたまらないわけでないのであれば、べつに降りたっていい

アスリートなどをみていても、ずっと競技者を続けることはできません。どこかで引退する時がきます。まれに生涯現役という人もいるでしょうが、ごくわずかです。多くの人は、勝ち続ける人生を続けるわけではないのです。

勝った負けたという価値観だけしかない世界でずっと生き続けることは、非常に困難だと思います。

 

大人の世界はもっと複雑、生き抜く力を身につけて欲しい

何度も同じことをいいますが、大学受験を終えると、今後は自分で考え、自分の人生を切り開く段階に進みます。そうなると、受験のように簡単に勝敗がつくような競争はあまりなくなっていきます。

大人の世界はもっと複雑で、自分がいくら努力してもうまくいかないことがたくさんあります。自分の能力が正当に評価されなくて悔しい思いをすることもあるでしょう。いろいろな不運だってあるでしょう。そういうさまざまな困難に直面して、自分自身を支えるのは何でしょうか。受験や運動部での活動のように、他者から評価されることは、確かに自分自身の誇りになります。しかし、評価されなくなっても人生はつづいていきます。そうなると、結局のところ、自分がどう生きたいか、どういう人生が自分にとって幸福なのかといった自分自身の価値観をもっておくことが必要です。

自分なりの生き方を模索する場、それが大学です。社会に出てから役立つ知識を学ぶだけでなく、さまざまな学問を通して、人生をどうやって生きていくか、自分自身で考える力を身につけていって欲しいと、教員として心から願っています。

 

*1:私の母校では、合格者による講演会というのもありました。難関大学に合格した3年生が1、2年生に向けて勉強法などについて講演をする会が3月にありました。

*2:昨年書いた記事では、レベルの低い大学に通うくらいなら、浪人した方がいいという意見も多くいただきました。しかし私の経験でもそうですが、浪人しても失敗する可能性はかなりあります。一年を受験勉強に費やすのなら、基礎学力を鍛え直しつつ、大学の学問に注力するほうがずっと建設的です。

*3:もちろんほかに性別や年齢、国籍、居住地など本来は選考の理由とすべきでない要素だって入り込んでいるでしょう。私であれば、男性で、ある程度若いということが評価のポイントになっていたはずです。

*4:だからこそ、部活動と同様、漫画やドラマの題材になりうるし、感情移入できるのです。