ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

学際系研究科で学んだこと

 

学際系って何だったのか?

ここ最近、自分が20年前に大学院で何を学んだのか、そこから何を得てきたのかといったことを考える機会が何度かありました。また、大学院を終えて(単位取得退学して)10年が過ぎ、学際系研究科で学んだことを、どう大学教員として生かしていけるだろうかということも考えています。(この点については近いうちに別の記事に書きます)

今日は、20年前に私がどうして京都大学大学院の人間・環境学研究科に入ろうと思ったのか、そして学際系研究科で何を学んだのかをまとめます。

 

進路に迷った大学4年生のころ

大学2年生の冬にベルリンのゲーテ・インスティチュートに通い、大学3年の時は夏休みの2ヶ月と春休みの二週間をドイツで過ごし、大学4年目の春を迎えました。もともと研究者にあこがれていたこともあり、自然と、大学院受験を目指すようになりました。

しかし、当然のことながら周りの人たちには反対されました。両親は別に何とも言わなかったのですが、大学の先生や年上の研究者志望の人たちからは、食べていけないからやめておいたほうがいいと言われたのでした。

私が大学を卒業した2000年は、超氷河期で大卒の就職率が一番低かった年です。同級生も、まともな企業の正社員になれた人の方が少数派でした。だから私は、どうせ仕事がないのは変わらないんだから、もう少し大学院で学問を続けようと決めたのでした。

 

外国文学専攻なんて、この先生きのこれるのか?

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京大大学院の入学式。誰か知らない人に撮ってもらいました。

私が不安だったのは、このままドイツ文学を専門として勉強し続けるかどうか、という点でした。現在も続いていることですが、当時はすでにどの大学でも学部の改組や新設があちこちで行われていましたし、文学部のクラシック(で蛸壺的と言われがち)な学問は、もう需要がなくなって、一般企業への就職も教員として大学に勤めるのも難しいのではないかと思ったのです。それならば、独文学よりも視野の広い研究ができそうなところのほうがいいかな、と学際系の大学院を希望するようになりました。

志望校に選んだのは、京大人・環、東大駒場、そして東京外大でした。東京外大では、ドイツで知り合った外大院生の紹介で、大学院のゼミに毎週1回参加していました。東大駒場では生協で過去問を買いました。*1京大には直接いくことはできないので、道籏先生に手紙を書き、過去問のコピーを送っていただきました。京大人・環の一番大きな特徴が、入試の段階で指導教員を選ぶという制度でした。ドイツ文学を教える先生は道籏先生の他に5、6名いました。ファシズム研究の池田先生、カフカの三原先生などは非常に有名でした。私はベンヤミンについての本を読んで、道籏先生に習いたいと思いました。

以前のブログ(下リンク)にも書いたように、4年生の夏頃に、アパート取り壊しの話が出てきたので、もう東京から出て行ってもいいかな、と思い、京大院の受験を決めました。(試験日が一番早く、また入試問題のドイツ語や英語が他より簡単だったことも京大を第一志望にした理由でした)

schlossbaerental.hatenablog.com

 

ロンダ陰性の巣窟、京大人・環!

9月の入試に合格した私は卒業論文を書き、翌年4月から京大院生になりました。最初は自分のように東京の私学からくる学生などいないだろうと思っていたのですが、授業で知り合う同期生は、早稲田・慶応・上智・ICUと、東京の私学出身者ばかりでした。また、私たちの分野では京都府立大出身者が昔も今もたくさん京大人・環に入ってきます。

語学などはたしかに少人数制の国公立大出身者のほうがよくできます。しかし院生生活が長くなってくれば、それぞれ自分の強みを伸ばしていくので、出身大学による差はあまり気にならなくなっていきました。

科目数の少ない入試で、大学院から入ったものだから、帰属意識が薄くてロンダ陰性なんて自嘲してしまうことはありました。(だから学部生たちの「自由と変人の京都大学!」みたいなノリには少し距離感を覚えていました)それでも10年以上在籍していたので、吉田南校舎や、とりわけ人環・総人図書館は自分の母校なのだと感じています。

 

ヨーロッパ文化環境学講座で学ぶ

私が入学した当時、人・環は3つの専攻と、その下に数多くの講座および各教員の研究室(脚注1を参照)に分かれていました。第一専攻は哲学・教育学など、第二専攻は語学、文学、歴史など、第三専攻がおもに理系と社会科学系だったと思います。(理系の分野はどの専攻に含まれていたのか正直あまり覚えていません)*2

私が入ったのは、第24講座(ヨーロッパ文化環境学)というところでした。英米文学、ヨーロッパやアメリカの歴史、イタリアの美学・美術史、フランス思想史、ドイツ文学・思想などほんとうにさまざまな分野の研究室が集まっていました。

人・環というところは、旧教養部なので、人文科学・社会科学・自然科学のあらゆる分野の教員がいて、おもに文学部、理学部的な専攻がありました。ドイツ文学に関しては、著名な先生方がたくさんいましたが、文学研究科にも独文学研究室はあったわけで、なんというか私の感覚では、文学部が本家、人・環が分家のように感じていました。しかし、ヨーロッパ文化の講座にいたことで、ドイツだけでなく、さまざまな国や言語を対象とする人と知り合う機会ができました。

24講座では、修士論文の中間発表会を講座全体で行なっていました。9月末に行われる中間発表会でちゃんと発表ができないと、その後修論を提出する権利はなくなる、という非常に厳しいものでした。私が2回も留年したのは、夏休み中に何もせず、この中間発表に間に合わせられなかったためでした。

 

最大のイベントは、修士論文公聴会

文学研究科と人・環の大きな違いが、修士論文の公聴会でした。文学研究科は主査、副査の教員との面接のみで行っていたのに対し、人・環の場合は大教室をいくつも使って、全体に公開する形で修士論文の審査を行っていました。

私が入った頃は、2月初頭に行われ、1日目が第一専攻、2日目が第二専攻、3日目が第三専攻と3日間に渡っていました。だいたい毎日打ち上げを行うので、いわば修論祭りのような日々でした。(その後1日で全ての専攻を並行して行う形式に変わりました)

修士論文公聴会には、修士課程1年目から、博士課程を5年で退学するまで、ほぼ毎年出席して、同じ分野だけでなく、全く知らない分野でも友人・知人の発表をいくつも聴きに行っていました。予備知識のない分野でも、やはり優れた研究というのは聞いていて面白いものだといつも思いました。

また、博士論文の公聴会も掲示板やネットで告知されるので、毎回たくさんの聴衆があつまりました。2012年に私が博論公聴会をしたときも、一教室が埋まるくらい多くの仲間や後輩に聴きにきてもらえて、本当にありがたいと思いました。 

 

人・環の特徴、良かった点・良くなかった点

研究室制のデメリット

やはり良くなかった点として、一番に挙げられるのは、入学時から指導教員が決まっていて、一人の教員による指導だけで、(もちろん修論・博論には副査が付きますが)、研究の方向性が変わってしまうという点です。

指導教員一人につき、たいてい5人から10人程度の研究室なので、アカハラやパワハラが起こりやすいという問題もあります。ハラスメントではないにせよ、教員と対立して研究の道を断念する仲間も少なからずいました。こういったことは、文学研究科なら起こらなかったかもしれません。私がこんなことを書くのは、まさに生存者バイアスでしかありませんが、もう少しどうにかならないものかと思います。

専門がはっきりしないため、アピールしにくい

そしてもう一つ大きな問題がこの点です。私は学部でドイツ文学を専攻し、人・環でも独文学の教員のもとで指導を受けたので、とりあえず専門は独文学ということにしていました。学会も、始めから日本独文学会に所属し、発表をしてきました。

しかし(私の研究仲間にも多かったのですが)学部と院で研究分野が全く異なる人は、どの分野を専門に研究しているか、言い換えれば、自分が専門にしているのは「〇〇学です」とはっきり言えないという傾向がありました。

私自身も今でこそ独文学が専門、と言っています*3が、院生時代はドイツ文学および西洋文化(思想も歴史も含めて)をあれこれ学んでいるのだと思っていました。人によっては、もっとピンポイントで、一つの時代、一つの地域の事象を専門的に学んでいて、既存の学問分野に分類できないという場合もあったでしょう。

学会に入るにも、何が自分の専門に近いのか考えないといけなかったし、教員公募に出すときも、どの分野がいいのか迷うということはみんなに共通する問題でした。*4

 

学際系って何なのか、誰も教えてくれない

専門性をどう考えるか、というのは大学院に入って最初の5年(一般的な院生生活だと、5年で終わってしまうのですが)くらい、頭を悩ませていた問題でした。

修士課程に入った頃は、あれもこれもと色々な授業に顔を出したりしました。哲学、社会学、英米文学、文化史といろいろな先生の授業に出るものの、どれもやはり学部である程度学んでいないと、授業についていくことはできませんでした。

せっかく幅広く人文科学を学ぶつもりで入ってきたのに、私が大学院の授業で新たに学べたのは、フランス語くらいでした(これも半期くらい授業に出たのち、ほぼ独習しました)。

人・環の先生方は、結局のところ自分自身の専門を、いろいろなバックグラウンドをもった学生たちに教えているのであって、ご本人が学際的な学問を教えているというわけではないのでした。つまり、学際系とはいえ、それぞれの授業自体が学際ではなかったのでした。ということは、院生たちは、何らかの既存の学問をつまみ食い的に学ぶか、あるいは自分の出身学部でやってきた方法論(私で言えば外国文学)を続けていくかする他なかったのでした。

この点が、おそらく人・環の最大の問題点であり、逆に次に述べるように、最大の強みだったと思います。

 

幅広い人脈の中で学ぶ

上述したように、違う分野の演習などには参加しにくい雰囲気があったのですが、院生同士の交流は非常に活発でした。私自身は、文学研究科の院生たちも含めた、さまざまな研究会の中で一番よく勉強をしたと思っています。

本家であるドイツ文学研究室の読書会は何より自分の基礎力となりました。西洋文化史の研究会では、体操をめぐる身体論の日独比較のような発表をしたこともありました。精神分析の研究会では、フランス語でラカンを読みました。それから、哲学・文学・美学などさまざまな分野にまたがった公開シンポジウムを企画し、何度か発表もしました。

大学の公式イベントとしても、人・環全体で行われるポスター発表会(ポスター発表は文系ではあまりやらないのでほとんど理系でした)に参加したこともありました。模造紙とコピー用紙で作る、文字通り手作りのポスターでしたが、その後独文学会でのポスター発表に大いに役立ちました。

他分野の院生との研究会は、あらたな知識や考えを得るという面で大いに有益でした。また、別の分野の人と話すことで、自分がやっているのがどういう研究なのか、自分はどういう方法をとるのか、といったことを何度も考えて、自分にとっての学問を考えることができました。

 

強いチームにいるということの意味

院試は簡単でも、いちおうは京大大学院だったので、優秀な人は山ほどいました。自分がいくらがんばったって追いつけないような人たちを間近で見ながらすごすというのは、当時の私にとって、やはり意味がありました。

野球をする中学生が、甲子園を目指して強豪校に入り、実力をつけていくように、まわりに目標を高く持っている仲間がたくさんいるという環境に身を置くことは重要です。

私は大学卒業時に、プロの研究者になるかどうか決めないで大学院に進学しました。周りには修士課程1年目から将来は研究者として食べていくのだ、食べていけるのだと信じて疑わない人が多くいました。彼らのことを思い出すと、たしかにみな、いまは非常に立派な地位についています。彼らに比べてはるかに意識が低くて、遊んでばかりだった私も、優秀な仲間に引っ張ってもらうような形でどうにかここまで来ることができました。

キャプテン翼で小学校から一緒にプレーしてるモブキャラとか、信長の野望における、初期からの織田家家臣みたいなポジションです。まわりがどんどん偉くなっていくにつれて、自分もそれなりの立場にはなれました。 

 

人間・環境学博士はだいたい友達

私が持っている学位は、文学士(明治大学)、人間・環境学修士および人間・環境学博士(京都大学)です。この変な学位が名刺に書くとき異様に目立ちます。大学院を出た時は、博士(人間・環境学)というヘンな学位が嫌で仕方がありませんでした。プロフィールや教歴を見せないと、だれも外国文学研究者でドイツ語教員になりたい人間だとは分かってくれないし、文学研究科の博士(文学)よりも劣っていると思えたからでした。(専業非常勤講師時代は、別の大学院に行って、文学博士号を取り直すことすら考えていました)しかし、学位取得から5年くらい過ぎて、だんだん人間・環境学博士でもいいよな、と思えるようになってきました。

近年、京大人・環の出身者が各分野で活躍しています。京大だけでなく、東大や各地の有名大学の教員になっている方もたくさんいます。徐々に、学際系研究科出身者が世の中に受け入れられつつあるのだと思います。

私がいる学部は、分野の特性もあり、神戸大や兵庫県立大学出身者がとても多いのですが、本学全体を見ると、人間・環境学博士が数人います。たぶんすでに5、6人はいるでしょう。どの大学に勤めている人であれ、プロフィールに掲載されている学位を見ただけで、本研究科出身者だとわかる(オンリーワンです!)のは非常に便利です。

 

おわりに

だいぶ長くなりましたが、大学院ですごした10年くらいを振り返って、人・環という場が何だったのかを考えてきました。最後に人・環で学んだことが、今の自分にどのように関係しているのかを書いておきます。

私にとって、学際系研究科で学ぶということは、自分が何を勉強しているのか、常に意識することだったと思います。その中で、自分の研究方法や研究分野を作ってここまでやってきました。

いまはドイツ文学が専門と言っていますが、職場の仕事では専門に関係のない知識が必要になったり、よく知らないことを教えなければならない、なんてこともたくさんあります。

学際系研究科で学んで良かったのは、未知のことに出会っても、そういうのは私の専門じゃないからわからないではなく、よく知らないから勉強してみよう、と思えるようになったことです。

私は2009年に大学院を退学し、その後博士号を取得しました。もう院生でなくなって10年くらい経ちますが、人・環で得た学際的なつながりはいまも続いています。私はもともとの専門分野を生かしてドイツ語教員になりましたが、科研費の研究グループや研究会、教科書の刊行など、さまざまな分野が芋づる式につながっている人・環ならではのネットワークが現在の仕事にも生かされています。

 

 

*1:このとき一緒に駒場の書店に行った友人は、大学院受験はせず、テレビ関係の仕事に進み、現在もたいへん素晴らしい活躍をしています。大学時代に知り合った中で一番優秀な人でした。

*2:その後私が博士課程に進学する頃に改組され、文理入り混じった3つの専攻になりました。私の研究室は共生文明学専攻の現代文明論分野でした。

*3:いちおう独文学者ですが、文学以外にも、近現代史、宗教学、精神分析、精神医学史などの分野について継続的に関心を持って、自分の研究の一部に取り入れてきました。

*4:それから、私たちの世代だと人・環出身者がほとんど大学教員ポストを得ていなかったため、博士課程3年を終えても非常勤講師にすらなれないというのが大きな問題でした。そのため私は看護専門学校で教えたり、京都精華大学で助手をしたりしていました。現在は人手不足や、就職状況の好転のため、わりとすぐに非常勤の口はあるようです。