紀要論文ができました
2016年春頃に数回に分けて書いていた、講義科目についての記事ですが、その後学会で発表したものをさらに加筆修正して紀要に投稿しました。
今回の原稿は、正しくは論文ではなく、授業実践報告という扱いです。しかしどういう形であれ、こうして残すことで他の先生方や今後の自分にとって役に立つだろうと思っています。(小さな学会誌に載せるよりは、紀要のほうが検索でもヒットしやすいし、多くの人に見てもらえるでしょう)
こちら↓が昨年秋に書いた学会発表についての記事です。
schlossbaerental.hatenablog.com
また、2016年以前の、映画を使った授業についても紀要にまとめています。
その後の講義の動向
2016年度にあれこれ知恵を絞って作り上げた、文学テクストをその場で読ませて学生に考えさせるという講義の手法ですが、17年度、18年度も内容や方法を少しずつ変更して続けています。
2018年度は前期が25名程度(17年前期とほぼ同数)で少ない人数でのんびりやっていたのですが、なぜか後期は一気に受講者が増え、200名超になってしまいました。
前期はこれまでのように、毎回ごとに学生に読ませる作品のコピーと、私が作成したスライドのまとめを印刷して配布していました。合計でA3が2枚、A4が3枚程度に抑えるように工夫していました。
しかし、受講者が200名ともなると、資料の印刷だけで膨大な労力と時間が必要になります。
LMSの利用
後期が始まると、すぐに履修登録者が想定していた人数よりはるかに多いことに気づきした。第1回目は、講義の概要を話すだけなので、配布資料はありませんが、第2回はクライスト『チリの地震』を使います。以前作った配布資料は、A3で両面1枚とA4で1枚程度です。とはいえ200人分印刷するとなるとかなりの時間がかかります。もちろん、事務職員さんに依頼して大量に印刷してもらうという方法もあります。
紙の資料を配布すると、必ず出てくるのが、どうやって保存するかという問題です。これは私自身だけでなく、受講している学生たちにおいても同様です。学期末には、紛失した授業プリントを求めて私の部屋につぎつぎ学生がやってきます。
schlossbaerental.hatenablog.com
↑ドアノブがもげそうなのに、学生がつぎつぎやってくるので困ったという話です。
私も授業資料をきれいに保管しておくほうではないので、学生が取りに来るたび、一体どこにしまったのかと部屋中の物をかき分けて探さなければならず、非常にめんどうでした。
そこで今学期から、LMSに配布資料のPDFをあらかじめアップロードして、受講者それぞれがダウンロードして印刷したり、PCやタブレット、スマホで授業中に読む、という形式に改めました。
この方法であれば、欠席した回の資料が欲しい学生はいつでもダウンロードできます。
学生たちは、最初の2、3回くらいは、どこを見たら資料があるかわからず戸惑っている様子もありました。いまは完全にこのやり方に馴染んでいます。
私は印刷してくることを想定していましたが、実際は印刷しているのは2割程度で、ほかの2割くらいがタブレットやPCでファイルを開き、約半分ほどがスマホの画面でpdfを読んでいます。iPhoneSEなどの(しかもバキバキに割れた)ちっさな画面で小説を読むというのは非常に大変だろうと思うのですが、学生たちはどうやらあまり気にしていない様子です。
追記(12月4日)
LMSを利用することの、もう一つの非常に大きなメリットがあったことを思い出しました。それは、紙の配布資料に比べて、枚数やレイアウトが圧倒的に自由になるという点です。
つまり、私の場合は毎回文学作品等のコピーをA3で最大2枚まで、それに加えてスライドの要点をまとめたものをA4両面一枚にして配布していました。自分で作っているスライドはともかく、学生に読ませる資料をコンパクトにまとめるのはかなりむずかしく、紙とノリでコピーを貼り合わせ、拡大縮小などの微妙な操作をして、なんとか制限枚数に収めていました。
それに比べると、LMSにPDFの資料を上げておくのであれば、基本的にほぼ制限はないと言えます。もちろん授業時間内に学生がちゃんと読める量は考慮する必要はあります。しかし当然のことながら、昨年までの授業資料作りに比べて余裕ができました。
小レポートをLMS経由で集めるのは断念
私の講義でもう一つのポイントが、学生たちにわりとまとまった量(B5レポート用紙両面)の小レポートを授業内で課している点です。学会発表でも紹介しましたが、授業で説明した歴史的背景や、作品の内容、作品読解の上でのポイントなどについて設問を作り、授業の進行にあわせて、各自で資料を読んで、解答するという形式をとっています。
毎回の授業後にレポートを回収し、その得点を毎回ごとの参加点として成績に加算するようにしています。そのため、レポートの枚数が多くなると、採点にもかなりの時間を要します。そこで、レポートをLMSの課題のページまたはアンケートのページで提出させられないかと考えました。授業後に採点するのはもちろん、やりようによっては、授業時間中に、学生たちが書いた意見をピックアップして紹介することだってできると考えたのです。
じっさいに授業でやってみる前に、かつて学部のFD発表会で聞いた話を思い出しました。タブレットを使って講義科目でアクティブラーニングの実践を試みた先生が、300人くらいいる授業で使おうとしたところ、Wi-Fiの同時に通信できる限界を超えてしまい、ほとんど活動にならなかったという話でした。私のクラスも200人超。一斉にログインするわけではないにせよ、かなりの負荷がかかることは予想できました。
そこで学内の関連部局に問い合わせたところ、教室での同時アクセスは90名くらいが限界とのことでした。LMSによる課題出題と採点というのは、考えてみれば当然ですが、人数が多い講義の方が実施する意味があるわけです。(人数が少ないなら手書きと紙での採点でも大した労力じゃないので)とはいえ、通信容量には限界があるらしいので、今後教室内のWi-Fiが増強されることを願うしかありません。
あいかわらず熱心な学生たち
200名超という大人数の講義は初めてだったので、最初は心配していましたが、始まってしまえば、学生たちはちゃんと参加しているし、授業をコントロールするのに体力を消耗するということもなく、毎週楽しくやっていけています。
先週は毎年わりと好評なカフカの回でした。毎年Google検索した結果を見せて、オドラデクの作例を紹介していたのですが、今回はせっかくだし、学生たちが授業中に描いたイラストをいくつか例として見せました。*1
オドラデクは「星形部分の中心から一本の木の棒が突き出しており、この棒にもう一本の棒が直角に組み合わされている。一方ではこの二つ目の棒を、他方では星形部分のトンガリの一つを支えにして」2本の足のようにして立っている、というので、下の段のような状態がカフカの作品に描かれた姿として正解でしょう。
また、カフカのおもしろい短編をせっかくだからもう一つ紹介したいと思い、今回は『雑種』も取り上げました。これについてもオドラデク同様、絵を描いてもらいました。
これはカフカ自身は身のこなしのネコっぽさや羊っぽさを描いていて、外形については詳しく言及していないので、いろいろな解釈が考えられるでしょう。私がイメージしたのは、下の段左の2つのような、なんとなくもっさりした猫といった生物でした。
大教室での講義の可能性
私が文学作品をつかった講義を思いついた背景には、そもそも講義科目って価値があるのだろうか、という思いがありました。講義=教員が一方的に話すという授業スタイルは、学生たちにとって、必要最低限の知識を伝授するという意味では、おそらく大変有益でしょう。私自身にとっては、学部1年時の必修科目であった、ドイツ文学史がそれにあたるといえます。
しかし、いま私がやっているような、学生たちの専門の勉強にとくに関係のない、教養科目というものは、私がかつて文学史を教わったような講義方法で教えることはできないでしょう。
この授業では、彼らがふだんほとんど触れる機会がないようなさまざまな文学作品(ニーチェの思想、フロイトの夢解釈、そしてシュレーバーの『回想録』も含まれる)を通じて、まずは文章を読むことに慣れて欲しいと思っています。その上で、100年以上昔の人がどのような背景から作品を書いたのか、そして100年以上たった現在の私たちが、その作品に心動かされるというのはどういうことなのかを想像してもらえればと思っています。
今学期は、予想に反して200人以上の受講者が集まってしまいました。ドイツ語の授業はどのクラスも2人〜10人程度なので、ギャップに驚いています。しかし、慣れてしまえばむしろ大講義の方が、学生からの反応が感じ取りやすいとも感じました。また、少人数クラスではたとえば10人中3人が眠ってしまえば授業は成り立たなくなりますが、200人のうちの60人なら別に大したことではありません。むしろ真面目に勉強する学生の絶対数は多いはずなので、安心して授業ができます。
それから、今学期受講している学生たちには、来学期も私の異文化理解の授業を後輩にオススメしてもらいたいし、できればドイツ語を履修するよう勧めてくれれば、虫の息である経営学部のドイツ語のクラスも持ち直すかもしれないと期待しています。大量のレポートを採点するのは確かに骨が折れますが、ピンチはチャンスと思って楽しんでいます。
*1:オドラデクは短編『家父の心配』にでてくるなぞの物体です。星型の糸巻きのような形をしたオドラデクという存在は、家の廊下や階段の下などにいて、ころころ転がり出てきます。父が話しかけると答えて笑います。そんなオドラデクを父は我が子のように愛しく感じるわけですが、自分が死んだ後こいつがどうなるのだろうかと不安を抱く、という話です。先日父が死んで、改めて『家父の心配』を再読しました。カフカの描く父は、オドラデクというなんだかよくわからない生物が自分の死後も家に転がり続けることを心配しますが、逆に私の父が亡くなると、父が残した、もはや本来の用途がわからないさまざまな物(かつては大工道具だった何かや建材だった何か)が膨大な遺産として残されていて、これをどうしたらいいのだろうかと私が心配しました。父が生前心配していた車やのこぎりの類はすぐに引き取り手がついたのですが、父が大事にとっておいたなんだかわからない物ばかりが、私たちを心配させることになったわけです。我が家におけるオドラデクとは、むしろ父が残したものだったのかもしれません。