ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

一年経って父の思い出をふりかえる

71歳になったばかりだった父が亡くなって、9月19日でちょうど1年になりました。この一年考えてきたことをまとめます。

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一周忌。みんなでお墓をきれいにしてお線香をあげました。

 

超高齢社会とはいうけど、けっこう早く死んでる人もいる

超高齢化とか、団塊世代が老人になってさあどうする、と世の中で話題ですが、私の印象では、もう亡くなってる人もけっこういるのではないかと思います。

友人知人をみても、同世代だけどもう両親のどちらかを亡くしている人、両方とも亡くなっているという人も少なくありません。超高齢社会で、世の中老人だらけと言われているし、事実そうだろうとも思うのですが、やはり平均寿命はあくまで平均でしかないので、それに満たない年齢で亡くなる人だって当然たくさんいます。

出張でドイツに行くと、仕事をリタイヤした日本人の夫婦(+子供、孫)といった旅行者をよくみます。父がああいう老後を過ごせなかったのは、どうしてなのだろうといつも思ってしまいます。

母はまだまだ元気

父を亡くして落ち込んでいることが心配された母ですが、元気に暮らしている様子です。昨年、父の病状が悪化していく時期には、同じように母も疲弊している様子がわかりました。こんなに細かったっけと心配しましたが、先日の法事のときには、すっかり顔色がよく、健康そうな様子に戻っていました。母方の祖母は96まで生きたし、叔母(母の姉)たちは80歳近くですが元気です。母はきっとまだあと20年以上生きてくれるだろうと思います。

 

残り時間の目安はあと30年

父が亡くなって、一番強く思ったのは、自分の残り時間が、ことによったらあと30年もないということでした。もちろん父と息子が同じ年齢で死ぬことが運命付けられているなんてことはないでしょう。しかし、30年経って、父が死んだ年を迎える頃に、ほんとうに自分は健康でいられるのだろうかと、少し心配になったりはしました。

少なくとも、もう40代半ばも近いので、これから先の方が、これまでよりもずっと短いのだということは意識しておきたいと痛感しています。

 

 父との思い出は車の中 

一周忌の法事に向かう道中で、これまで父とどのように接してきたのだろうと思い出していました。父の思い出というと、やはり子供時代にたくさん遊んでもらったことが挙げられます。

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(自宅の庭、1980年ごろ。鯉のぼりの支柱が見える)
借家で暮らしていたころ、庭に本格的な支柱を立てて鯉のぼりを揚げたり、どこよりもりっぱな鉄棒を建てたりした父は、すでに行き過ぎた日曜大工好きお父さんとして近隣では有名でした。

また、父と過ごした時間というと、車で小山駅から大平へと続く道を思い出します。

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思川の観晃橋を渡って、文化シャッター前の道、そして県道311号へと続く、大平町中心街への一本道

実家を離れてから、とくに関西に移住してからは、いつも父が小山駅に迎えにきてくれました。*1明るい時間帯に着いていれば、どこまでもつづく田園風景を眺め、夜遅ければ、何も見えない真っ暗闇の一本道を通って行きました。駅から家までの20分たらずの道ですが、おそらく一番多く二人で過ごした時間というのは、あの車の中だったろうと思います。今回の法事の前に、駅でレンタカーを借りて実家に向かいましたが、父がいないとこうやって一人で帰らなければいけないのかと当たり前のことに気づきました。

車の中にいた父の記憶というのは、やはり兄にとっても印象に残っているようです。彼は私が運転する助手席に座ると、父のことを思い出すというのです。私自身が意識していないことかもしれませんが、となりでいつも見ていた父の運転するときのしぐさをいつの間にか私もまねているのかもしれません。

 

父の人生をふりかえる

東北帝国大学を出て、陸軍の技術将校となった祖父は、第二次大戦後教員として社会復帰をしました。そんな祖父にスパルタ教育で育てられたであろう父でしたが、生涯をつうじて、祖父に反抗しつづけてきたのだと思います。

高校を卒業するとすぐに就職して故郷を離れ(4歳下の叔父は祖父と同様、東北大学に進んでいます)、その後ドライバー、営業マン、自営業と両手で数えるくらい、さまざまな職を転々としていました。(父の生前に全ての職歴を聞いていなかったので、亡くなった後母が詳しく教えてくれました)

80年代半ばに、近所の人の紹介で入った会社で印刷関係の営業職となりました。そのころが私にとっては一番よく覚えている父の姿でした。私が大学に入る頃に、父は独立して印刷関係の会社を起こしますが、不況とDTP化の波ですぐに会社は立ち行かなくなり、私が院生になる頃は借金を返済するために、再びドライバーの仕事もしていました。印刷の仕事を諦め、最後は趣味でやっていたリフォームが仕事になりました。

このように、あまり安定しない人生を歩んできた父でしたが、私たち兄弟にとって、何よりありがたかったのは、決して自分の価値観を押し付けることはしなかったということでした。

 

息子の生きかたに口を出さなかった父

おそらく大学に進まなかった父は、私のようにいつまでも大学に通い続けるというのが全く理解できなかったでしょうし、ちゃんと自立できていない息子をふがいなく思っていたかもしれません。それでも父は、役に立たない大学なんてやめてしまえなどと一度も言ったことはなく、いつも私の仕事や生活を応援してくれていました。

私たちの業界というと、まわりはみな大学教員の2世、3世ばかりで、親からうけついだ、いわゆる「文化資本」があって当然の世界です。それはものすごく羨ましかったけれど、私には、その代わりに自由にさせてくれる親がいた、ということがものすごくありがたかったと今は感謝しています。

 

祖父母の死、自営業、がん闘病、きょうだいの死

父にとっての良かった時期というのは、おそらく40代に入って家を建て、そして両親が死ぬまでの10数年の期間だったのだろうと思います。(私たち兄弟にとっては、ちょうど中学校に入り、大学を出るくらいの時期です)

祖父母は2001年に相次いで亡くなりましたが、もしかすると、それ以後、父にとって50代後半から先は、もう余生だったともいえます。長い間反抗し続けてきた両親がいなくなり、これからは好きにやっていこうと思って、父はほとんど利益のないリフォーム業をやってきたのでしょう。好きな時に仕事をして、休日には登山や旅行をするという具合に、この時期の父はまだ病気ではなかったこともあり、人生を楽しんでいました。

叔父が死んだ15年以後、最後の3年間、父はほぼ死者の世界を向いてすごしていました。旅行に行っては、御朱印を集めるようになったのは、おそらく本人が病気になってからのことでしょう。2年前に叔父の遺品整理のために、大阪に来た時は、治療中であまり具合がよくなかったにも関わらず、高野山にも行ったと聞きました。私の職場の方向なので声をかけてくれれば連れていったのにとあとで思いました。

周りの親しい人を亡くしていくうちに、父は少しずつ死者の世界の方が自分の居場所だろうと考えるようになったのかもしれません。別に治療の望みを失って、死にたがっていたわけではありません。本人は最後まで治療を続けようとしていたし、回復後の希望も持っていました。ただ一方で、「おれはもう生きてるか死んでるか、その区分がよくわからなくなってきてる」と話してくれたことがありました。そう言った父が、悲しそうな様子ではなかったのが奇妙で、その後もこの一言を覚えていました。

 

父はあのタイミングで死んでよかったのか

親を亡くしたことを周囲の人に話した時、親しい同僚からは、周りの手を煩わせたりしないで、早いうちに亡くなったのは、むしろよかったのではないかと言われました。深刻な介護問題などを目にしているので、たしかにこの早さで逝ってくれたことは、私たちにとってはたいして負担にならずに済んだとも言えるでしょう(それでも最後の一ヶ月は母も兄も毎日病院に通って、だいぶ疲弊していました)。

遠くで何も心配せずのんびり暮らしていた私ですが、やはり父にはもう少し長く生きていて欲しかったと思っています。病気が落ち着いて、すっかり小さく弱々しくなった父が、静かに暮らしているとしたら、どんな余生を過ごしただろう?老人らしくなった父はどんな様子になっただろうと、考えてしまいます。

おそらくわがままで周りに迷惑をかけ続けただろうし、運転免許を手放そうともしなかったでしょう。(84歳で亡くなった祖父も、82、3歳ごろまで長距離の運転をしていました)。心配や苦労ばかりだとしても、じじいとして生きる父が見たかったと今は思っています。 

 

*1:東京時代は、自宅最寄りの東武線の駅から歩いて帰宅していましたが、関西方面からだと、東京で複雑な乗り換えが必要になるので、最近はもっぱら小山駅から帰っています。