ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

(過去記事)1982年、500円玉と東北新幹線

だいぶ昔(前半部分は2009年、後半の考察は2007年ごろ)にmixiに書いた記事ですが、今読んでもおもしろいので転載します。

 

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自分史年表づくり

2009年に今の職場に入って、最初に初年次演習の授業でやったプログラムが、「自分史年表」をつくる、というものだった。彼らが生まれた1990年から現在までのさまざまな社会の出来事や、自分にとって重要だった出来事を、新聞や資料で調べながらまとめるという課題だった。

私はこれがすごく面白いと思って、さっそく学生にやらせるまえに、自分で自分史を年表にしてみた。1976年生まれの私にとって、記憶がはっきりしてくるのは、1982年ごろからだ。子供時代のいちばん大きな思い出は、85年のつくば万博に行ったことだった。(83年にはTDLが開園しているが、我が家では家族旅行で遊園地に行くことはなかったので、実際に行ったのは中学3年の秋だった)10代までの私にとっては、85年以前は幼少期、以後は現代史みたいな扱いだった。

落下傘花火を拾ってきた私。
何歳だったのか分からない。


それから自我の芽生えというか、自分の現在につながる関心が芽生えたのが、89年のベルリンの壁崩壊だった。中学校に入った年だったし、担任の社会の先生にニュースの意味を聞いたり、新聞の切り抜きを集めたりしたものだった。

ところが、実際に教室で学生に自分史年表を作らせると、驚くほど反応がなかった。自分自身の歴史を振り返ることはできても、それを社会的な出来事に関係付けるという視点が、殆どの学生に見られなかったのだ。いじめられた学校生活を思い出すのが嫌、という子もすごく多かった。彼らの反応のなさを、彼らの世間への関心のなさや知的レベルの低さに結びつける気はない。自分の過去と社会の出来事を結びつけて考えるようになるのは、もしかしたら彼らがもっと大人になってからできるようになるかもしれない。その時は、そう思うことにした。

私にとってのいちばん古い社会的なできごとの記憶

さて、私にとって最も古い、社会的な出来事の記憶とは、82年に東北新幹線が開業したことと、500円硬貨が発行されたことだった。隣町の小山駅がおおきく改装され、新幹線のホームができ、祖父母が暮らす宮城県まで、新幹線で一気に行けるようになったのだ。おそらく開通から間もない時期に、父に連れられて仙台まで行ったはずだ。車酔いがひどくて遠出するのが嫌いだった私にとって、新幹線は救いだった。

新幹線の歴史やそれがもたらした社会的な変化については現在でも容易に調べることができるが、いっぽうの500円硬貨については、それが当時どのような事情で作られたのか、そしてどのように受容されたのかということはなかなかよくわからなくなっている。そこで当時バイトしていた総合人間学部図書館の資料を使って、このことを調べてみた。

 

500円玉は当時のメディアでどのように報じられていたのか

日ごろ論文検索に使っているCINIIやMAGAZINEPLUSで検索すると500円硬貨について、いくつかの雑誌記事がひっかかった。(予想していたことだが、学術論文はまったく見つからなかった。) 
夕方図書館でコピーしたのが、1984年に「朝日ジャーナル」8月31日号に掲載された、「日常からの疑問18 シリーズ・こんなものいらない!?500円硬貨」と題された記事である。 

1984年といえばロサンゼルスオリンピックのころ。私が覚えてる一番古いオリンピックだ。 
500円硬貨の登場は82年の4月。ということは登場からすでに一年半も経過したあとということになる。執筆者は朝日ジャーナル記者の宮本貢というひと。 
ちなみにこの雑誌の同じ号には「現代の若者のカリスマ」というグラフ記事で 
村上龍(当時32歳)が取り上げられている。 

この記事での主張を簡単にまとめると、このところ500円玉が出回るようになったが、どうにも使いにくくてなるべく早く手放したくてしょうがない、これはけっして作者だけの感覚ではなく、わりと世の中に広く共有されているものである、といったところ。 

ではなぜ宮本は、500円玉を忌避するのだろうか。主だった理由としては、必要ないということ、重すぎること、札のほうが管理しやすいことなどを三和銀行のアンケート結果とともに列挙している。 

この、500円玉が「重い」という印象は現在の私たちにとって違和感を覚えるところではないか。 
たしかに私が初めて父から500円玉をもらったときには、なにか宝物のような、優勝のメダルのようなものを手にしたかのような、ずっしりとしたカタマリという印象を抱いた。それは私がまだ6歳の幼児だったからかもしれないとも思っていたのだが、この記事を見る限りは、大人にとっても500円玉の大きさや重さはなにやら奇妙なものだったのだろう。 

 

500円玉が使いにくいと言われた理由は?

それから500円玉が必要ない、使いにくいという感覚もよくわからない。 
私の場合、500円玉を使う場面といえば、たばこを買うときのことを思い出す。いまはやめてしまったけど、喫煙者だったころには、たいていいつも500円玉を投入していたはずだ。 なぜなら、ちょっと前までたばこは200円台後半という中途半端な額だったし、1000円札を入れるとおつりが大量に出てきて困ったりもしたからだ。


また、たばこでなくても、ジュースやお茶などを買う際にも、500円玉ならたいていのものが買えるし、10円玉や100円玉を何種類も小銭入れに入れておかなくてもいいので便利だ。 

だが、このような感覚は、500円玉を基準にした物価体系の中に生きているからこそ成り立ちうるものだということを忘れてはならない。 
記事から1984年当時の物価水準を想像することは難しいが、調べたところによるとこのころのたばこ一箱の値段は200円前後。(私が見たデータではハイライトの値段が、83年から84年にかけて、170円から200円に上がったことになっている。ということは、いまのたばこもそうであるように、84年当時でも、200円以下の銘柄だってあったかもしれないということだ。) 
コーラやファンタなどは確か消費税導入まではどこでも100円ちょうどだった。ということは、たばこにせよ、ジュースにせよ、100円玉を数枚用意しておけばことたりるわけで、なにも重たい500円玉をジャラジャラさせておく必要はないのだ。 

さらに記事の中でも触れられているように、84年の11月に新紙幣(夏目漱石の1000円札)が登場することになっていたため、500円玉に対応する自販機の導入が遅れていたという事情も関係している。 

それゆえ、記者が述べるように、ちょうどこの時期500円玉は自販機でつかえないし、たばこやジュースを買うにはやや額面が大きすぎる、ちょっと使いづらい硬貨として認識されていたということなのだろう。 

まとめ

ずいぶん長くなったのでいったんまとめておこう。 
東北新幹線(1984年開通)とともに私の幼年時代の記憶として刻まれている500円玉の印象だが、その重さやスペシャル感というのは、大人社会においては違和感や拒絶感として受け入れられていた。そして大人たちが500円玉を手にしたときの、何となく決まり悪い思いは、それがモノの価値が大きく変動する時代の入り口にたっていたことを意味している。
それまでの100円玉数枚を中心としていたモノの価値体系は、おそらく82年の500円玉導入、 および新札の発行、そして89年の消費税のスタートによって決定的に、500円玉を中心とする 体系へとシフトしていったと考えられよう。 

そしておそらく私たちにとって、現在の物価もいまだ500円硬貨を一つの単位とする価値の体系をそのままにとどめているといえるのではないだろうか。  

 

 

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この文章を書いたのは、いまから15年も前のことですが、昨今はキャッシュレス決済が普及し、また別の形で私たちの貨幣についての感覚は変わっているのだろうと思います。