ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

ググらずに昔住んでいた街の地図を描く3(左京区編)

ググらずに昔住んでいた街の地図を描くシリーズ第三回

勝手にシリーズ化していましたが、今度は大学院時代を過ごした京都市左京区編です。

 

京都市左京区には、大学院生として9年、助手時代に2年の合計11年住んでいました。その後結婚して右京区に転居してさらに3年と、京都には合計14年住みました。

京都はイケズ気質だとか住みにくいとか言われますが、一般人が住む左京区や右京区はふつうの地方都市と変わりません。ただ、季節ごとのイベントで交通が非常に不便になる点が大きな特徴で、そのため私はもう京都に住みたくはないし、京都に仕事で通うのも嫌かなと思っています

それでも院生として住んでいた時期は、今思うと非常に幸福な時間だったなと思います。

 

白川通りを中心とした生活圏

私が住んでいた地域の全体図はこちらです。

 

地図を描くとだんだん書き入れたい項目が増えてきて、最初に描いた縮尺と合わなくなってきます。Goodnotesならばコピペや縮尺の変更もカンタンです。何度か描き直していくうちに、白川通りを中心とした南北に広がる当時の生活圏が浮かび上がってきました。

北側(上の方)から順番に詳しく紹介していきます。

 

北白川上終町付近


アパート(水色の箇所)より北側は、ちょうど市バスの北白川上終町のバス停付近で、京都造形芸術大学(現京都芸大)のキャンパスがありました(刑事ドラマでよくロケ地になっている大階段が特徴的です)。付近には、学生向けのコンビニもありましたが、白川通り周辺にすむお金持ちの皆さん向けのお店(マイケルやパン屋さんなど)がたくさんありました。

大学の向かい側には何度か友人たちと遊んだ北白川バッティングセンターがあり、その近くには天下一品の本店やギョウザの王将がありました。

石油ストーブに入れる灯油を買っていたガソリンスタンドもこのへんでした。

院生のころに廃業してしまいましたが、古書の文庫堂にもよく行きました。

さらに北大路を北上すると一乗寺の商店街(曼殊院道)があり、白川通りに近い萩書房は外国文学の品揃えが充実していて、いつも通っていました。同じ通りにはおしゃれ書店のけいぶん社がありますが、昔は今のように女子向けではなく、もっと現代思想とか男子学生むけの本も多かったように思います。

白川通りの東側には詩仙堂があります。京都で私がいちばん多く訪れた観光地が詩仙堂です。私が左京区を離れる頃にはもうかなり人気のスポットになってしまってなかなか入れなくなっていましたが、住み始めた当初はそれほど混雑しておらず、大きな和室に座ってのんびり庭園を眺めることができました。

詩仙堂や曼殊院、修学院など白川通りの東側はほとんど山なので、比叡山も含めてしばしばトレイルランニングやサイクリングなどに出かけました。近所に山があるというのはとても恵まれた環境だと今は思います。

 

北白川別当町付近

つぎに、自宅(水色で塗った石原荘)から南側を見ていきます。自宅から最寄りのバス停が、現在でも女子駅伝の中継地点になっている北白川別当町です。


自宅からまっすぐ坂を下ったところにはけっこう大きな丸山書店がありました。文庫や新書や雑誌の新刊をチェックするのにほとんど毎日通っていました。白川通り沿いには、丸山書店のほかに狭い範囲にいくつも新刊書店がありました。サブカルで有名なガケ書房がオープンしたときはクルマがめり込んだ独特の外観に驚きました。スーパー大黒屋の向かいには、古書と新刊を両方扱っているお店があったし、銀閣寺道交差点を下がったところには、エロと左翼と哲学に強い独特の書店がありました。筑摩学芸文庫のニーチェ全集もこのお店で買いました。

交差点に面した喫茶ジュネスは充実したランチが素晴らしいお店です。それから御蔭通りの太陽カフェにはいつも友達や当時の彼女たちと訪れていました。太陽カフェ二階の居酒屋も雰囲気がよく気に入っていました。数年前に訪問したらお店が閉業し、入り口前の桜の木は伐採されていました。

太陽カフェの向かいのビル1階にはおしゃれな服屋さん(so that's it)が入っていました。ここの店主は双子のおじさんたちで、いつもいろいろ試着させてくれるのですが、慣れていないと自分の接客をしてくれてるのがどっちのおじさんか分からなくなるというおもしろいトラップがありました。

白川通りにはいくつも人気のラーメン店がありました。こってり味の東龍はいつも行列ができる人気店ですが、私は向かいにあるあかつきのほうが好みでした。

それから銭湯も何軒も残っていて、別当町交差点近くの白川温泉は古い建物が人気(お湯はいまいち)でした。地図には銭湯を黄色で塗っています。私が覚えているだけでも、白川温泉、銀閣寺湯、高原湯、天神湯、洛東湯、銀水湯などいろいろな銭湯に入ることができました。現在はほとんど廃業していることでしょう。

 

御蔭通り

御蔭通りの坂道を西へと下っていくと農学部グラウンドがあります。当時はグラウンドから京大北部構内を抜けて通学していました。農学部の入り口には気に入っていたひらがな館がありました。いつもチキンで野菜を巻いたロールカツばかり食べていました。

農学部といえば、ブルーちゃんの生誕の地でもあります。生後間もなく親からはぐれてしまったブルーちゃんは、農学部裏に住む保護親さんに拾われたのでした。ブルーちゃんの、植物や土をいたずらする癖は、おそらく農学部で過ごしたころの記憶に由来するのではないかと思っています。

御蔭通りと東大路の交差点あたりには、古書店がありました。哲学思想系のハードカバーが揃っているので助手時代によく通いましたが、その後移転してしまいました。東大路を渡ったところにはお好み焼き屋さんがあり、たっぷりとソースとマヨネーズのかかった鶴橋風が売りでした。

 

銀閣寺道周辺

2007年に北白川山田町のアパートが取り壊しになり、少し京大に近い銀閣寺道交差点近くのアパート、銀閣寺ハウスに引っ越しました。銀閣寺の入り口ということで、この交差点にはあらゆるバスが停車するので、市内の移動には非常に便利な場所でした。

アパートのすぐ隣にはケーキのバイカルがあり、お土産などによくチーズケーキを買っていました。

交差点に面した京都銀行にはいつも家賃の支払いに出かけました。住んでいたアパートにはちゃんとお風呂場がありましたが、相変わらず銭湯通いが楽しくて、いつも銀閣寺湯に入りに出かけていました.

京大には今出川通りに出て、吉田山を迂回していくか、または真如堂の方から山を越えるルートもありました。吉田山は小さい山ですが、じっさいに歩いてみると傾斜は急だし、山の中の道もたくさんあって迷います。有名なカフェ茂庵がありましたが、けっきょく一度も入ることはありませんでした。

銀閣寺道に引っ越した頃からジョギングを始めました。最初のジョギングコースは、吉田山を真如堂、金戒光明寺を抜けて南へ下り、平安神宮の鳥居を抜けて三条通りを蹴上まで進み、鹿ケ谷通りを北上し、疎水沿いに銀閣寺道へ戻るという5kmくらいのルートでした。今思うと適度なアップダウンがあり、景色も良いすばらしいコースです。

 

京大の南側の飲食店


吉田山のふもとには京大の学生向けアパートが建ち並んでおり、ちょうど吉田南キャンパスの南側にあたります。このへんには学生向けの飲食店がたくさんあり、院生仲間とよく食べに来ていました。

いくつかのお店があって、その日のメンバーでどのお店に入るかを決めていました女の子がいるときは、風媒館あるいはキャンディーを選んでいたし、男子だけのときは丸二食堂でした。キャンディーは何種類かある箱に入ったお弁当から選ぶ形式で、どのおかずもおいしかったです。丸二は大量のごはんが盛られてくる、典型的な学生街の男子向け食堂でした。ごはんの量を少なめにすればおいしく食べられるよいお店でした。

 

記憶は道から浮かび上がるのか

昔住んでいた場所の地図を描くシリーズは、単純に自分のたのしみから始めたことでしたが、じつは深いところで自分の研究のネタとも重なっているのでした

ここ最近、夢や無意識における記憶がどのように考えられてきたのかを、文学作品やフロイトの精神分析、ベンヤミンの思想などを手がかりに考えていました。フロイトそしてベンヤミンは、独自の忘却/記憶論を展開しました。

フロイトにおける記憶はしばしば名前や言葉から喚起されたり、逆に言葉の連想から忘却に追いやられたりするものです。またベンヤミンにおいては、言葉だけでなく、街路などのイメージの記憶も重視されています。

今回地図を描いていて、自分がどうやって昔のことを思い出しているのか、自覚的に捉えることができました。私の場合は、当時歩いていた道を思い浮かべ、それぞれの道に何があり、どこにつながっていたのかを思い出していく中で、銭湯や飲食店など記憶の中の場所が浮かび上がってきました。記憶をたぐりよせるヒントというかとっかかりは人それぞれにあるのでしょうが、私の場合は地図を描くことが記憶をよみがえらせる一番の方法だったのだと分かりました