ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

ググらずに昔住んでた場所の地図を描く2(東京編)

前回に引き続き、昔住んでた場所の地図を描く

ふと思い立って、昔住んでいた場所の地図を描き始めました。

手始めに、実家があった大平町中心部と、高校時代を過ごした栃木の町を描いてみました。

ググらずに昔暮らしていた場所の地図を描いてみよう(栃木編) - ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

いちおう年に一回くらい帰省して、近所を歩くこともある大平町はともかく、高校を出てからは、たまに車で通り過ぎるくらいしか街を見る機会のない栃木市は、ほんとうに現在どうなっているのかよくわからなくなっていました。

高校を出た後予備校に通った大宮の街は、以前ストリートビューで振り返りました。

今回は大学時代を過ごした東京の明大前、下高井戸エリアおよび途中で引っ越した豪徳寺駅周辺の地図を描きました。

 

明大前、下高井の思い出

以前の記事に書いたように、大学に入学してしばらく栃木から通ったのちに、すぐ隣町の下高井戸にアパートを借りて、そこから明大前の校舎に通っていました。明大は途中でキャンパスが変わる都内の他大学(東大、慶應、今は違うけど青山学院など)に比べ、キャンパス間の距離が近いため、うまく場所を選べば4年間引越しの必要はありません

結局私も下高井戸の住みやすさが気に入って、4年生の途中まで住み続けました

この街を離れた理由は、これも前に書きましたが、老朽化によるとり壊しのためでした。(当ブログ初期のおすすめ記事です↓)

schlossbaerental.hatenablog.com

まずは全体図です。

 



明大前ですが、駅前には富士銀行の支店があり、最初にここで口座を開き、育英会の奨学金の口座に設定していました。駅からまっすぐ大学へと続く道はあまりもう覚えていないのですが、京王井の頭線の向こう側にはいくつか印象的な飲食店がありました。

学生たちがコンパに使う、沖縄居酒屋の宮古や、いつでも親子げんかが絶えない中華料理屋さん、ちょっと落ち着いた喫茶店の新倉敷などがありました。

駅の南側は密集した住宅街ですが、京王線沿いには明大生向けのお店が並び、なかでも広島風お好み焼きのお店が気に入っていました。ドイツ料理店もありましたが、結局一度も食べにいくことはありませんでした。

それから、あまり覚えていませんが、甲州街道沿いにもいくつかお店がありました。けっこう待たされるカレー屋さんに何度か行った覚えがあります。

すぐ隣の駅である下高井戸は、古くからの商店街が残る、活気のある街でした。私が住んでいたのは、商店街を抜けたところにある古いアパートでした。商店街のお店は魚屋さんや肉屋さんがいつも賑わっていましたが、よく買い物をしたのは、バナナが安い八百屋さんと、狭いけどいつもいい匂いがするカルディコーヒーでした。現在のように巨大チェーン店でなかったころのカルディは、都内の何ヶ所かに小さなお店があったのでした。

商店街を北に抜けたところには、ほぼ毎日立ち寄っていた古書の豊川堂がありました。一冊100円の岩波文庫や、けっこう本格的な学術書まで、いろいろな本をこの店で買いました。

駅前の通りを北に進むとスーパーのセイユーがあり、さらに先にはアパートの大家さんが営む酒屋さんがありました。家賃の支払い時には大家さんのところに来なければならないのですが、近いとはいえけっこう時間がかかるので、滞納しがちでした

甲州街道(そしてその上には首都高)を渡ると永福町へとつづく坂道になっており、お寺やお墓がいくつかありました。お寺の裏には学部時代にいちばん仲が良かった東洋史専攻の友人Kが住んでいました。彼とは教養科目の授業で知り合い、ほぼ毎日のように夕飯を食べたり、ビールを飲んだりしていました。その後アパートが取り壊されてからは、豪徳寺のアパートで同居していました。

京王線の南側は、日大文理学部につづく学生街が広がっていて、さまざまな飲食店がありました。バイトして一ヶ月半くらいで辞めたマクドナルドや、卒業後も学会の際に食べにきた中華屋さん、店名が不気味だけどおしゃれな「虫の巣」などのお店がありました。商店街の入り口付近には毎日通っていた須賀の湯がありました。現在はもう閉業して、マンションに改装されていました。

須賀の湯はたしか水曜が定休だったので、その日だけは桜上水方面にある別のお風呂屋さん(名前は失念)に通っていました。桜上水には小学校から高校までいっしょだった友人Aが住んでいました。彼は一年早く法政大学に進学していました。

桜上水のさらに南側にはもう一人別の高校時代の友人Eが住んでいました。彼は確か一年浪人して日大文理の心理学専攻に通っていました。この友達からスーパーファミコンを借りて、夏休みじゅうゲームに熱中したものでした。

下高井戸に住んでいていちばん気に入っていたのが、駅南側の下高井戸シネマでした。大学生の頃は、毎週のように映画を見に行っていましたが、当時通っていた小劇場のなかで現存しているところはもうほとんどないかもしれません。毎日のようにプログラムが変わるので、特集が組まれる時は、毎晩通っていました。

 

豪徳寺の思い出


下高井戸のアパートが取り壊されたことは以前も書きましたが、その後友人のつてを頼って、豪徳寺のかなり古い木造アパートに卒業までの四ヶ月くらい住みました

学会等で何度か来る機会があった下高井戸と違って、豪徳寺の家やその周辺には、大学卒業後一度も訪れることはなかったし、どんな街だったかもあまり思い出すことはありませんでした。それでもいつも使っていた電車や道、通っていた古本屋さん、お風呂屋さんなど思い出してみると、街の形が記憶から浮かび上がってきます

ふだん使っていたのは小田急線の豪徳寺駅で、すぐ近くに東急世田谷線の山下駅がありました。二つの駅の間は古くからの商店街があり、山下駅前には当時としても破格だった、一杯200円台のラーメン屋さんがありました。何度か食べにきましたが、とてもシンプルな味でした。

豪徳寺駅から南へ商店街を進み、世田谷線宮ノ下駅を越えたところに、当時住んでいた田中荘がありました。引っ越した当初は大家の田中おじさんと仲良くやっていく自信がなくて、日々商店街の喫茶店や古本屋で時間を潰してから家に帰っていました。

お風呂はあいかわらず銭湯に通っていました。商店街に建物は風格があるけどお湯はいまいちの銭湯があり、桜新町方向には壁の絵がみごとなきれいな銭湯がありました。どちらも名前は覚えていませんが、私が気に入っていたのは桜新町の方でした。

豪徳寺というお寺は、アパートから線路を渡ったがわにあり、ときどき散歩をしました。招き猫で有名なお寺だったので、境内には参拝者が置いていった大量の招き猫が並んでいました

すぐ近くには世田谷城址もあり、世田谷の古い街が残っていました。上町駅周辺は世田谷のボロ市で有名で、友人たちと見にいったのを覚えています。

田中荘はけっこう過酷なアパートだったので四ヶ月くらいの滞在がちょうどよかったのですが、あの街にはもっと長く住みたかったと思いました。(田中荘の思い出についてもそのうち書く予定です)。

 

さて、次はいよいよ院生、OD時代に11年住んだ左京区編です。