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ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

1996年秋、大学1年生後期の思い出

9月12日から後期の授業が始まりました。おそらく他の多くの大学に比べて一番早い始まりではないかと思います。*1国立大学の場合は、授業開始は10月からなので、その差は三週間にも及びます。国立の先生方は、私たちが授業や会議に追われている間も、学生たちをサマースクールに連れて行ったり、海外学会に出たり、その合間にオクトーバーフェストに参加したりできるのでしょう。わずか三週間とはいえ、その間にさまざまなことができるのだろうと思うと、毎年ごとの小さな差が積み重なれば、数年で研究者としての能力に大きな差が開いてしまうのではないかと不安になります。

 

後期の始まりは落ち着いている

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後期の授業が始まり、ふたたびクラスの学生たちがやってきました。前期と異なり、後期はモチベーションの低い学生(単位をとる気がないのに登録するような学生)が少なく、また、学生たちも私の授業に慣れているため、授業を進めるのはとても楽です。

ああ、後期というのはいいものだな、とほっとした気持ちになっていました。それと同時に、自分が初めての夏休みを終えたあと、どのように大学で過ごしていたのだろうと思い出したくなりました。このブログでも、しばしば私自身の思い出について書いています。20歳を超えたら、人間はこれまでのできごとを回想して整理することが人生の中心になるというのは、私の持論です。まあ、職業柄若者ばかりを見ているので、自分の頃はどうだったか、と振り返る機会は普通の人よりもずっと多いのではないかと思います。

 

1996年9月末、後期の授業が始まる

私は夏休みの間に、某ファーストフード店で毎日肉を焼いてはパンに挟む仕事に打ち込んだものの、9月半ばに退職し、ぼんやりと後期授業に臨みました。

当時の大学は、すべて通年の授業だったため、講義科目のレポートを夏休みに書く必要がありました。しかし、日頃ろくに出席をしていない科目については、レポートを書くことなどできません。現代思想西洋音楽史などの科目でレポート課題があったと思いますが、けっきょくレポートが書けずに、単位取得をあきらめました。

専門のドイツ語は、たしか前期の最後に形容詞の格変化まで進みました。形容詞というのは、覚えることが多い初級ドイツ語文法の中でも、もっともわかりにくい分野です。学生に教えるようになったいまでこそ、正確に変化を覚えていますが、大学院生のころまでは、変化表を見ないと正しい格変化がわかりませんでした。

あまり真剣に勉強していなかった私は、前期試験のころには完全に落ちこぼれていて、授業には出るものの、ほとんど理解できずに過ごしていました。

 

人間関係の変化

いまの学生にしても、自分にしてもほんとうにささいなことで挫折してしまうものです。ほんのちょっとした一言が言えればなにも問題なく済む話なのに、どうしたらいいかわからなくてぐだぐだしているうちに、何もかも嫌になってしまうなんていうことが、学生の頃にはよくあったものです。

大学1年目の夏休みを終えた頃から、サークルや高校時代の仲間よりも、同じ文学部のクラスメートと一緒に過ごす時間が増えました。大学入学当初は、とにかく都会の大学で、さまざまな人間と会って、多様な価値観に触れなければ!と気負っていたのだろうと思います。無理をして、大学生らしく振る舞おうとして、結果として自分のやりたいことができないでいる、そんな時期でした。

あまり授業に熱心に参加しなかった前期とはことなり、後期からはなるべく授業に出ようとがんばったこともあり、クラス内に友達が増えました。今なら当然だろうと思うのですが、他学部の学生たちと話すよりも、文学部で専門が近い仲間のほうが、気が合うと気づき、周りの友人たちから知識を吸収するようになりました。

あるいは逆に、当時は自分よりも物事をよく知っている仲間たちに対して、素直になれない部分があったのかもしれません。彼らには負けたくない、彼らにバカにされたくない、という気持ちが強くて、はじめのうちは同級生と打ち解けられなかったのではないかと思います。

 

携帯電話(PHS)を買う

11月ごろに、人間関係がわずらわしくなって、自宅の電話の線を一週間くらい抜いて過ごしたことがありました。今思うと奇妙な話ですが、当時の一人暮らしの学生たちは、みな固定電話を家に置いていました。現在と違って、電話を引く権利を買う必要があり、それがけっこう高額だったため、一人暮らしを始める時期には、家に電話がなく、連絡を取る手段が全くないという学生も少なからずいたように思います。

私のアパートにも電話はなく、友人や実家にかけるために、家から歩いて数分の電話ボックスに足を運んだことを覚えています。一年時の夏休み前くらいに、父が上京してきて、コジマ電機で買った子機付き(六畳一間なのに!!)の電話をつけてくれました。 固定電話は便利なのですが、今のスマホと違って誰からかかってくるのかわからないので、話したくない相手からの着信でも出ないといけません。それがいやになって、11月に電話の電源と電話線(電源が入っていなくても、電話線がつながっていれば通話できた)を引っこ抜いたのでした。

とはいえ誰とも会いたくないわけじゃなくて、数人の友人たちとはコンタクトが取れないと不便です。それならば、せっかくだし、というので、友人と渋谷の電器店にでかけて、PHSを買ってきました。主流派のNTTではなく、二番手のDDIポケットを選びました。この電話は100件のアドレスを登録できるというのが売りらしく、けっこう便利だったのですが、すぐに使わなくなりました。

それは、PHSに着信があっても、たいてい家にいたからです。家にいるなら家電にかけてもらった方が割安です。しばらく煩わしい人間関係から距離を置いたこともあり、家の電話を使っても何も問題ないとわかったので、PHSはわずか3ヶ月ほどでお払い箱となりました。*2

その後も東京にいたころはずっと携帯電話やPHSは持たずに固定電話を愛用していましたが、携帯を再び買ったのは、それから4年後の大学院1年生になってからでした。

アルバイトは難しいと気づく

大学に入ってはじめに経験したのは、披露宴会場の配膳人のバイトでした。他学部の知人に紹介され、市ヶ谷のバイト先で6月から仕事を始めました。ハイシーズンだったので、週末には結婚式が3件もあり、12時間ほとんど休みなしで働くことになりました。時給がいいとはいえ、これでは体も心も持たない、そう思ってわずか十日ほどで辞めました。*3

その後冒頭に書いた、某ファーストフード店で調理を担当しますが、これも忙しくて苦しい仕事で長続きしませんでした。

二回も失敗をすると、人間少しは謙虚になるものです。とにかくバイトは難しいものだ、ということがよくわかってきました。贅沢を言わずに、誰でもできる仕事で着実にお金を得よう、と考えを改めました。そして見つけたのがコンビニの夜勤の仕事でした。コンビニのバイトは、情報誌を見れば山ほど載っていますが、面接に行く前に地図帳を見ながら、じっくり店を選びました。自分の活動範囲から離れておらず、混み合う場所(大きな街、大学、商店街)ではなさそうな店、ということで、渋谷の駅から西側に10分ほど坂を登ったところにある店に行くことにしました。コンビニの夜勤は、当時時給千百円ほどでしたが、私が行った店は12時間シフトだったので、一晩で一万円以上のお金になりました。しかし、12時間シフトということは、夜9時から朝9時までで、翌日も眠くて大学に行くのはほとんど無理です。火曜日と金曜日の晩に夜勤をすることにしたので、水曜日の授業(3コマほど)は、切り捨てることにしました。

コンビニの夜勤はたしかにお金にはなりましたが、同時にだいぶ体を蝕むものでもありました。なかなか疲れが抜けなくなり、久しぶりに会った親にも心配されました。しかし、この店でのバイトは、店長夫婦にたいへん大事にしてもらえたこともあり、大学3年次の終わりまで、時間を夕方や昼間に変更しながら、ずっと続けることができました。

 

読書を始める

文学部のドイツ文学専攻に入りながら、私はそれまであまり多くの本を読んでいませんでした。ドイツ文学を選んだ理由は、ゲーテの『若きヴェルター』とニーチェの『ツァラトゥストラ』を斜め読みして、おもしろそうかなと思ったからでした。しかしゲーテにせよ、ニーチェにせよ、ちゃんと通読したのは学部2年生ごろだったでしょう。

今思うと、なんで文学部に行くと決めておきながら、ほとんど本を読んでいなかったのか理解に苦しみます。おそらく当時の私は、文学部に進んで勉強すれば、本屋に並んでいるような難しそうな本は、おのずと読めるようになるのだろうと漠然と思っていたのでしょう。

大学に入学したころは、毎日語学の勉強ばかり(英語・ドイツ語で7コマくらい)で、何も文学の勉強ができないので、日々つまらなく感じていました。夏休みを越えた頃から、ようやく自分で読まないと何も始まらないのだという、もっとも基本的なことに気がつきました。受験勉強をしていた頃は、国語は得点源でしたが、一冊の本を手にとって、最初からじっくりじっくり読んで行くのは、慣れていないとなかなかたいへんなことでした。そこで毎日ノルマを決めて少しずつ読むことにしました。一日50ページと決めて、毎日暇な時間に読み続けているうちに、本を読むことは徐々に楽しくなってきました。後期の終わり頃には、つぎに何を読むか計画を立てて、手帳に書き込んだりしていました。

 

映画を見る

また、私は大学に入るまで、ほとんど映画館で映画を見たことがありませんでした。『グレムリン』や『ゴジラ(’84年)』などは地元の(今はもうなくなった)映画館で見ました。しかし、高校生ごろになると地元にはほとんど映画館がなくなったこともあり、映画=テレビの洋画劇場で見るものという認識になっていました。

東京に暮らし始めて、ある日テレビを見ていると、『ターミネーター2』が流れていました。とろとろ溶ける金属の体を持つT−1000型ターミネーターは、当時話題になったものでした。どろりと溶ける様子を見て、すごいなーと思うと同時に、文学部生が、とろけるターミネーターを見てて満足していいんだろうか、と疑問を抱きました。もうちょっと、映画らしい映画を見たいものだと漠然と感じました。

もちろん東京にいれば、新しい映画も古い映画もたくさん見ることができます。レンタルビデオ屋さんも同じ町の中にありました。でもなぜそれまで何も見てなかったのかというと、簡単に言えば、何を見るべきかよくわからなかったからでしょう。

後期の授業が始まる頃、映画を見ようと決めて、『ぴあ』などで上映中の作品を探しました。何を見るべきかはとりあえずおいておいて、まずは興味を惹かれたものを見ればいいや、そう思って渋谷の映画館で何本か見るようになりました。映画館のいいところは、作品の前に、これから公開予定作品の予告編が見られる点です。予告編を見て、また見に来ようとなるわけです。大学から渋谷の映画館までは20分程度なので、一年生の終わり頃には、毎週2本くらい渋谷で見るようになり、クラスの友人たちとも映画談義ができるようになりました。

 

ヨーロッパに行ってみようと思う

フランスやドイツの映画を見るうちに、じっさいに映画の舞台となった場所に行ってみたいと強く思うようになりました。これは私にとって、初めてのことでした。ドイツ文学を専攻していたものの、ドイツというのはとても遠い場所で、飛行機の券はとても高くて、一生に一度くらいしかいけないのかもしれない、と田舎者だった(しかし飛行機で東京に来るほどの田舎ではなかったので一度も飛行機に乗ったことがなかった)私は、漠然と飛行機も海外も遠いものだと考えていたのでした。

しかし周りの友人たちは、ヨーロッパに個人旅行をする計画を立てたり、シンガポール家族旅行をした話をしていました。そこではじめて、学生でも海外にいけるのかと気づきました。

コンビニの夜勤をしながら少しずつお金を貯めていましたが、旅行に行こうと決心できたのは、もう一つ、たまたま大学から数十万円の奨学金を借りることができたからでした。*4

すでに海外旅行に行っていたり、あるいはこれからバックパッカー旅行をしようとしている友人たちと相談しあって、私も格安航空券を買って、ヨーロッパに行くことにしました。行き先は映画で見たパリやマルセイユでした。でもせっかくドイツ語を学んでいるのだしと、1ヶ月の滞在のうち一週間だけ使って、フランクフルト、ケルン、ハンブルク、ヴァイマールに行ってみることにしました。 

後期試験を終えた2月の初めに、アエロフロートでパリに到着しました。オープンチケットを買ったので、途中で旅程を変更して、1ヶ月半フランスとドイツで過ごしました。フランス語もドイツ語もまだほとんどできないので、受験で鍛えた英語だけで通しました。

あの経験が現在の自分につながっている

この旅行から戻って、二年生の4月に、私は大学を辞めてヨーロッパに行きたいと、担任のT先生に相談したことがありました。そのとき先生は、語学の勉強をするのはいいが、海外で何をしたいのか、言葉を覚えて何に使いたいのか、そういったことを日本で勉強して考えておいたほうがいい、とおっしゃいました。それで私は退学を思いとどまり、文学と語学の勉強に熱中することになりました。

長くなりましたが、こうして振り返ってみると、大学1年目のたった一年のできごとなのに、それがどれほどその後の自分に大きな影響を与えているのだろうと驚きます。私よりも真面目で素直な、学生のみんなには、きっとこれからもっと面白い体験や人生を変えるきっかけが見つかることでしょう。ひとりの教員として、私は彼らの人生が新しくひらけていく場面の傍にいることをうれしく思います。

 

 

 

*1:これだけ早く始まるのに、後期が終わるのは2月第1週目です。他の大学と同じです。どうして早く終わらないのかは、毎年謎です。

*2:もうひとつ、PHSをすぐ使わなくなった理由があります。それは当時あまり学生たちには携帯電話が普及しておらず、誰もいないところで一人で話しているのを見られるのがとても気恥ずかしかったのでした。現在では、一人で通話しながら歩いていてもだれも気にしませんが、当時はなんだか気まずい感じがしたものでした。

*3:このあとに単発で選挙のポスター貼りなどのバイトもしました。最近亡くなった某大物代議士の事務所でも1日働きました。給料がよくて驚きました。

*4:この奨学金は貸与だったのですが、大学院在学中に、晩年の祖父がタンス預金から返却してくれました