ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

レーシック手術後10年を振り返る

あのときから10年が過ぎた

当時書いていたブログに経緯をまとめていますが、10年経ってあらためて気づいたことなどを含めて、もう一度レーシック手術について書いておこうと思います。

 

山奥の村でコンタクトレンズを落とす

ロードバイクでのサイクリングに熱中していた2010年の夏。鯖街道を北上して、朽木から左京区の最果て、久多の集落へいったとき、途中でコンタクトレンズを落として(目にゴミが入って、取り除こうとしたらコンタクトが吹っ飛びました。しばらく探し回ってなんとか無傷で発見できました)肝を冷やしたことがきっかけで、視力回復手術を受けることを決めました。

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この写真を撮ったあとに落としました。

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久多は市内中心部からロードバイクで約一時間くらいかかりますが、夏は涼しくとてもきれいな場所です。
目にゴミが入って痛くなるというのは、コンタクトレンズ装用中はあたりまえに起こることです。とりわけロードバイクでは、オートバイのようにフルフェイスのヘルメットをかぶらないので、高速移動中にゴミや虫が目に入ることがしばしばおこりました。さすがに人里離れた田舎でコンタクトを落として、ほとんど見えない状態で帰ってくるなんて怖すぎると思いました。
ネットであれこれ調べてみたところ、当時住んでいた京都市近隣では、京田辺にある病院が施術数も実績も申し分ないということがわかり、料金も当時の私の収入で問題なく払える程度だった(たぶん全部合わせて11万円くらいでした)ので、9月初めに手術を受けることに決めました。

 

手術まで二週間の眼鏡生活

レーシック手術についてはけっこう前から検討していたけど、なかなか病院にいく気になれなかった一つの理由が、手術前二週間はメガネで過ごさなければならないということでした。私は当時ハードコンタクトレンズをつけていました。もちろん寝る前と朝は眼鏡です。メガネもそれなりに良いものを買っていましたが、夏の暑い時期にメガネで外に出たり、ジョギングをしたりというのはちょっと無理ではないかと思っていたのでした。汗っかきの私にとって、コンタクトの一番のメリットは、汗で眼鏡がずり落ちたり、熱が籠ったりしなくていいという点でした。こんな暑い夏にメガネだけで過ごすなんて、と躊躇しましたが、コンタクトをなくすよりはいいだろうと我慢することにしました。

 

手術とその後

手術を受けるにあたって、一回目の通院では、目の検査をして、どの種類の手術を受けるか説明を受け、日程を決めました。このとき、瞳孔を開かせる目薬をさされたので、帰宅するまで外がまぶしくてこまりました。

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この医院はいつも混んでいて(遠方から泊まりでくる患者さんもいたそうです)、なかなか手術の予約が取れないらしいのですが、なぜか検査の翌日に空きがあったので、すぐ次の日に手術を受けることになりました。

手術は、おそらく一番最後の順番で、夕方遅い時間でした。今だったらスマホを見ながら時間をつぶすのでしょうが、当時は待合室に置いてあるヤングジャンプなどをつぎつぎ読んで過ごしました。

やっと順番が回ってきて、手術室に入りました。麻酔薬などを点眼され、実際にレーザーを目に当てました。痛くはないのですが、お医者さんが「動かないで、動かないで」と何度も言いながら、眼球にちっちゃなカンナ的な器具をあてて切開し、その後ヘラのようなもので、ぺたぺたと角膜をくっつけているのがすべて文字通り目の前で行われるので、ずっと緊張しっぱなしでした。手術後に防護メガネを借り、その後一人で帰宅しましたが、たしかにコンタクトなしでもちゃんと外が見えることに驚きました。

京田辺から京都市内に戻るころに、徐々に痛みが出てきました。目が痛いというより、頭痛のような痛みでした。あとは精神的なショックもあったでしょう。出町柳で自転車に乗り換え、ふらふらと今出川通りの坂を登って帰宅し、軽く夕飯を食べてその日はすぐに寝ました。

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保護メガネをかけています。たしか1週間くらい保護メガネをかけ、洗顔や洗髪に気をつけて過ごしました。手術を受けて数日は、切って貼りつけた眼球表面が、ちょうどコンタクトレンズを何日も入れっぱなしにしているような異物感がありました。エアコンの風にあたるのも少し辛かったです。しかし何より、この保護メガネが私の頭の形にあっていなくて、ちょうど孫悟空の輪っかのようで、きりきり痛むことが嫌でした。

術後しばらくの間、ドライアイ緩和のための目薬を定期的にさしていましたが、このとき身に付けた目薬の差し方は今でも役に立っています。

左手人差し指で下瞼をひっぱり、右手で目薬を持ち、左手の甲に右手親指をくっつけて固定し、下瞼と眼球の間あたりに目薬を落とす、という方法です。

手術の10日後くらいには、すっかり眼球も落ち着いたので、ロードバイクで琵琶湖一周をしています。

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このころの写真を見ると、信じられないくらい毎日のようにいろいろな場所に自転車で出かけています。

視力が回復して、良かったことは運動ができるということ以外にもたくさんあります。とりわけ眼精疲労による肩こりがほぼなくなったことや、夜にテレビを見たり、映画を見たりしながら、いつでも安心して居眠りができることなどは、日常生活で感じるメリットです。

 

この10年での変化

当時はまだ一人暮らしでしたが、その後結婚してから、妻にも手術を勧め、彼女も同じ病院で私とはべつの視力回復手術を受けました。

あれからもう10年が過ぎました。手術から一ヶ月後に、目が真っ赤になって腫れ上がったことがありました。これは手術による合併症か!と驚いてすぐに病院に行きましたが、いわゆる「流行り目」、ウィルス性結膜炎でした。深刻な病気ではないとわかって安心しましたが、目だけでなく目の周り全体が腫れて辛い思いをしました。

その後は目に関するトラブルは全くありません。妻は少し視力が落ちてしまったといいますが、私についてはだいたい両眼とも1.0から1.2くらいをキープしています。おっさんになると憂鬱な毎年の健康診断ですが、視力検査は実のところいちばん自信を持って受けられる検査です。

 

老眼世代に入る

少し年上の同僚と話すと、よく老眼が始まったと聞きます。たしかに『デイリーコンサイス独和辞典』や、19世紀に出版されたレクラム文庫などをみると、細かい字に怯んで、体が拒否反応を示しますが、読めないことはありません。夕方や夜の暗いあかりの元ではちょっと見づらくなりますが、少なくとも昼間であれば、視界ははっきりしています。近視や乱視も全く進んでいません。

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左が『小学館独和大辞典コンパクト版』、右が『デイリーコンサイス独和・和独辞典』です。

私の場合は幸いにも、手術が成功し、その後もトラブルなく過ごせています。しかし、だれもがうまく行っているわけではありません。少し前には話題になっていましたが、レーシック手術の危険性や手術の失敗は何度も報道されています。妻の場合も手術は成功しましたが、少しずつ視力が戻ってしまっています。

 

 

目が見えなくなってしまうことは、研究者である私たちにとってはたしかに恐怖です。しかし限られた人生なのだから、少しでも良い状態で読書や研究ができたほうがいいと当時は思ったし、今でもその判断は間違っていないと思っています。私が研究者として元気でいられるのはあとせいぜい20年ちょっとでしょうが、おそらくそれくらいは私の目も持ち堪えてくれるだろうと思っています。