ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

父を送る

父が亡くなる

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30歳くらいの父。抱っこされているのが1歳くらいの私。

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大学4年時。父は52歳。

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最後に会った父71歳。そして兄(事情によりやらない夫にしています)。

2018年9月19日水曜日の夜中に、父が亡くなりました。9月4日に71歳の誕生日を迎えたばかりでした。

私は父方の祖父母が亡くなった2002年(25歳)まで、身内の葬式に出たことがありませんでした。*1初めて親族をなくしたのが、もう大人になってからのことだったので、いつかそう遠くない将来、自分自身も両親をこうやって送ることになるんだと思っていました。その後何度か葬儀が続いたため、兄と私は、いつかその日が来てもちゃんと俺たちならやっていけるよな、と話したりしていました。しかし、まさかそのときが、そんなに早く来ることになるとは予想だにしていませんでした。

今回は、父の闘病と、葬儀までの経緯とそこで考えたことをまとめたいと思います。

 

癌と心臓病で弱っていく

父が最初に膀胱に癌が見つかったのは、7年くらい前のことでした。20年ほど前に、いちど視床下部に腫瘍ができた(手術してその後特に問題はありませんでした)ことがあったり、あるいは祖父が癌でなくなっていたこともあり、父は初期の癌の治療に対し、積極的にとりくんでいました。

ちょうど実家近くに自治医大病院という大きな病院があったため、通院や入院もしやすかったという事情もあります。

癌が見つかってから数年、父は数回にわたって入院し、手術を受けていました。なかなか全ての病巣をとりきることはできなかったものの、父の様子は健康そのもので、とても癌患者には見えませんでした。退院すると、すぐにリフォームの仕事に戻り、これまでと同じように、一人きりで壁紙を貼ったり、トイレの改修をしたりしていたのでした。

治療を困難にさせたのは、4年ほど前に拡張性心筋症と診断されたことでした。母と登山に出かけていた父は、急に息苦しくなって、山から降りた後も動悸が収まらず、心臓の不調がわかったそうでした。

心臓の病気のために、麻酔が使えず、ガンを切除することは難しくなりました。そこで抗がん剤治療や放射線治療などでガンの拡大を抑え込もうとしていました。

いつ会っても元気だし、よく食べていた父でしたが、年月を経るごとに、少しずつ入院している期間が長くなり、弱っていきました。自営業で、引退する年齢など関係なく仕事をしていた父でしたが、実質的に隠居のような状態になっていました。

 

 

決定的だった叔父の死

父の闘病生活において、大きな転機となったのが、2015年始めに4歳年下の叔父がなくなったことでした。男二人兄弟(本当はもう一人姉がいますが、非常に重い障害のため、ほぼ社会生活はできませんでした)ということで、ずっと仲が良く、とくに叔父が会社を定年退職してからは、よく二人で旅行をしていました。

そんな叔父が63歳で、しかも癌で亡くなってしまったことは、父にとって大きなショックだったことでしょう。父と違って痩身で病弱な叔父は、そう長生きはできないかもしれないとは思っていましたが、こんなに早くいなくなってしまうとは、私も全く予想していませんでした。叔父が亡くなったとき、これで父が落ち込んでしまうだろうと心配になりました。

 

年末の沖縄旅行

私たち家族は毎年年末や夏休みに家族旅行をしていました。兄は独身、私たち夫婦は子なしなので一台の車でちょうど移動できます。いつも5人で出かけていました。両親を海外に連れて行きたいと思っていた私は、年末の旅行に中国か台湾を提案しましたが、長時間歩くことに不安があった父は、レンタカーで移動しやすい沖縄がいいと言いました。

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天気に恵まれた残波岬。父は展望台までは登れず、車の近くを散歩するだけでした。

沖縄では、那覇の市場を見たり、残波岬や美ら海水族館などを私の運転で回りました。歩く距離が長そうな場所では、一人で車の近くで待っていたり、後ろからゆっくり歩いてついてくるような状態でした。ちょうど抗がん剤の影響で、髪の毛や眉毛がなくなっていて、表情がよくわからなくなっていたのですが、体格は以前と変わっていないので、一時的な不調であってくれればいいと思っていました。

 

父の最期

今年に入って、父は徐々に弱っていきました。家にいてもじっとしている時間が長く、ほとんど一人で部屋にこもっている、と母からときどき電話で聞いていました。私もこれまで積極的に父に話しかけたりする息子ではなかったので、まあ病気が悪化しているわけではないならそれでいいかな、とあまり気に留めていませんでした。

5月に祖母が亡くなった時、父は栃木から宮城県北部の母の実家まで車で来ました。運転ができるほど元気というわけではなく、運転はしてきたものの、終始疲れたような表情で、食事もそれほど取れない様子でした。それでも私たちや久しぶりに会う親族とは、楽しそうによく話していました。

8月にドイツに行く前に、父の様子を見ておきたいと思ったので、祖母の百箇日法要に行って、両親と会ってきました。このころ、父はだいぶ食欲が無くなっていて、レストランでも半分くらいしか食べていませんでした。長時間の運転は心配だったので、仙台から母の実家までの往復は私が運転をしました。

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8月の栗原市。大阪よりもはるかに涼しくて気持ちよく過ごせました。


歩くことがだいぶ苦しいらしく、車を運転するのは問題ないけど、駐車場からお店までの移動などでもゆっくり時間をかけて歩いていました。その様子を見て、もう残された時間は長くないのだろうという考えが頭を過ってはいましたが、それでもそれがあと数ヶ月しかないとは、まだ思えませんでした。

9月の初めに、私の新居を見に、両親が大阪に来ることになっていましたが、母から、父の具合がだいぶ悪いのでキャンセルするという連絡がありました。肺に転移したガンのため、かなり呼吸が苦しく弱ってきているというのです。早く見舞いに行ったほうがいいと思い、妻と日程を調整して、9月なかばの連休に、栃木に行き、病室を訪ねました。父は寝ていると背中や腰が痛いというので、ベッドに座って、酸素マスクをつけていました。

従兄弟の一人が面会に来ると言うので、父はその前に髭を剃りたいと言いました。母は洗面器にお湯を用意し、父の手にシェービングクリームを出していましたが、不慣れなため、通常の三倍くらいの量が出てしまいました。父の手についたソフトボール大のクリームを半分くらいもらって、私もついでに病室の洗面所で髭を剃り、そして父の顎にのこった髭をそってあげました。父の髭を剃るというのは、考えてみたら初めてでしたが、おそらくもう、こうして髭を剃る機会はないだろうとその時思いました。

従兄弟や古い知り合い、そしてその子供さんたちなど、父の病室には多くの来客がありました。そのたびに父は、病状や薬のことなどを元気に話していました。ちょっと具合が悪いけど、まあまた復帰するよ、と父は話していました。私はまた近いうちに来るよ、と父の分厚い肩をぽんぽんと叩いて病室を出て行きました。それが最後の対面になりました。

 

 

葬儀まで

栃木から戻って、大阪での日常が始まりましたが、私は気持ちが落ち着きませんでした。遠からず栃木から電話がかかってくることは予想できていたからです。夜になると、母や兄から電話があるのではないかとびくびくしていました。

栃木で父と別れてから二日後の水曜日、母からの電話が夜中にかかってきました。息が止まったと静かに母は話しました。兄と電話が繋がらないというので、急いで私から兄に掛け直すと、兄は急いで両毛線の終電で自治医大病院に向かいました。*2

父の死を知らされた時は、ああついに来てしまったという感じでした。わずか二日前には普通に話せていたのに、という思いと、死ぬ二日前まで話せたのはよかったのではないかという思いとが胸にありました。

翌日は朝から大学の事務に休講の連絡(木曜日、金曜日、翌週火曜日と合計6コマを休校にしました)をして、夕方に実家に戻り、父の遺体と対面しました。遺体を見て、ああ終わったんだなとあきらめがついた思いがしました。葬儀の予定は兄が決めてくれました。お彼岸の連休と重なるため、なかなかお坊さんの手配ができず、通夜は月曜、葬儀は火曜と、少し間が空くことになりました。

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兄と遺影を選びました。これは2016年に私が撮った西伊豆での写真。結局遺影には兄が撮った白馬岳をバックにした写真が選ばれました。

お通夜までの3日間は、毎日家の片付けをしたり、買い物をしたり、夜には母とワインを飲んだりして過ごしました。兄とは葬儀場や親戚のために予約したホテルの下見などにも出かけました(私が会場から車で送迎をしなければならないので)。高校時代を過ごした栃木の街を車で走る機会はほとんどなかったので、いちいち道がわからなくなって困りました。

 

大量の遺品をどうするか

片付けが得意な母は、葬儀までに和室に積み上がっていた父の仕事道具を押入れにしまっていました。元は祖父母と同居するために作った2部屋の和室でしたが、ここ10年くらいは父のリフォーム業の事務所兼資材置き場になっており、和室と縁側(自作のウッドデッキあり)まで、事務用品だけでなく、壁紙や工具などが置いてありました。

家の外には、新築時からある物置と、父が自分で建てた工作室があります。とりあえず家の中にあるものは、工作室に移しました。

 

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ウッドデッキ、だったはずが今は資材置き場になっています。

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物置(右)と工作室です。脚立が何台も置いてあるのは、壁紙を張り替える時などに、脚立を複数立ててその上に板を乗せて足場を作るためです。

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物置の中。ジャンルごとに工具や資材が整理されているようです。

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工具や塗料類。右下に丸ノコがあります。

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工作室内部。すべて自作したそうです。入院中に買った大量の本(新刊の小説をたくさん読んでいたようです)を整理するため、本棚を作っていた途中でした。きれいにやすりがけしてニスを塗った板をまっすぐに伸ばしていました。

通夜と葬儀

通夜の前に父を棺桶に入れて、庭から霊柩車に運びました。父の棺に何を入れるか、前日に話し合いました。故人の愛用していたものや思い出の品を入れるのが一般的でしょう。祖父の時は、祖父が戦時中パイロットだったころに被っていた毛皮のついた飛行帽を入れました。(よく60年も取っておいたものだと思います)

葬儀屋さんからは、燃えるものでなくてはならないと言われていたので、私たちは悩みました。というのも、リフォーム業という仕事柄、父の愛用品といえばスケール(金尺)やレーザー墨出し機、ナイフや丸ノコなど、どう考えても燃えないものばかりだったからです*3。そうなるとやはり服だろう、ということで父がいつも来ていたシャツやセーターなどを入れました。そして、甘いものが大好きだったので、栃木市の金枡屋のかりんとうを入れることにしました。最後に入院していた父は、薬の影響で甘いものが全く食べられなくなっていましたが、それまでは餡子や豆菓子、かりんとうなどはいつも傍に置いてぼりぼり食べていました。

かりんとうの金桝屋菓子店 栃木県栃木市 創業明治9年 かりんとう・ごかぼう・しおがま・和菓子

納棺に際して、東北方面から母方の叔父叔母やいとこ、そして山梨から父の従兄弟たちが来てくれました。みんなでシーツごと遺体を持ち上げて棺に移し、そして棺を運びました。これまで何度かお葬式を経験しましたが、これほど重い遺体は初めてだと、みんな驚きました。

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妻に撮ってもらいました。棺は和室の窓から庭を通って、家の裏側に停めた霊柩車へと運びました。


通夜を終え、一人で葬儀場の控え室に、父の棺とともに泊まりました。父と二人で泊まるのは、おそらく私が大学院生で北白川のアパートにいた時が最後だったと思います。修士課程4年目を迎え、精神的に一番ピンチだった私のところに、父は一週間くらい滞在して、部屋を片付けて本棚を設置し、生活を立て直してくれました。*4そんな昔のことを思い出しながら、しかし泣いたり、話しかけたりするわけでもなく、ぼんやりと無言で過ごしました。

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葬儀での挨拶

喪主は兄が務めてくれたので、弟の私は、ずいぶん気楽でした。しかし、普段べつに人前に立つような仕事をしていない(デザイナーです)兄に、喪主を任せきりにしていることに申し訳なさを感じていました。通夜のときは兄が施主として、父の最後の様子や親族の皆さんへの感謝を述べてくれたので、親族代表挨拶では、私が、息子として父の姿を振り返って話しました。葬儀までの数日間考えていたことを、iPhoneで口述筆記し、それを書き直したものを話しました。

以下に全文を掲載します。

本日はご多用の中、故熊谷徹のために、ご会葬、ご焼香を賜りまして、誠にありがとうございました。

父はドライバーやリフォーム業など、さまざまな仕事を経験する一方で、スキーやカメラ、登山、旅行と多くの趣味を持っていました。やりたいことをやる、そしてみんなと楽しむということが人生のモットーだったと思います。

私と兄は父から、自由に生きよ、やりたいことをせよと教えられました。兄は美術、私は文学と、実社会であまり役に立たないことを大学で学びました。しかし父はこういった私たちの選択に反対することは決してありませんでした。とりわけ私は32歳まで大学院に在籍していました。ずっと学生で居続ける私に、父は早く就職をしろ、早く結婚しろなどとは一度もいいませんでした。元気でいるか、楽しく過ごしているかとそればかり気にしていたことをよく覚えています。

病院で過ごす時間が長くなった父はiPadを使うようになりました。亡くなったあと、私と兄は、父がインターネットでどんなページを見ていたのかを確認しました。リフォームについての動画を見たり、東北の湯治場を調べたり、電動車椅子のさまざまなメーカーのページを開いて比較したりしていました。これまでのように車に乗ったり、歩いたりすることはできなくとも、電動車椅子で移動したり、またどこかに旅行したりできるようになると、最後まで信じていたのでしょう。父にとっては、まだまだやりたいことや行きたいところがたくさんあったことでしょう。

いまや、父の大きな分厚い手も、よく食べる頑丈な体も、動くことはなくなりました。しかし父についての記憶は私たちの心に深く刻み込まれています。父の体がなくなっても私たちが覚えている限り、私たちが思い出す限り、父はこの世界に生き続けているんだと私は思っています。

もっともっと生きたかった父の記憶を受け継いで、私たちが、これから父のできなかったいろいろなことを経験し、人生を豊かに過ごして行くことが、私たちにできる、最大の供養なのだと思います。

今回、父が入院し、そして亡くなるまでに、多くの方にお見舞いに来ていただき、そしてこの場にたくさんの方にお別れの挨拶にお集まりいただき、大変感謝しております。皆様からいただいたお言葉が、故人、そして私たち家族にとって非常に励みになりました。改めて御礼を申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。

 

 

これからに向けて

父が亡くなっても私は特に変化のない生活を送っています。しかし、実家にいる母や兄は、さまざまな手続きに追われ、そして途方もない喪失感にとらわれていることでしょう。これから何をしたらいいのか、ということは、私もまた考えなければなりません。

私も兄も、手先が器用で工作は好きですが、家の床を張り替えたり、ベランダやキッチンを改装したりといった、本気のリフォームはできないし、おそらく今後もする機会はないでしょう。そうなると、父が残した大量の工具や機械、そして資材を処分しないといけません。そのうちのいくつかは手元にとっておいて使いたいと思うものもあるのですが、まずは何がどのくらいあるのか、全体を把握しなければならないでしょう。

また、車もSUVと軽トラの2台があります。こちらは近所の人や親戚の人に引き取ってもらえそうです。SUVはすでに10万キロくらい乗っていますが、非常に状態がいいので、まだまだ使えそうです。

こういった物質的な後片付けだけでなく、家族として母や兄とこれからどう生きていくか、どうやって彼らを支えていくかということも、もちろん考えていきたいです。これまで苦労ばかりかけてきた母は、ぜひ元気なうちにヨーロッパに連れて行ければと思っています。

 

*1:2002年4月末に祖母、その1ヶ月後に祖父がなくなりました。2003年には母方の祖父がやはり83歳くらいで亡くなりました。その後2012年に伯母(父の姉)、2015年に叔父(父の弟)と葬儀が続き、2018年に96歳で母方の祖母が亡くなりました。

*2:兄は田舎暮らしなのに車の免許を持っていないのです。そのため栃木での運転係は私が担当しました。

*3:レーザー墨出し機というのは、レーザー光線で壁に垂直・水平の線を投射する機械です。壁紙の張り替えに使います。かなり高かったらしく、メルカリで売れると父は言っていました。電動丸ノコやディスクグラインダーは、なぜか何台も家にありました。これも売ろうと思えば売れるだろうと思います

*4:このことは以前ブログ記事に書こうと思ってたのですが、まだまとめていませんでした。