ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

2格と所有冠詞と「の」

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多くの学習者がつまづきやすいポイント

ドイツ語教員として仕事をし、ドイツ語を教えながら気づいたことを書くことが目的のこのブログですが、これまでは、ドイツ語の学び方や文法の仕組みについての記事を書くことはありませんでした。

私自身は文学と思想史が専門なので、ドイツ語学についてはごくわずかな知識しかありません。留学経験もないので、現地の人はこんな言い方をする、という知識も正直全く自信がありません。それで、ブログではなるべくドイツ語文法について発言することは避けるようにしていました。

しかし、日頃ドイツ語を教えていると、私の専門がなんであれ、ドイツ語をどう理解するか、学生たちが、どのように日本語の世界(学習者が持っている知識)に置くことができるかということを考えないわけにはいきません。

今日は、多くの学生が混乱するポイントである、ドイツ語の2格と所有冠詞について、自分なりに理解していること、学生たちに説明していることを少しまとめてみようと思います。

 

ドイツ語の格とは?

日本語の場合、たとえば

私は彼に手紙を書く

という文を、「彼は私に手紙を書く」と書き換えても、「私」や「彼」といった名詞自体の形は変わりません。

しかし、英語やドイツ語の場合

I write him a letter.  He writes me a letter.(英)

Ich schreibe ihm einen Brief. Er schreibt mir einen Brief.(ドイツ語)

のように、私や彼にあたる、I, ichが「私に」のときはme, mirと語の形が変わっているのがわかります。日本語の場合、どちらの場合でも、「私」や「彼」という名詞はそのままです。文の中に、「は」や「が」のような助詞があるため、それぞれの名詞が文中でどんな役割なのかわかるようになっているわけです。

ドイツ語の場合、日本語の助詞にあたるのが、「格」の概念です。1格から4格まで4種類の格があります。日本語では、名詞の後ろに助詞をつけましたが、ドイツ語の場合は、名詞や代名詞自体が変化したり、名詞の前の冠詞が変化することで、助詞と同じような役割を果たすことができます。名詞や冠詞が、4つの格に応じて変化することを格変化といいます。

まずは1格から4格まで、文中でどのように使われるのか、事例を挙げてみます。

1格(主語になる):Das Auto ist groß.  その車は大きい。

2格(所有を表す):Das Auto des Vaters ist klein. 父の車はちいさい。

3格(間接目的語〜に):Ich kaufe der Mutter eine Blume. 私は母に、花を一輪買う。

4格(直接目的語〜を):Ich besuche den Vater. 私は父を訪問する。

以上の文で、下線部が、それぞれ1格から4格の名詞です。日本語だと、1格(は)2格(の)3格(に)4格(を)のように、ちょうど助詞とほぼ対応しています。もちろん別の言語なので、100パーセント一致するわけではないのですが、とりあえずそのようなイメージで理解しておくといい、ということです。

上の例文にもでてきている、derやdasというのは、定冠詞です。ドイツ語の名詞には、男性・中性・女性という三つの性、そして複数形があり、それぞれ別の定冠詞がくっつき、格変化します。いわゆる、であですでむでんですね。

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Tischテーブルが男性名詞、Tascheかばんが女性名詞、Buch本が中性、Kinder子供たちが複数形です。それぞれ違う定冠詞がついていることがわかります。

 

もうひとつの(〜の):所有冠詞

さきほど挙げた例文では、名詞の前に冠詞(das とかden)をつけていましたが、「私の車」や、「私のお父さん」というときには、mein Auto, mein Vaterといいます。このmeinを所有冠詞(所有代名詞とする教材もあります)といいます。要は英語のmy, your, hisなどのようなものです。

所有冠詞は、英語と同様、人称代名詞ごとに違った形になります。つまり、私のmein,君のdein、彼のsein、彼女のihr、それのsein、私たちのunser、君たちのeuer、彼らのihr、あなた・あなたたちのIhrとなっています。

そしてもちろん、これらの所有冠詞は名詞の前について、定冠詞と同じように格変化することになります。

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和文独訳のさいに、わけがわからなくなる

さて、これまでの内容を踏まえて、学生が間違えやすいポイントを指摘していきます。

たとえば、「私は私の父に、手紙を送る」という文章を書いてみます。

Ich schicke meinem Vater einen Brief. 

このときの「私の父」とは何格でしょうか。日本語からドイツ語文を書こうとするとき、多くの学生がとまどってしまいます。答えを見れば、「父に、手紙を送る」ということですから、誰か(3格)に、何か(4格)を送るという意味の動詞schickenを使って、父を3格meinem Vaterにすればいいということはわかります。しかし、「私の」なのだから、2格ではないのか?と考える学生もいます。

要は日本語文の「の」に引きずられてしまっているのです。

別の例を見てみましょう。

彼女は彼女の友人たちと、映画に行きます。

Sie geht mit ihren Freundinnen ins Kino.

これも学生たちは頭を抱えます。「友人たちと」をどうするか?「と」って何格なのか、「彼女の」だから2格でいいのか?と考え込んでしまうのです。「〜と」なら前置詞のmitで、mitのうしろは常に3格になることがわかっていれば、mit ihren Freundinnenと、彼女のihrに複数3格の語尾(en)をつければいいことがわかります。

ここまでの例は二つとも2格ではありませんでした。では、2格を使う場合も見てみましょう。

私の祖父の車は高い」

Das Auto meines Großvaters ist teuer.

私の祖父は、mein Großvaterです。その車ということですから、das Autoの後ろに2格meines Großvatersをくっつければいいと考えましょう。この文が理解できれば、次の文を作るのは簡単です。

「私の父は、私の祖父の車を私にくれる」

Mein Vater gibt mir das Auto meines Großvaters

この場合も、「私の祖父の車」と「の」がたくさん入っていてパッと見ると混乱しますが、車を父がくれるので、車=4格で、「私の祖父」を2格として、Das Autoの後ろにくっつければいいわけです。

 

の=2格だけでは混乱してしまう

ここまでいくつかの例文を挙げて確認してきましたが、多くの学生は「は=1格、の=2格、に=3格、を=4格」という図式で格の概念を理解するため、「の」が出てくると、反射的に2格だ、と考えてしまいがちなのだということがわかりました。日本語の「の」にふりまわされてしまって、ドイツ語文において、「の」がくっついている名詞自体が、文中でどのような役割になるのかという点に気がつかないことが原因なのだと考えられます。

格や所有冠詞の使い方というのは、私たち教員にとっては、ごく当たり前の知識だし、教科書を見れば変化表とともに例文が出ているので、簡単に理解できるように見えます。

しかしドイツ語を学び始めた学生たちとしては、教科書に書いてある知識を、自分が知っている日本語に、どうやって結びつけていくか、という作業を毎回必死で行わないといけないわけです。そのさいに、どうしても概念を単純化して無理やり理解するということは起こるし、日本語で理解することによる混同・混乱というのも、起こりやすくなってしまうのでしょう。

 

どうやったら理解できるようになるのか?

もちろん私が授業をしながら気づくことというのは、他の先生方もみなわかっていることだろうと思います。だから、文法書には詳しい解説が書いてあるし、難しめの教科書をひらけば、教員が何も言わなくていいくらい例文がぎっしり挙げられていたりします。授業の時にも、初めて出てきた文法事項については、しっかり理解できるようにたくさん例文を板書したりして、説明するのがいいのかもしれません。

しかし、私としては、こういうつまづきや混同をしてしまうことこそが、理解への一歩だと思っています。最近は、本務校でも非常勤先でも、授業の終わりに2、3問程度の作文の問題を出しています。学生たちは習った知識を使って、教科書・辞書をみて、仲間同士で相談してドイツ語文を書き、書けた人から授業終了としています。この作文の時間に、自分だけ理解できていない、取り残されているのでは、と不安になって質問に来る学生もいます。そんな学生たちの質問に答えながら、そのわからなさやつまづきこそが大切なんだと言い聞かせています。結局のところ、学生自身が、自分の分からなさに向き合って、じっくり考える中で理解していく他ないのだろうと思います。その過程で、ドイツ語と英語や日本語との違いや、そもそも日本語の「の」って何なのかといった疑問にぶつかり、自分がこれまで生きてきた言語の世界を見直すきっかけになれば、それこそ外国語学習の意義というべきでしょう。