ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

助手だったころを思い出す

2009年から3年間京都精華大学の嘱託助手でした

この春から、今の職場で准教授になりました。国立大学などでは、採用時から准教授というのが(私の年齢くらいだと)あたりまえですが、私の職場では、特任講師で採用後、2年すぎると専任講師、そこで業績をつんで少なくとも着任後3年以上でやっと准教授になれます。

職位が変わったところで、給料が劇的に上がるわけでも、研究室の備品が豪華になるわけでもない(教授になると椅子がきれいになるらしいです)ので、これといった変化はありませんが、まずは安心しております。

今日はもう10年くらい前、大学院を出て初めに就いた助手の仕事について、どんなことをしていたのか、当時どんなことを考えていたのかを思い出してみました。

 

嘱託助手とは?

32歳のころ、やっと大学院を研究指導認定退学(つまり3年以上在学してそれなりに研究したけどまだ学位論文は出せてなくて退学ということ)し、2009年4月から京都精華大学共通教育センターの嘱託助手になりました。

嘱託助手というのは、1年更新で最大3年間任期付の助手でした。助手というのは、大学の職位で一番下、一人では授業を担当することはなく、もっぱら教員のサポートをする仕事です。(助教より上の職位は、自分で授業ができます)

京都精華大学の共通教育センターでの仕事は、おもに1年生向けのゼミ「初年次演習」の授業を運営することと、学生たちの学習支援をすることでした。私はすでに2008年から京都精華大学人文学部で「基礎演習」の授業のティーチングアシスタントとしてアルバイトをしていました。2008年度まで各学科に分かれて行なっていた基礎演習を、人文学部全体の授業とするという方針の転換で、これまでTAに任せていた業務をもう少し拡張し、フルタイムの助手に担当させることになったのでした。

1クラス15〜18名程度の初年次演習を、一学年300人超の学部で実施するので、クラスは18クラスに分かれ、それらを担当する助手も6名が同時に採用されました。

私たち6名の助手は、学習支援室というデスクとソファが置いてある広い部屋の一部にオフィスを構え、日々学生たちの相手をしながら、あいまに自分の研究をしていました。助手たちの専門分野は、私の他は、音楽学、演劇学、日本美術史、環境学、農業経済学とばらばらでした。

 

それはバイトなのか、就職なのか?

助手の仕事は、自分で授業をやらないし、毎日朝から晩まで勤めていないといけないわけではなかったので、わりと気楽でした。しかし、待遇としては、月給20万円とボーナス夏冬計3ヶ月分がもらえたので、学振DCよりも収入はよかったです。

しかも一年ごとに昇給があり、任期が切れて退職した後には退職金ももらえました。下積みポストの話はいろいろ聞きますが、他と比べて精華大学の待遇はそこそこよかったのだと思います。

私にとっては、一つのところからもらう給与でちゃんと食べていけるようになったというのが本当に夢のようで、当時はうれしくて行く先々で「ついに就職しました!」と得意になって言っていましたが、ある先輩からそれって年限付きの仕事であって、就職じゃないだろ、と言われて正気に返りました。

何が就職かどうかはともかく、たしかに年限付きだし、教員ではなくあくまで助手なので、年限がなくても長く続ける仕事ではありませんでした。だから3年の年限が切れる時も、仕方ないなとしか思いませんでしたし、早く次の仕事につけばいいやと切り替えることができました。

 

助手のおしごと

具体的な仕事として、初年次演習に関する業務というのが第一に挙げられます。

1クラス15名程度のゼミで、どんな活動をするのか、担当する教員と助手全体で話し合って決めました。毎学期、4週から5週程度のプログラムを3つほど組み合わせて、共通の教科書を使用し、ゼミの内容を全クラスである程度そろえて授業をしていました。

こういうプログラムを実施することでこのような能力が身につく、こういう訓練になる、ということを会議のたびにみな真剣に話し合っていました。その雰囲気が非常に良くて、着任した当初は、良い職場に入れたと思ったものでした。

初年次演習のプログラム作りで難しかったのは、人文学部とはいえ、いろいろな分野が含まれているため、各教員が思い描く、一年目に身に付けたいスタディスキル像が大きく異なっていた点です。私のように、文学部文学科の出身であれば、本を探す、読む、レジュメを作り発表する、レポートを書くなどのプログラムを中心に考えます。しかし、社会学、人類学、環境学などフィールド調査を含む分野だと、グループ発表や聞き取り調査も取り入れるべきだという意見も出てきます。非常に難しいことですが、どの分野にも対応できるようなプログラムを工夫して考えていました。

2年目の夏休み明けには、京都の水について歴史や環境の面から知るというフィールドワークのプログラムをつくりました。下調べのために、暑い中ロードバイクを飛ばして、伏見や上賀茂に出かけて写真を撮ったりしたことを覚えています。

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水の名所を巡りました。

学生のケアに奔走する

教員としての仕事全体を見ると、当時も今も多かれ少なかれ似たようなことをしていると思うのですが、学生のケアに関しては、今の職場の比ではないくらいたいへん手厚く、教職員が一体となって対応していました。

もともと京都精華大学は、不登校や引きこもりだった学生を多く受け入れてきたため、大学に入ってからも不適応で苦しむ学生が毎年多くいました。本人との面談、教員を交えての面談、親御さんに来ていただいての面談など、毎週のようにいろいろな学生の抱える問題について、話し合う機会がありました。

今の職場は、精華大学の数倍の規模なので、一人ひとりの学生を教員が見ることはほぼ不可能です。学生のトラブルにわずらわされないことはたしかに気楽ではあるけれど、できたらそれぞれの学生がどういう思いで日々大学に来ているのかということは理解しておきたいものだと思っています。そういう意味で、基礎ゼミや(不人気なので少人数になってしまった)ドイツ語のクラスは貴重です。

 

アクティブラーニングで私が学んだこと

精華大学に勤め始めた頃は、アクティブ・ラーニングが流行し始めた時期だったので、学外のFDセミナーなどにしばしば足を運んで話を聞いたりしました。初年次演習でも多くの場合グループワークを行い、なるべく学生が協同で学習できるような授業をデザインしていました。

しかし本来人文科学系のクラシックな学問の世界は、アクティブ・ラーニングとはなじまない部分があります。本を読むのは一人だし、私たちはたいていの場合一人で論文を書きます。

だから、助手たちの間でも、私もふくめて文学部出身の者は、何でもかんでもグループで学べば、学習効果が上がるという考え方には懐疑的でした。授業を見ていても、学生たちがいきいきしていると実感する反面、本来は一人で学ぶべきなのに、と思う部分もありました。

また、学生たちも誰もがグループワークが得意で、ALが好きというわけではありませんでした。毎週の演習では、グループワークがうまくいくように、あれこれ心を砕いていたし、クラスでうまくやっていけなくて出て行く男の子や泣き出す女の子の相手をすることもありました。

しかし私自身が共通教育センターでいろいろな教職員と一緒に働いているうちに、共同作業の困難さを学ぶことがアクティブラーニングの意義なのかな、と思うようになりました。

共通教育センターの仕事では、これまで自分が信じていた、他人はこう考えるはず、という根拠のない他者理解というものをあらためないといけない場面が多々ありました。周りで働いてる人たちに何か問題があるわけでも、組織がダメなわけでもなく、それぞれ別の人間は別の信念で動いているんだというごく当たり前のことを、これまで理解する機会がなかったんだと思い知りました。

  

不完全燃焼だったけど、恵まれた職場だった

初めに書いたように、この職場は3年間という期限付きだったし、助教ではなく助手だったため、自由に仕事ができた反面、やりたいことや思いついたことができなかったことも多々ありました。

1年目から2年目あたりは、私も同僚たちもやる気に満ちていたし、仕事も手探りだったので、毎日新鮮な気持ちで取り組んでいました。2年目の途中あたりから、助手の立場では、できる仕事に限界があるなあ、と感じることが増えました。3年目には、もはや年限が切れたら出て行くのだから、と少し投げやりな気持ちにすらなっていました。

任期が切れる3年目終わりまでに、次の進路を確保できればと期待していましたが、博士論文はまだ提出できてなかったし、公募ではまったく引っかかりませんでした。結局母校の非常勤講師の仕事がもらえただけだったので、任期が切れてからは、2年間ドイツ語だけを教える専業非常勤講師になりました。

助手を退職してから、もはや学習支援や初年次教育に関わることはないだろうと思っていましたが、専任教員になってふたたび基礎ゼミを担当するようになり、当時学んだことが、いまは非常に役立っています。

たとえば学期の初めに、三枚の紙をつかったプレゼンテーションを毎年やります。A4の用紙一枚ごとに、自分を紹介するキーワードやイラストを描き、紙芝居のように見せながら自己紹介をします。これを基礎ゼミ最初の回で実施するとちょうどいいアイスブレイクになります。この方法は当時一緒に授業をしていたY先生から教わったものです。イラストで例を挙げるとこんなかんじです。

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3枚の紙をつかった自己紹介

(実際はもう少し長く話します)

その他、思い出に残っているできごと

オフィスが床上浸水

2010年の7月なかばに大雨が降ったことがありました。京都精華大学は山の中の谷に校舎が点在しています。私がいる清風館の共通教育センターはいちばん下に位置していました。夜の間に降った雨は、下へ下へと流れて、清風館の地下1階にある私たちのオフィスは床上浸水してしまいました。そのため床に置いてあった資料やコピー用紙、学生が提出した課題などが水浸しになってしまい、復旧までかなり時間がかかりました。

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床を剥がし、床下に溜まった水を業者さんに抜いてもらいました。

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 さらなる浸水被害を警戒して土嚢を積んでいました。

学生たちとの写真展

2年目の秋には、写真仲間の学生と展覧会を開きました。当時ペンタックスの一眼レフを買ったばかりで、出かけるたびに写真を撮っていました。写真好きの学生と知り合い、お互いの撮った写真について意見を言い合っているうちに、自分の撮り方の癖が見えて来ました。

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2009年冬に、当時まだ元気だった実家猫を撮りました。

考えてみれば、カメラやiMacを買ったのも、この大学に通うようになって周りの学生たちを見て自分も使ってみようかなと思ったのがきっかけでした。

 

ロードバイクでの片道12kmの通勤

着任当初はクロスバイク浄土寺から岩倉まで6kmの道を通っていました。2010年にはロードバイクに買い替えました。2011年に結婚して太秦に転居したため、今度は片道12kmをロードバイクで通いました。距離としてはロードならそれほどたいへんではないのですが、龍安寺鷹ヶ峰京都産業大前と、急な坂を何度も登らないといけないので、毎日汗だくで自転車に乗っていました。

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ときどき違う道を通ったり、帰りに峠道を走ってみたりと、自転車通勤を楽しんでいました。しかし夏の暑さや、冬でも汗だくになっていたことを思い出すと、もうああいう通勤はこりごりだなと思います。