ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

非常勤講師の思い出

熊谷、神戸大やめるってよ

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2015年度からお世話になっていた神戸大学の仕事を今年度いっぱいで辞めることにしました。3年間、医学部保健学科、工学部、農学部、海事科学部などで共通教育ドイツ語の1年生クラスを担当してきました。しかし、昨年度からクオーター制が導入され、前期後期とも学期の真ん中にテストや成績登録をしなければならなくなりました。

わずか二週間でテストの採点と成績登録をしつつ、通常の授業も続けないといけません。これがたいへん負担が大きく、また本務校の仕事も今年度はかなりいそがしくなっていました。

せっかく専任教員になって、科研費ももらっているのに、授業がない期間しかまともに研究活動ができないというのはまずいということで、本務校の授業曜日が変更になるのにともない、非常勤を続けることは諦めました。

2018年度は久しぶりに本務校の仕事(前後期7コマ)だけに専念することになります。

一コマ単位で授業を引き受ける、非常勤講師という仕事は、大学に勤める以前、大学院博士課程在学中から続けてきました。どの学校でも毎年いい学生に恵まれ、楽しい授業ができていたのですが、数年経つと、どこでどのくらいの年に、どんな授業をしていたのか思い出せなくなってしまうので、ここで簡単に振り返っておきたいと思います。

私がはじめて非常勤講師として教え始めたのは、2005年からでした。(経歴のページに今まで勤務した学校や担当授業はまとめてあります)当時はまだ大学の仕事ではなく、看護専門学校で教えていました。あれからもう12年もたってしまいましたが、今回は、初めて教壇に立った頃から現在までの非常勤講師としての仕事をふりかえります。

 

1)大学の仕事につけなかったころ

2005年〜2008年度 南大阪看護専門学校情報科学、看護と倫理、患者の心理)

2006年〜2012年度 堺看護専門学校(看護と倫理)

2007年前期 大谷高等学校(大学の学びを紹介する:文学担当)

2008年度 京都精華大学人文学部TA(初年次演習)

2004年に、まわりから3年ほど遅れて(学部入学時に1浪、修士課程で2留)博士課程に進学しました。当時はこれまでの遅れを取り戻そうと、早く博士論文を書き上げたかったし、早く非常勤講師になりたいとも思っていました。

周りの同期生がドイツやオーストリアに留学したり、あるいはすでに大学でドイツ語を教え始めるころに、私はようやく「先生」と呼ばれる仕事を任せてもらえるようになりました。しかし、はじめは大学の先生ではなく、専門学校の、しかもまったく専門分野とは関係ない科目の非常勤講師として勤めることになりました。

はじめに指導教員の紹介で得た、南大阪看護専門学校では、情報科学と看護と倫理および患者の心理という科目を教えました。情報科学は、前半はメディアリテラシーや情報倫理についての講義、後半はWord・Excelパワポの基本操作をする実習でした。元気のいい学生ばかりで、毎週とても楽しく仕事ができました。

この学校では、はじめの2年ほどは、准看護師の課程でも授業を担当していました。午前中に准看で2コマ講義をして、午後は正看護師課程で情報の授業と、1日で4コマも授業をこなしていました。毎週一回の勤務でしたが、準備が非常に大変でしたし、京都から大阪市南部までの通勤にも苦労しました。

とはいえ、この学校には非常に大事にしてもらえました。休み時間にはお茶とお菓子をいただけたし、戴帽式、卒業式などの行事に参加すると豪華なお土産をもらえました。

2006年からは、堺看護学校でも看護と倫理の授業を担当し、こちらでは非常に熱心な学生に恵まれたこともあり、現在につながるような講義方法(資料を提示してグループで討論するなどアクティブラーニング的な手法も試みました)を身に付けることができました。この学校での仕事は、2013年度にドイツ語の仕事だけで食べていけるようになるまで6年続けました。

また、2007年前期には、単発ですが、私立大谷高校に出前講義のような形で毎週出かけて、2年生の各クラスで大学で学ぶ文学について紹介する講義をしました。京大大学院人間・環境学研究科の先生が依頼を受け、文系・理系の各分野から10名程度が派遣されて、毎週1時間ずつ3ヶ月程度、高校に通いました。文学についての授業ということで、何をするか非常に悩みました。結局ドイツ文学は関係なく、日本の近代文学に描かれたさまざまな人生を紹介し、文学を学ぶことで、人生を生きる力がつくかもしれないよ、という話をしました。

2008年からは、知り合いの紹介で、京都精華大学人文学部で基礎演習という1年生向けゼミ科目のアシスタントを担当しました。人文学部文化表現学科の各クラス(10クラスくらいあった)の演習に、TAが二人配置され、授業の運営だけでなく、学習相談にも乗る、という仕事でした。いろんな専門をもった院生やODが一緒に働いていたので、非常に仲良くなり、何度か飲みに行ったのは楽しい思い出でした。 

2)助手のかたわら母校で教え始める 2010年〜2011年度

2010年〜2013年 京都大学共通教育ドイツ語、総合人間学部

2008年度に担当していた京都精華大のTAの仕事がなくなるかわりに、同じようなゼミの運営と学習支援をする特任助手のポストが作られたので、応募したところ運良く採用されました。おかげで2009年から3年間は一箇所からの給料だけで生活できるようになりました。

しばらくは助手の仕事だけをしていましたが、ちょうど空きができたということで、2010年からやっと母校でドイツ語の非常勤講師をする機会が得られました。ふだんの助手の仕事は人文学部での授業でしたが、ドイツ語とは全く関係ないので、非常勤のドイツ語が唯一本業に戻れる時間でした。始めの年は、農学部と工学部を1クラスずつ教えました。最初のうちは、どうやって授業時間を埋めたらいいのかわからなくて、ひたすら例文を板書して解説したり、学生に黒板に作文を書かせたりと、ずいぶん無駄の多い教え方でした。また、文法事項についても念入りに準備していたのにちゃんと理解できていなかったりして、学生から教えられることも多々ありました。

同じ年の後期には、総合人間学部のリレー講義も担当しました。こちらは、ごく少人数の科目だったこともあり、毎年『シュレーバー回想録』や、フロイトベンヤミンなど自分の好きな分野の話をしました。

2011年京大2年目の年は、農学部のクラスを2コマ担当しました。5時限目のクラスは、現在もおつきあいのあるF先生とペアのクラスということで、毎回非常に緊張しながら教えていました。この時期は、とにかく教科書の内容を説明するということしか考えていなくて、教授法を工夫するということはほとんど考えていませんでした。

 

3)専業非常勤講師時代 2012年〜2013年度

2011年度いっぱいで、京都精華大学の助手は年限が切れてしまったので、12年度からはドイツ語の非常勤講師で生計を立てていくことになりました。最初のうちは、精華大学からもらった退職金があったので、あまり心配していませんでしたが、やはり非常勤だけで夫婦二人が生活していくには厳しく、結局年度の途中でほとんど貯金がなくなりました。(助手の給料がもらえるうちに、ということで2011年に結婚していました)

仕事の方は、滋賀県立大学で2コマと近畿大学で2コマの仕事をあらたに始めました。さらに京大で3コマ、土曜日には看護学校1コマで、合計で週に8コマの授業をしていました。京大では理学部、薬学部、経済学部で3コマ連続の授業をしていました。考えてみると、このときの経済学部が初めて当たった、文系学部でした。非常に元気のいい学生たちばかりでした。

初めて通う滋賀県立大学は、自宅から約2時間かかりましたが、学生たちは素朴で優秀だし、大学は自然豊かな(栃木の実家近くのような田舎町)場所にあったので、大変気に入っていて、毎回授業が楽しみでした。(しかし寒い時期は通勤がたいへんでした)

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東大阪近畿大学も教えるようになって初めて行きました。やや交通の便が悪いのが気になりましたが、午後からの授業だったので、お昼ご飯を大学近くの学生向けのお店で食べるのが毎週楽しみでした。

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このオムライス専門店がかなり気に入っていて、何度も食べました。

 

2013年からは、知り合いの先生がサバティカルに出るということで、龍谷大学で5コマの授業を担当させてもらえることになり、 一気に忙しくなりました。この年から看護学校を辞め(とはいえ、生命倫理を専門とする妻に譲っただけですが)、ドイツ語の仕事だけに専念することができるようになりました。

龍谷大学では、経営学部、法学部、文学部の1年生クラスと経済学部、文学部の2年生クラスを担当しました。この年、これまで教える機会がなかった文学部生を教えました。日本文学、英文学、哲学などを専攻する学生たちでしたが、勉強熱心で驚きました。

京大では、2年生以上の購読クラスを担当できたので、カフカフロイトを読みました。この授業は、院生時代にちゃんと読めなかったフロイトをもう一度読み返すという貴重な経験ができました。受講している文学部や経済学部の学生たちは、2年目なのにかなり難し目の文章も読みこなせるので、あらためて京大生の優秀さを実感しました。

この年の後期には、O阪大学のセミナーで教えてもらった、スマホアプリを使った教授法を、京大・龍谷大・滋賀県立大のクラスで実際に導入し、グループワークを実施してみました。

schlossbaerental.hatenablog.com

このときの授業の内容は、以前書いたこちらの記事にまとめています。

初回ということでうまくいかないことや学生たちの負担もかなり大きかったと思いますが、教員としてはこれからにつながる工夫を学べました。

しかし、2013年は週に12コマの授業を担当しており、体力的にかなりきつくなっていました。授業をすることはできても、学生が理解しているかどうか細かなところまでケアしたり、家庭学習を促すような課題を作ったりというところまで考える余裕は全くありませんでした。

4)専任教員としての非常勤しごと 2015年〜2017年度

2014年に今の職場に勤め始めて、最初の一年は非常勤講師を全てやめて、本務校の授業だけに専念しました。その年の秋ごろに、神戸大に勤める知人から頼まれて、2015年から1年生のドイツ語を2コマ担当させてもらうことになりました。

神戸大は自宅から車ですぐなので、午前中の授業だけ引き受けても、午後の時間は研究に充てられると思ったので快諾しました。近所だけどやはりこれまで来る機会がなかった神戸大。はじめての授業の日はうれしくて写真をたくさん撮りました。

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教室があった、国際文化学部の校舎は、眺めが良くて海が見えます。

神戸大では、2015年のクラスで、やる夫・やらない夫のイラストを使った創作ドイツ語小話をグループワークとして行いました。スマホタブレットを使うわけではない、アナログなワークでしたが、学生たちは非常に楽しそうに取り組んでいました。

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また、昨年2016年のクラスでは、PC室でスライドを作り、ひとりひとりにパワーポイントを使ったプレゼンテーションをさせるというワークも行いました。神戸大の学生たちは非常に明るく、勉強熱心だったので、本務校で今後取り入れたい、と思うような実験的な授業内容でも、ちゃんとついてきてくれました。神戸でためして、本務校の授業でもう少し改良する、という形で、教授法もいくつか考えつきました。

専任教員になってからの非常勤は、これまでより気楽な気持ちで取り組めるうえ、別の大学で自分の教え方を見つめなおしたり、あるいは新たな教え方を模索することもできる、貴重な場でした。また、教科書も教員が自由に選べるのも非常にありがたかったです(本務校のようなマンモス私大の場合、教科書は各学部ごとに決まっていたりします)。まだ続けたいという気持ちもあるので、非常に残念です。

 

まとめ いい大学、いい学生ばかりだった

長くなりましたが、今日は10年以上にわたる、非常勤講師生活を振り返ってきました。非常勤は準備や通勤が大変な割に給料はたいしてもらえないので、金銭面では苦しいことも多々ありました。しかし、仕事内容については、どの大学に行ってもいい学生に恵まれ、また職員さんにも大事にしていただき、これといって嫌な思いをすることはありませんでした。それまでに経験したアルバイトなどは、年に何度ももうやめたい、と思うことがあったのですが、講師の仕事だけは、今に至るまで嫌だな、辞めたいなと思ったことはありません。運が良かったのもありますが、やはり自分に向いた仕事なのだろうと思っています。

これからは?

非常勤講師の仕事は、私たち語学教員の場合はとくに、本務校を持たない先生や、若手のODの仕事という面があります。しかし、本務校がある教員にとっても、非常勤に行くことは大変意義があります。もちろん専業非常勤講師の先生方の仕事を奪うことは許されないので、非常勤で荒稼ぎなんてしてはいけませんが、大学教育の質を向上させるためにも、こういった大学間での教員の交流はあったほうがいいと私は思っています。

とはいえ、本務校も、非常勤も、と依頼された仕事を片っ端からひきうけすぎると、だんだん授業の内容は貧弱になっていきます。たとえ語学であれ、やはり余裕がないと授業の質は確実に落ちます。今回は私自身も、自分の授業への集中力が落ちていることを実感しました。

今後はしばらく本務校の仕事に専念することになりますが、また機会があればどこかで教えたいと思っています。

これまで教えてきた大学の先生方、そして神戸大学の先生方、学生の皆さん、大変お世話になりました。