ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

習い事としての絵画教室

習い事ってたいへんだ

子供さんがいるお家の話を聞くと、水泳、バレエ、ピアノなどあれこれ習い事をさせたり、中学受験のための塾に通わせたりと、いろいろ手をかけていることがわかります。やはり、親自身が高学歴だと、子供にも同じように、小さいうちからしっかり教養を身につけさせ、いい学校に進んでもらいたいと思うのでしょう。

 

小学校のころ、1年生から6年生まで、絵画教室に通っていました

習い事として絵画を学ぶという子供さんのことはあまり聞く機会がないし、まわりでも絵画教室に通っていたという人と会うことはないので、おそらく珍しいのかもしれません。あの小学生の日々から30年が過ぎてしまいましたが、いまでもあの教室で学んだ時間を懐かしく思い出します。当時何を考えて、毎週土曜日兄と教室に通っていたのか、ちょっと思い出してみました。

 

普通の習い事ができないこどもたち

次男である私も小学生になったことから、母は1年生の私と3年生の兄に、同時に何か習い事をさせようと思ったようでした。すでにヤマハ音楽教室のピアノコースに通っていた(私は小1途中ですぐ挫折、兄はなぜか5年生まで続けていました)ので、他の習い事として、そろばん、水泳、習字などが候補に挙がっていました。

ピアノ教室のすぐ近くにあった習字教室は、お寺の本堂で行われていました。ときどきお寺から飛び出してくる子供たちを見ていましたが、何だか退屈そうだなと思ったので、習字は却下となりました。

また、そろばん教室は自宅から近い児童公園の隣にありました。公園で夕方まで遊んで、家に戻ろうとすると、そろばん教室からはいつも先生の怒声が聞こえてきました。おそらく通っているのが悪ガキばかりだったからなのでしょうが、私にはそろばん塾は怖いところだとしか思えず、これも却下となりました。

隣町まで母の車で連れられてスイミングスクールも見学しました。このときは大きな声で指示を飛ばすインストラクターさんを見て、たぶん兄が怖がって、つられて私もやめとこうという気分になったので、これも却下となりました。

そのような普通の習い事ではなく、家では毎日絵を描いてすごしていた私たち兄弟に向いていそうだったのが、絵画教室でした。

 

美術家ご夫婦が教える教室

小学校から自宅までのちょうど中間あたり、大平町の旧市街地に、F先生の絵画教室がありました。街道に面した古い日本家屋の2階が、絵画教室のアトリエでした。南側の広い部屋が小学生の教室、北側は中学生以上のクラスと分かれていました。教室内には、おなじみのアグリッパやブルータスの石膏像や、静物画につかうボトルや石柱、オウムガイの貝殻やくだもののレプリカなどが置いてありました。この教室の小学生コースに、小学1年から6年生ごろまで毎週土曜に通っていました。

 

石膏像 K?162 アグリッパ胸像(丸) H.58cm

石膏像 K?162 アグリッパ胸像(丸) H.58cm

 

 

教室を主宰するF先生ご夫妻は、ご主人のT先生が高校の教員、奥様のY先生は高校で講師を務めながら教室での指導をしていました。お二人とも、教員をしながら創作活動をされていました。

小学1年生の夏頃に初めて教室に来た私と兄は、さっそく絵を描き始めました。はじめに与えられた課題は、たしか絵の具を使って指で描くということでした。鉛筆やクレヨンではなく、指や手のひらで絵の具を塗るなんて、と躊躇している私に、「自由に描いていいんだよ」とY先生が促してくださいました。両手をつかって、べったべったと絵の具を塗りたくるのは、新鮮で気持ちが良かったのをよく覚えています。自由に、学校で教えるような方法に縛られないで、というのはこの教室の基本方針だったと思います。

 

子供の楽しみは、漫画を読むことだった

水彩画だけでなく、木版画や紙版画、アクリル板をつかったエッチングや、切り絵や貼り絵など、教室では本当にいろいろな技法を学びました。小学校の授業よりもはるかに高度な内容を学べたので、学校の図工の授業はたいくつで仕方ありませんでした。

小学校の同級生からは、絵画教室に行くなんて変わっている、と言われることもありました。たしかに男の子らしい習い事ではなかったので、ちょっと気恥ずかしいと思うこともありました。しかし、なんだかんだいいながらも、6年生まで通い続けました。

教室では、絵を描く時間だけでなく、兄や他の子供たちと遊ぶ時間も楽しかったです。むしろいつも遊んでばかりで先生には怒られていました。絵を描くことに飽きると、兄と喋ったり、置いてある手塚治虫の漫画を読んだりして過ごしました。朝日ソノラマ版の火の鳥を、何度も繰り返し読みました。

美術系に進んだ多くの卒業生たち

当時教室で学んでいた児童の多くが大学の美術系学部に進んだり、専門学校に行ったりしたようです。例外は私くらいでしょう。一緒に通っていた兄は、高校時代にふたたびF先生に入門してデッサンを習い、東北地方に新設された美術大学に入りました。大学ではデザインを学んでいました。兄と同学年のKさんは、私と同じ高校から美大に進み、その後漫画家となり、現在もアフタヌーン等で連載をもっております。

 

もっけ(1) (アフタヌーンコミックス)

もっけ(1) (アフタヌーンコミックス)

 

Kさんの描く漫画には、栃木の風景がよく出てきます。彼の画風が、小学生のころとそう変わっていないことにも驚かされます。

 

あの場所で何を学んでいたのだろうか

絵を上手に描けるということは、私たち兄弟にとって、少なくとも子供時代には、自分たちの存在を支えるような大きな自信をもたらしていました。運動があまりできなくて、気が弱い兄弟にとっては、絵を描くという特技だけが、学校社会で認められるチャンスだったのかもしれません。

しかし、大人になった今となっては、絵が描ける、子供の頃に絵画絵を学んでいたというのは、正直なところとくに日常生活に役立ちません。やはり水泳や習字、そろばんといった習い事の方がはるかに実用的だろうと思います。

 

詩人と空想、子供と絵画

絵を描くというスキルは大人になって役に立つ場面があまりなくなります。それどころか、大人になってからはめったに、仕事上の必要(授業で説明するときなど)があるときくらいしか絵を描くことがなくなりました。逆に考えると、子供時代は(そして少なくとも大学生ごろまでは)、日常的に何かしら絵や落書きを描いていました。 

子供にとって、絵を描くことというのはどういう意味があったのでしょうか。このことについては、フロイトの論文「詩人と空想」が参考になります。

 

フロイト全集〈9〉1906‐1909年―グラディーヴァ論・精神分析について

フロイト全集〈9〉1906‐1909年―グラディーヴァ論・精神分析について

 

この論文はごく短い講演をもとに、人間の夢や空想と芸術的創作の関係という、フロイト精神分析理論の根幹をなすテーマを解説しています。フロイトによれば、子供は夢と現実の境目があいまいで、単純な願望の夢を見て、日中も自らの願望を反映した空想の世界で遊びます。様々なごっこ遊びや歌や絵画は、すべて子供が想像の世界に遊ぶための手段です。

しかし、大人になると人は空想することを恥じるようになり、子供のように昼も夜も空想に遊ぶことをやめます。そして大人の中でも特別な能力、すなわち空想をうまいぐあいに覆い隠す能力を持った人物が詩人となるというのです。

そのように考えると、たしかに私自身も大学生ごろには、ノートに落書きをすることはなくなったし、昨今では一人で車に乗っていても歌を歌うことはなくなりました。絵や音楽を介して想像の世界で遊ぶことはもうなくなってしまったのかもしれません。

 

空想に没入することを、絵画教室で学んでいたのかもしれない

ただ、いまはもう絵を描くことはなくなったとはいえ、やはり私はあの教室で、自分の生き方の基本となるようなことを学んできたと実感しています。はじめて教室で絵を描いたとき、手を絵の具まみれにして描いたような、自由な気持ちとか、あるいは絵を描くことを通じて空想に没入することもそうでしょう。私は美術ではなく文学をその後学んできましたが、小説の世界にどっぷりつかって読むという行為は、子供の頃の絵を描くという行為とつながっていると思えます。

 

 

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Apple Pencilを入手したので、久しぶりにイラストを描いてみましたが、なんていうかかなりショッキングな出来です。肩を壊したピッチャーが、手術後にもうこれまでのような豪速球がなげられなくてがっくりうなだれるような、そんな気分になりました。