ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

どうやって博士論文の完成までたどりつくか?

学会に行ってきました

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先日、日本独文学会京都支部の研究発表会に出席してきました。

京都支部は、院生・専業非常勤時代に大変お世話になってきた会です。現在は阪神地区の大学に務めています(私たちの分野では、関西に京都支部阪神支部の二つがあります)が、気持ちとしては、京都支部を優先しています。

かつて通っていた大学院の先生方や後輩たちと話しながら、いくつか考えることがありました。

博士論文までたどり着けないことが多い

以前、どのようにしてアカデミック業界で生き抜いていくかという問題について書きました。

schlossbaerental.hatenablog.com

しかし、同じ研究科出身の後輩たちをみていると、博士になってからどうやって生き抜くかという以前に、どうやって修士論文のあとに、博士論文を書き上げ、博士号取得までたどり着くか、ということのほうが問題なんじゃないかと思いました。

修士論文はわりとだれでも書けるし、たいていの人は何年か余計にかかったとしても(私も4年かかってます)修士号はとれるようになっています。しかし、修士課程を終えても、博士課程に進めず、研究の継続を諦める人も多くいます。大学によっては試験による選抜があるそうです。私がいた京大人環の場合は、修士論文の評価が低いと、修士号は授与しても、博士への進学は認められない、ということがときどきありました。

また、運良く博士課程に進学しても、3年ないし6年の間になんらかの研究成果をあげ、単位取得退学後3年程度で、課程博士論文を完成させるためには、少なくとも2年に一本程度の論文投稿(あるいは学会発表)を行っていないといけません。

こういったいくつかのハードルが、ゆるやかな選抜として機能しているために、修士課程に進んだ同期生でも、博士号取得までたどり着けるのは、およそ半分以下となるわけです。

センスがない者や学力が伸びない者は、この場を自主的に去る他ない、という大学側からのメッセージなのかもしれません。

しかし、専任ポストが得られるかどうかは別として、研究をつづけるあるいは非常勤講師としてこの業界にとどまるのであれば、なんとか学位はとっておきたいものです。

以下、私の専門であるドイツ文学にかんして、どのように修士論文から博士論文完成までやっていけるかを考えてみました。

 

テーマ探しが何より重要

まずは研究テーマについてですが、よく考えるとこの段階で迷う人はあまりいないだろうと思います。しかし、自分の研究テーマに自信が持てないという人は少なくないでしょう。私自身いまでもそう思うことはあります。修士課程や博士課程に入り直すなら、もっと違うテーマを選ぶのに、と考えることもしばしばです。

研究テーマが一応決まっている人の場合でも、本当にそのテーマでいいのかと自問することは必要でしょう。

マイナーな分野をずっと調べてきた私としては、やはり研究しがいのある、人気作家や時代を扱うのはオススメであると思います。

しかしその中で、漠然と研究をしていたら、先行研究に目を通すだけで、博士課程3年は終わってしまうでしょう。できるかぎりミニマムなテーマを見つけて、そのなかで先行研究を読み、自分の論文を進めていくことが大切です。

カフカゲーテの研究、これはあまりに巨大すぎるので、そのなかにある小さなテーマを見つけましょう。

例をあげれば、ゲーテの『ヴェルター』における市民社会カフカ『城』における身振りの意味、フロイト『夢解釈』の成立と、先行する夢研究、トーマス・マントーニオ・クレーガー』における芸術の意味などなど。

こういったテーマであれば、修士論文や博士論文にしやすいでしょう。(先行研究が山ほどあるので、オリジナリティを出すのは難しいでしょうが)

修士論文の続きを書く

小さなテーマとしては、卒業論文修士論文ですでに書いているかもしれません。それならば、同じように、一つの作品や一つの視点から作家作品について分析するなど、小さなテーマを立てて、論文を続けて書いていくのがいいでしょう。

おそらくこの方法が多くの人にとって、博士課程に進んでから研究を続けていく上で確実なのではないかと思います。

 

他人の論文を読む

私が大学院生の頃には、文学部の独文研究室に遊びに行くと、テーブルの上に各大学の研究紀要が山積みにされていました。大きな学会から、マイナーな学会や地方大学の紀要まで、さまざまな論文集をパラパラめくっては、面白そうな論文をみつけて、いつもコピーして読んでいました。

多くの論文は、私の研究テーマにはまったく関係なくて、おそらくほとんど知識として役に立つことはなかったのですが、研究論文とはどう書くのか、どんなテーマが研究になるのかといったことをおおざっぱに思い描くことはできるようになったと思います。

いまでは、多くの紀要や院生論集が電子化されたり、大学図書館などが受け入れ拒否をしていたりして、昔のように研究室にたくさん届くことはないかもしれません。

幸いciniiなどでさまざまなジャーナルを閲覧することができるので、キーワード検索などでひっかかった論文を集め、少しずつ読んでみるというのもいいと思います。

 

毎日何か書く、日記のように書く

これはけっこう簡単なようで難しいことかもしれません。

しかし漠然と文献を読んだり、あれこれ考えるだけでは、さて論文を書くという段になって、何から手をつけたらいいのかわからなくなります。

カードや手帳、付箋などさまざまな方法がありますが、インプットしたこと、文献から得たこと、文献探しの方針といったことでもいいので、毎日何かしらやったことを書いておくのは大変有効です。

できれば、Wordやpagesをつかって、ファイルの形にしておくと、あとで編集して論文に取り込むことが容易です。

この方法については、かつて修士論文がなかなか書き始められなくて苦労していたころに実践しました。

schlossbaerental.hatenablog.com

こういうことは、今後博士号取得後や教員になってからも当然必要です。

博士論文という大きな目標がなくなり、毎日仕事に追われるようになると、文献を読んだりまとめたりといった活動もいいかげんになるし、何より一つの問題について、じっくり考えることが少なくなります。

なるべく毎日ノートやメモ帳に、思いついたことや気になったことを書き留めて、問いへの集中力が切れないようにと気をつけています。

 

背伸びをせずに、今の自分にできることをする

これも今の自分にとっても重要なことです。

私たちはとかく、自分のできないことに目を向けず、できるはず、できたらいいなということばかり考えたがります。しかし、まずは足元を確かなものにしておく必要があります。できないことをやろうとしてもがいても、いいことはありません。

背伸びをしないとはしかし、簡単なことや、誰でも容易に結論が予想できるようなことだけやってればいいというわけではありません。

自分の実力や現状を正確に把握し、今の段階ではどこまでできるかを、残り時間とともに冷静に考えるべきということです。

たとえば、学会発表や論文の締め切り前には、当初予定していたことよりも、内容を削ったり、対象とする問題の範囲を狭めたりすることがあります。これは自分にはできないことを目標にしてしまったためにおこることです。

最低限先ずはこれをしよう、うまくいったらこっちもやってみよう、という具合に、あまり欲張らないで、できることからこなしていくのがいいでしょう。

 

何のために研究をするのかを考える

この点は、修士課程のころに、講座の先生方(指導教員のM籏先生だけでなく、I田H士先生など)にいつも言われていたことでした。

研究者が研究をするのは何のためでしょうか。自分の為、社会のため、いろいろな理由が考えられるでしょうが、何かしら自分の取り組んでいる研究が何のために必要なのかを考えておくことは必要です。

学振であれ科研費であれ、研究者はつねに、その研究をする理由やその研究が何を目指すものなのかを問われることになるからです。

こんな具合に世のため人のために役立ちます、という必要はありません。まあ、役立てようと思えば役立てられるのでしょうが、人文科学にとって、世のため人のために役に立つという話はまた別のところで考えるべきです。しかし、自分が何を目指して修士論文・博士論文を書こうとするのかは、ある程度明確にしておくといいでしょう。よくないのは、自分自身でもあいまいだし、人にもうまく説明できないという状態で研究を続けることではないでしょうか。

 

基本に立ち返る

論文とはなんでしょうか?研究とはなんでしょうか?

何のために、というのを前の項目で考えたのと同様、基本に立ち返って、論文とは何を書いたら論文になるのかということをもう一度考え直してみましょう。

これでいいのだろうかと悩んだり、論文を書き始めても手が止まることがあれば、もう一度、論文として何が問題なのか、何をするために論文を書いているのかをよく考えましょう。そのうえで、軌道修正をしましょう。

 

嫉妬は成長のチャンス

院生になると、横並びだった(ように見えた)学部までと異なり、恵まれた人とそうでない人の差が徐々に開いてきて、苦しい思いをすることが多くなります。

博士課程に上がれる人、上がれない人、学振が取れる人、取れない人、ポストが得られる人、得られない人と、どの段階においても同じように選別は行われるし、そこで選ばれる人と選ばれない人は存在します。

同期生や後輩に、同じような分野を研究していて、自分よりできる人がいたら、苦しい思いをすることでしょう。私ももうすっかり忘れていたけど、院生時代の仲間というのは、友達であると同時に、ライバルだったので、しょっちゅうケンカをしたり、気まずくなったりしたものでした。

大学院を出た今の自分としては、やはり嫉妬心を克服することがこの業界で生きていくために必要だと思いますが、その反面、嫉妬心からくるエネルギーも必要だろうと思います。羨ましいなあ、あんな研究がしてみたいなあ、自分だってもっとできるのに、と悔しい思いをすることは、きっと次の成長につながるチャンスです。

 

研究指導を受けるのは難しい、そして自分の指導教員以外にも教えてくれる人はたくさんいる

指導教員と良好な師弟関係が作れる人というのはそもそも物凄く優秀なのではないかと思います。実は、どんなにいい先生に教えてもらうにせよ、指導を受けること自体がけっこう難しいことなんだといまでは思っています。

つまり、それなりに自分の核となる部分、あるいは自分の研究への自信がないと、指導教授に言われたことをそのまま聞くだけになってしまい、いくら先生の言うことを聞いたところで、自分のオリジナリティのない研究しかできなくなってしまうからです。そういう研究者では、修士論文をまとめることはできても、博士論文までは到達できないでしょう。

私の先生は、非常に厳しい方だったので、私自身は距離を取りつつ時々指導を受けるという形で博士論文を書き上げました。下手なことを言うと怒られる、あるいはこちらの怠慢を厳しく指摘される、それが怖くてまともに指導を受けられなかったのでした。この逃げ腰の態度のために、なんとか心が折れずに博士論文までたどりつけましたが、やはり私の方法は怠慢だったとしか言えません。

同じ道籏泰三門下の若い後輩たちが素晴らしい仕事をしているのを見ると、もっとちゃんと指導を受けておくべきだったと後悔しています。

後輩の小林哲也さんや藤井俊之さんは評価の高い仕事を残しています。

 

啓蒙と神話: アドルノにおける人間性の形象

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 私自身は指導教員から指導を受けることはあまりなかったのですが、そのかわり、方々でいろいろな先生から教えを受けてきました。修士課程の頃から通っていたドイツ現代文学ゼミナールには、東京の有名な先生方も参加されていたので、ときどき情報交換をするだけでも勉強になりました。修士課程そして京都精華大でお世話になっていた池田浩士さんには、勉強会での議論から多くの刺激を受けました。

ほかにも学会や研究会、読書会等様々な場所に、研究仲間や先生がいます。指導教員以外の先生に意見をもらうということは非常に有効です。

私自身は経験がないのでうまくアドバイスができませんが、指導教員からハラスメントをうけたりする人もいるでしょう。指導教員の言うことが全てだと思わないで、別の場所で研究を続けたり、あるいは別の先生の指導を受けながら学位を取るということも十分可能です。視野を広くもつためにも、自分のいる研究室や講座のそとに先生を探しにいくことはたいへん有効です。 

 

まとめ

この記事を書き始めたのは、じつは昨年の年末ごろだったのですが、あれこれ書きたいことが増えて、すっかり長くなってしまいました。

私自身はいまは、研究指導をする立場でもないし、学会くらいでしか、研究科の後輩と会う機会もありません。そのため、実際の大学院生にちゃんとした指導やアドバイスができる立場ではないのですが、私自身の経験から考えていたことをまとめてみました。

修士論文でも博士論文でも、少しずつ取り組んでいけば、たいていの場合は完成できます。気持ちを切らさないように、書き続けていきましょう。