ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

トーニオ・クレーガー、いま私たちの人生と対立するものは何か?

国際化と異文化理解の第5回目は、トーマス・マンをとりあげました。

19世紀末から20世紀初頭の社会の変化として、前期の講義では『ブッデンブローク家の人々』から、没落する旧来のブルジョワと台頭する新たな階級について説明しました。しかし、『ブッデンブローク家』は、大長編だし、部分的に切り出して読むにしても、多くの人名が出てきて、非常にわかりにくいです。この点が学生に嫌われたので、今学期は、もうすこしわかりやすい『トーニオ・クレーガー』を選びました。 

 

トーニオ・クレーガー 他一篇 (河出文庫)

トーニオ・クレーガー 他一篇 (河出文庫)

 

 今回はこちらの新訳を使いました。

あらすじと主題

簡単に本作のあらすじをまとめておきます。

ドイツ北部の町(作者の出身地であるリューベックをイメージさせる)で育ったトーニオは、少年時代から文学に傾倒しています。大好きなブロンドの少年ハンス・ハンゼンに好きな作品の話をしますが、あまり相手にされません。ハンスのような少年は、文学なんかよりも乗馬の方が楽しいというのです。トーニオが気に入っている美少女インゲボルクもまた、トーニオの芸術趣味を理解しません。トーニオは、ハンスやインゲのような明るい楽しげな世界(リア充!)にあこがれながら、孤独に芸術の道を邁進することを選びます。

成長したトーニオは詩人となり、いっぱしの芸術家らしく放蕩を尽くし、健康を害しながら、価値ある作品を生み出し、評価されるようになります。ある日彼は、芸術家仲間のリザヴェータのもとに行き、最近の悩みを打ち明けます。芸術家というものが彼にとっては、なんだかわからなくなってきているというのです。要は、トーニオにとって、芸術というのは生涯をかけ、命を削って取り組むものであり、芸術家気取りの一般人が詩を作ってみたりすることが我慢ならない反面、自分自身も小市民的な楽しみが好きだし、みんなと同じような人生を愛しているというのです。そんな彼にリザヴェータは、あなたは「普通の人」よ、と言い渡します。

  

学生たちのコメント

トーニオの高尚な悩みがよくわからない。印象に残ったけれどよくわからなかったのでもう一度読みたい、という意見がいくつか見られました。おそらく学生たちにとっては、分かりにくいかな、と心配していたのでこのような意見が出たことはまあ、想定の範囲内といったところでした。

 

トーニオ、感じ悪いよ

私自身が、初めてこの本を手に取ったのは、たぶん学部の1回生か2回生のころだったと思います。その当時、はじめの数ページを読んで、文弱でいかにも芸術家気質のトーニオが、健康的な一般人のハンスやインゲにあこがれる、という様子が、なんとも嫌味で読むに堪えませんでした。自分を趣味のいい芸術家の立場において、周囲の人間を見下す、トーニオというのは、なんて嫌なやつだろうかと思ったのでした。トーマス・マンは『ブッデンブローク家』や『魔の山』等長編小説は素晴らしいのに、なんでこの『トーニオ・クレーガー』みたいなのが、名作に数え入れられているのか理解できませんでした。

 

自分は特別なんだ、という厨二病的な気分とも近い

しかし、時間が経つにつれ、そのような私の理解がまったくの早合点でしかなかったとわかりました。つまり、トーニオ/マン自身は、自分自身が市民(商人の一族)の出身で、大学にも行っていないにもかかわらず創作に手を染め、どうしたら市民ではなく、芸術のほうへ行けるのかと必死で努力し、努力しつつも自分が生きてきた市民の世界だって魅力的に思えてしまう、そのようなアンヴィバレントな立場にいたのです。そんなトーニオは、やはりリザヴェータがいうように、どこにでもいる「普通の人」でしかないのです。

トーニオは物語の最後に、自らのルーツである北ドイツや北欧を旅した後に、あらたな創作の方向性を模索します。各地に生きる市井の人々を見たトーニオは、芸術家と市民の対立を超えて、両者への愛情から自らの作品を生み出していこうと決意をするところで終わります。

私たちの生と対立するものとは何だろう?

学生たちに分かりにくかったのは、この芸術に対するトーニオの態度でしょう。彼らはもちろん芸術家志望ではないので、トーニオの芸術への熱い思いというのは、理解できなかったかもしれません。しかし、トーニオが生活と対立させ、おのれの健康を害しても打ち込みたかったものとは、私たちの世界に読み替えれば、必ずしも文学や詩作などの芸術的創作だけに限られるものではないでしょう。

私自身にとっては、生活に対立するのは仕事ともいえます。アスリートやスポーツ学生にとっては、競技がそれにあてはまるでしょう。労働はお金をもらってるから、芸術とは違う、という考えもあるかもしれません。しかし、私たちは時として、お金にならないような仕事の完成度にこだわって、体を壊すまで仕事にのめり込むことがあります。それは完璧主義というのとはちがっていて、私たちは、自分の生命維持以外の活動に高等な意味を見出し、恍惚を覚え、とことんまでのめり込んでしまう傾向があるのではないでしょうか。それは芸術家の創造以外の場合だって同様なのです。私たち自身も、トーニオ的な迷い道にはまり込みうるのではないでしょうか。

トーニオが迷い道の末に見出したのは、まあ、ふつうの解決策でしかなかったのかもしれません。芸術家と市民の二項対立の図式も、生きるか死ぬかのところで生きてる人にとっては、生ぬるいおぼっちゃまのたわごとでしかないかもしれません。しかし、忙しい日々のなかで、自分にとって何が価値のあるものなのかとわからなくなってしまうようなとき、この本を読んで、自分の立ち位置を見直すことができるのではないかな、とも思いました。