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ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

30歳からの10年間をどう過ごしてきたのか

思い出 研究活動

10歳くらい年下の研究者がみんな偉い

先週末10月22日に日本独文学会で研究発表をしてきました。今回は、すばらしい仲間と組んでシンポジウムを行い、大盛況のうちに終わりました。

学会でやるべきことは、もちろん研究発表であるし、他の優秀な研究者の発表から、新たな知識や洞察を得ることです。しかし、今回は地元開催なので、それ以上に重要な仕事、すなわち今後本学に出講してくれそうな、若い研究者の状況を探るという仕事がありました。他の分野はどうしているのか知りませんが、私たちの分野では、各大学の専任教員は、それぞれ非常勤講師を探して、出講をお願いするというのが一般的です。(公募を行う大学も多くありますが、正直なところ公募よりは知り合いに頼む方が、労力も少なく、選べる人も確実です。)

私の場合は、京都には大学院時代に知り合った後輩などが多くいるので、非常勤講師候補を探すことにはそれほど苦労はありません。しかし、現在どこの大学も一様に人手不足なので、優秀な人材は他大学にすぐに取られてしまいます。大阪でも不便な場所にある私の勤務先の場合は、どうしても他の大学に比べて優先してもらえません。なんとか一人でも多く非常勤の引き受け手を探したいので、毎回必死です。

学会に行って気づくのは、自分より10歳くらい下の、ちょうど30歳前後の方々の活躍が非常に目立つことです。ちょうど今年で40歳になってしまったということもあり、自分が彼らぐらいの歳の頃は、一体何をしていただろう?そしてそれから10年間で、自分は何ができるようになったのだろう、と考えてしまいました。

 

この10年をざっとまとめる

正直なところ、私を見習えなんてとても言えませんし、私の生き方などほとんど参考にはならないでしょうが、自分自身の備忘のために、この10年(おもに専任教員になるまでの8年間)を年表にまとめました。

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2006年11月ごろ。鳥取砂丘にて。

 

2006年 30歳*1(D3) 禁煙に成功。南大阪看護学校で情報科学(PC実技)を、堺看護学校で看護と倫理を教える。全国学会での発表や論文執筆など、忙しく研究に励んでいた時期。

2007年 31歳(D4) 北白川山田町のアパートが取り壊され、浄土寺西田町に転居。やっと風呂つきのアパートに移る。学会でグループ発表をする。そろそろ同学年の仲間が博士論文提出に向けて動く。単位取得退学を考えるが、具体的には何もせず。

2008年 32歳(D5) ジョギングを始める。京都精華大学人文学部でアルバイト。日々の研究の拠点は研究室から自宅に移る。年度末に単位取得退学。

2009年 33歳 京都精華大共通教育センターで助手に着任。一箇所からの給料だけで生活できるようになる。京大から足が遠のき、研究が滞る。秋には学会でシンポジウム発表をする。

2010年 34歳 助手2年目。すっかり博士論文のことは忘れて仕事に励む。ドイツ語の非常勤も始める。

2011年 35歳 助手3年目。春に入籍し、太秦に転居。課程博士のリミット(博士論文を退学後3年以内に提出)を思い出し、論文に着手。他の研究活動はいっさいせず。

2012年 36歳 専業非常勤講師1年目。春に博士論文を完成する。3つの大学で教え始め、週7コマほど授業。みるみるうちに貯金が減る。

2013年 37歳 専業非常勤講師2年目。春にドレスデンで1ヶ月語学研修を受ける。4つの大学で12コマを担当。看護学校の仕事を辞める。助成金を得て博論の出版にむけて作業。公募で現在の勤務校に決まる。

 2014年 38歳 専任教員1年目。→現在に至る。

 

このように書き出してみると、30歳から33歳あたりまでの時期に留学をしておけばよかったと思うし、33歳から助手を務めていた3年間は、あまりに研究から離れすぎていました。じつは博士論文の骨格となる論文は、2007年ごろにはほとんど揃っていたので、そこから書き始めていれば、2009年くらいには学位は得られていたんじゃないかと思います。

また、ドイツ語の非常勤を始めたのは2010年で、専業非常勤だけで生活がなりたつようになったのは、ようやく2012年になってからでした。このあたりも、D3でさっさと単位取得退学していれば、もっとはやくキャリアをスタートすることできたのではないかと思います。

 

 

*1:私は7月生まれなので、新年齢を書いてあります