ドイツ語教員が教えながら学ぶ日々

熊谷哲哉 ドイツ語教育、ドイツ文学、文学じゃないけどおもしろいものなど。

移住者にとっての京都の楽しみ方

中途移住者として京都に14年

私は大学院修士課程進学時に、京都に移り住み、左京区北白川に7年、左京区浄土寺に4年、右京区太秦に3年と合計14年あまりを京都で過ごしました。

京都というと、先の戦争が応仁の乱だとか、本当の京都は洛中だけとか言ってる閉鎖的なイメージばかりが先行しますが、実際の市民の多くは、私のような中途移住者だったり、郊外在住者だったりします。(人口140万人のうち、30万人あまりが伏見区西京区山科区もあわせると、半数近くが郊外に住んでいる計算になります)

先日の記事では、京都に住み始めたころの違和感や、離れてみて気付いたことを書いたのですが、今回は、住んでいた頃に京都でどんなふうに過ごしていたのかを思い出してみます。

 

映画を見るならみなみ会館、だけ

東京時代は渋谷・新宿まで電車で10分のところにある大学に通い、自宅からあるいて5分のところに、映画ファンなら誰でも知ってる名画座がありました。そのため、学部1年生の頃から、週に1本程度のペースで劇場で映画を見ていました。

下高井戸シネマ

ベルリンに短期滞在した頃にも、ちょうどベルリン映画祭だったこともあり、映画祭参加作品を見に行ったり、東京で面白かった作品を、現地の劇場で見直したりと、映画ざんまいの日々を送りました。

そんな当時の私にとって、京都の映画環境は、最悪でした。市内にはあさひ会館(廃業)やムービックス、京都シネマみなみ会館など、いくつか映画館がありますが、最低でも三条河原町まで出ないといけないし、みなみ会館にいたっては、京都駅よりもさらに離れた場所にあります。

kyoto-minamikaikan.jp

東京時代に私が、渋谷のシネマライズユーロスペース、銀座のシネスイッチなどで見ていたような映画は、みなみ会館でしか見られませんでした。みなみ会館までは、自宅からバスにのっても1時間近くかかります。(その後バイクで行くようになりました)問題は交通の便だけではありません。東京に比べて、映画館が少ないので、見られる作品は当然少ないし、東京よりも何ヶ月も遅れてようやく公開されるのが普通でした。

京大近辺に長く住んでいる人たちは、百万遍の有名なレンタルビデオ店などで借りて見ていたそうです。私は長いこと自宅にテレビがなかったので、借りて見るということはまったく考えていませんでした。

東京時代にあれほど夢中で見ていた映画でしたが、京都の不便さに負けて、数年たつころには、年に1回程度しか見る機会はなくなりました。

 

送り火は屋上で見る

今年も行われた、五山の送り火ですが、京都に住んでいた頃は、どこか高いところに登って、ビールを飲みながら眺めたものでした。

京大に学籍があったころは、毎年総合人間学部の屋上で右大文字、妙・法など、近くで燃えている送り火を眺めました。

銀閣寺道に住んでいた頃は、大文字山のすぐ下なので、付近の白川通ぞいには、たくさんの人が詰め掛けて、大文字をみに来ていました。私の住む銀閣寺ハウスは、広い屋上があったので、住人は友達たちを連れて、屋上に集まっていました。

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大文字山銀閣寺ハウス屋上)

結婚して右京区に移ってからは、自宅マンションの廊下から、左大文字や、京大からはほとんど見えなかった鳥居を間近に見ることができました。また、嵯峨野の広沢池では、灯籠流しも行われるので、池のまわりで鳥居を見ることもありました。

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広沢池の灯籠流し

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マンション7階からみた鳥居

 

地元のお気に入りの場所にいく

京都に住んでいると観光などしなくなる、というのはたしかにその通りかもしれません。北白川からほど近い銀閣寺ですが、中に入ったのは、おそらく2000年に移住したばかりの頃一度きりだったと思います。清水寺金閣寺のような超人気観光地は、年中混雑がひどいので、近づくことすらしません。(親や外国人ゲストが来ないと、あのレベルの観光地に近く元気がでませんでした)

とはいえ、京都に住む人がまったく寺社仏閣を見に行かないというわけではありません。私も含めて、みな近所のお気に入りの場所に行っていたと思います。

以下、当時気に入って何度も行っていた場所を思い出してみました。

詩仙堂

北白川時代にいちばん多く行った場所です。住み始めた頃はそんなに人気スポットではなかった(修学院離宮曼殊院のほうが人気だった)ので、いつ行っても空いていたし、庭を眺める座敷でゆったり座って過ごせました。10年くらい前から、紅葉シーズン以外も混雑するようになりました。

大文字山

寺社仏閣ではありませんが、京都人が好きな場所の一つです。私も院生時代には、仲間とよくハイキングに来ていたし、トレイルランニングをするようになってからは、早朝のトレーニングとして、大文字山の頂上まで毎日往復したりもしました。高さは山頂までで460m、急な道が続きますが、割とすぐに山頂まで行けます。大文字山は、東山連峰の一つで、他の山と組み合わせて、もっと遠くまで行くこともできます。北に向かって比叡山まで行ったこともありました。

鴨川、高野川、岩倉ほか

院生のころは、毎年鴨川でお花見やバーベキューをしました。また、ジョギングを始めてからは、鴨川周辺だけでなく、高野川や岩倉まで行くコースも開発していました。ジョギングコースとして、非常に気に入っていたのは、船岡山です。女子駅伝などのコースで知られる、北大路通の坂を登ったところにある小さな山ですが、見晴らしがよくて気持ちがいいので、ときどき行っていました。

清滝川、北嵯峨の田舎

右京区に移ってからは、嵐山や嵯峨野を散策しました。年中あまり人が来ないのが、太秦の北、嵯峨野方面でした。広沢池のまわりは、栃木の実家付近のようにのどかでした。また、嵯峨野からさらに北西に向かうと化野念仏寺や愛宕念仏寺、トンネルを超えて清滝川までいくと、夏でもひんやりして気持ちが良かったです。

嵐山駅の足湯と駅ビール

嵐山周辺は年中無休で混雑しますが、観光客がたくさんいるのは、夕方6時ごろまでです。それ以降は地元民の時間ということで、日が長い夏には、よく嵐山を散歩しました。毎年楽しみにしていたのが、嵐電嵐山駅のイベント、駅ビールでした。嵐山駅でビアガーデンのように楽しめるという夏限定のイベントでした。また、嵐電ホームにある足湯も、夏だと空いているので、さきに足湯に浸かって体を温め、その後ビールでクールダウンするという楽しみかたもありました。

桂川松尾大社

右京区時代のジョギングコースとして、自宅から嵐山の渡月橋を超えて、桂川の土手を南下するルートをおもに走っていました。四条通りが桂川と交わる松尾橋付近で折り返すとちょうど10kmになるので、松尾にはよく来ていました。松尾大社苔寺など周辺の寺社と比べると、たいして人気の観光地でもないのですが、地元の人には非常に愛されていて、お正月やお祭りの時期にはたいへん混雑していました。

油かけ地蔵

すっかり忘れていましたが、当時一番気に入っていたのが、この場所でした。嵐電鹿王院駅から徒歩5分ほどの場所にひっそりと立つ油かけ地蔵。時々見に来ては、油をかけて手を合わせていました。

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京都暮らしの思い出

 

夏の京都で、かつて住んでいた頃を思い出す

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八月始めに、観劇(地点によるイエリネク上演をみてきました)と研究会のため、何回か京都を訪れていました。京大周辺や、院生・助手時代に住んだ(2007~2011初めまで)銀閣寺道を久しぶりに見て、京都に住んでいた頃をあれこれ思い出しました。京都には14年春まで住んでいましたが、左京区を離れてすでに5年以上が過ぎ、京都で暮らしていた頃が、だいぶ以前のこと、懐かしく思い出す記憶になってきていることに気づきました。もう20年近く前、京都に住み始めた頃に感じていたことを、思い出してまとめます。

 

1)京都に住み始めた頃

学部入試の頃から憧れていた(しかしぜんぜん届かなくて一浪してもダメでした)京大に、大学院から入ることになり、当初は非常にうれしくて、意気揚々とした気持ちでした。(東京での生活については以前の記事を参照)

schlossbaerental.hatenablog.com

 

高校の同級生などをつうじて、少しは大学周辺の地理について知っていた私は、住環境がいいと評判の、北白川にアパートを借りました。部屋探しに行ったのは、2月のはじめごろでしたが、一泊二日でいそいで決めたこともあり、後になってみるとなんでわざわざあの部屋を選んだのかと思うような、奇妙な物件でした。

 

2)石原荘のこと

北白川の石原荘は、バス停北白川別当町から徒歩3分程度、少し坂を登ったところにありました。周辺には本屋さん(丸山書店)やカフェ(太陽カフェ)、銭湯(白川温泉・白川湯・高原温泉・銀閣寺湯・天神湯など徒歩圏内に5件)*1やコンビニなど生活に必要なものはそろっていました。スーパーも歩いて1、2分のところにありましたが、成城石井やイカリのような高級スーパー(マイケル)だったので、ビール以外ほとんど買い物をしたことがありませんでした(ビールやアルコール類については珍しいものがいろいろあったので重宝しました)。

石原荘はもともとキッチンなし4畳半の部屋だったところを、改装して二間続きにして、キッチンをつけた部屋でした。そのため、右側の部屋に玄関とキッチンがついていましたが、左側の部屋はドアはついているものの、ふさがっていて、ドアの裏には押入れがありました。(文章で説明すると要領を得ない感じになってしまうので、図にしてみました。)

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おそらくこの9畳という広さと押入れの大きさが気に入ってこの部屋に決めたのだと思います。あとは東京時代のアパート(4万円風呂なし)に比べたら圧倒的に安い、共益費込み3万2千円で共同シャワーと洗濯機つき、という点も気に入りました。

 

3)住み始めて気づいた、京都は田舎だ!

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(京大西側、東一条通りと鞠小路通の交差点を上がったところにある、有名な地蔵)

東京時代は、駅まで徒歩2分、大学もバイト先も駅から10分以内と便利だったので、ほぼ電車だけしか使いませんでした。下高井戸を引き払ってから四ヶ月住んだ豪徳寺はやや駅から遠くて13分くらいかかりましたが、それでも駅まで歩くのに苦はありませんでした。

しかし、住み始めてようやく気づいたのですが、京都市内を公共交通機関だけで移動するのはけっこう不便です。北白川別当町からは、京都駅方面と四条烏丸経由で松尾大社まで行くバスが出ていました。京都駅と、四条通りという二つの中心地に直接行けるので確かに便利なのですが、バスに乗ってみてすぐに気づきました。京都のバスはなかなかも目的地につかないのだということに。

北白川から京都駅まではおよそ7km程度、今の私なら、走って1時間以内で着きます。しかしバスに乗ると、途中で岡崎公園祇園清水道三十三間堂といった観光地を巡って行くので、早くて35分、昼間の時間帯なら50分くらいかかってしまいます。

 

追記:最新の情報から遅れる地方都市

京都に移って、一番大きな違和感を覚えたことを書きそびれていたので補っておきます。東京と違って、京都にはなかなか最新の情報が入ってきません。ネットで世界の出来事を同時に理解できる現在とは異なり、2000年代初頭には、やはり東京より情報量が少ない、最新の出来事が伝わってこないという状況がまだ残っていました。

四条通りの書店に行っても、欲しい本が見つからないし、東京で話題になった映画がなかなか京都まで来ない、来てもみなみ会館のみだったりします。卒論では、ドイツの現代演劇をテーマにしていましたが、当然演劇の上演を見る機会もほとんどありません。

東京にいた頃は、学部生の背伸びにすぎないのかもしれなかったのですが、あれこれ最新の情報、現代ドイツの動向や、流行りの研究テーマについていかなければならないと強く思っていました。だから、京都の大学に来て、ほとんどだれも現代文学に関心を持たないし、伝統的な作家作品研究ばかりやっている状況に、少なからず失望しました。

しかし、研究がなかなか思うように進まない時期を経て、逆に自分が、東京的なものに振り回されていただけだったのではないかと思うようになりました。新しい流れについていかないというのは逆に言えば、世の中の動きに左右されずに学問に集中できる環境でもあります。せっかく京都にいるのだから、古い文献を使った研究をしたほうがいい。というわけで、修士論文を書いた後は、毎日京大図書館の書庫に入って、カード目録で本を探したりして、パリパリになった古い文献を漁る研究スタイルを取ることになりました。

 

4)バイクや自転車に乗る

大学に通い始めてすぐに自転車を手に入れましたが、白川通りの坂道を上り下りするのがけっこう苦痛でした。市内や大学からは、10分以上坂を登り続けなければいけません。最初の夏休みに塾講師をしていましたが、ワイシャツにネクタイで毎日汗だくになって自転車をこぐうち、もうちょっと便利な交通手段はないものかと思うようになり、9月に自動二輪の免許をとりました。

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(ぐねぐねした吉田上阿達町の路地)

その後バイクを買い、2007年ごろまで乗っていました。当時の京都では、路上駐車のルールがゆるかったこともあり、バイクが非常に便利でした。しかし2005年ごろから駐禁取り締まりが厳しくなり、市内中心部でも駐車できる場所が非常に限られてきたので、バイクは手放しました。

 

5)観光の拠点に住んでバス移動なら便利

京都に住み始めて7年目に、最初の引越しをしました。下高井戸の美並荘につづいて、京都の石原荘も、建て替えのため、立ち退かなければならなくなったからです。東京での立ち退き時には、たくさん立ち退き料をもらって、ウッハウハになりましたが、京都では契約が切れるタイミングだったこともあり、敷金しか戻ってきませんでした。

石原荘から引っ越すときは、前回の失敗を繰り返さないよう、バス停を決めて物件探しをしました。京大周辺で便利なのは、出町柳駅周辺と高野の交差点付近です。しかし住環境は白川通り方面のほうがいいので、私はたくさんのバス路線が通っている、銀閣寺道交差点付近を選びました。銀閣寺は人気の観光地なので、ここから京都駅、市内中心部だけでなく、多くの観光地に行ける路線が出ています。大学までは歩いても15分以内、自転車なら5分とだいぶ近いところです。2007年に引っ越してから半年後にバイクを手放しましたが、銀閣寺道から乗れるたくさんのバスのおかげで、遠くに行くにもあまり不便を感じることがなく暮らせました。

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6)いつまでも左京区にいてはいけないのではないかと心配になる

京都は学生の街、若者が暮らしやすい街といわれています。たしかにそうです。朝から晩まで働き続ける、会社員的な生活が規範とされる東京に比べると、京都では、働こうが働くまいが、夜遅くまで遊び歩いていようが、みんな自由です。たしかに大学院に通い始めた頃は、この街ののんびりした雰囲気と自由さが新鮮でした。

しかし、30歳を超え、ようやく風呂付きアパートに住むようになった頃、もう少し先のことを考えないといけないなあと思い始めると、逆に無職と老人と学生ばかりの左京区にいつづけることが、なんだか居心地が悪くなってきました。

2011年春に、入籍するさい、私はもう京大の非常勤講師だったので、学生とは立場がちがうし、もう学生街に留まり続ける必要はないと判断して、右京区に移りました。週一回の京大での授業には、バスで40分くらいかけて通勤し、本務校の精華大学には、ロードバイクで片道12kmの坂道を往復しました。市内の移動だけなのに、かなり過酷な通勤をしていたと思います。それでも、若い夫婦や子供がたくさんいる世帯など、左京区ではあまり見なかった、普通の市民の生活に参加できている気がして、なんだか新鮮に感じました。

7)京都での生活とは何だったのか?

今の大学に勤め始めてから、ふたりとも大阪の大学で仕事をするようになったので、阪神間に移りました。大阪府内のほうが、たしかに近いし家賃も安いのですが、西宮や芦屋はいつも電車が空いているし、梅田までなら非常に近いので大変便利です。

左京区を離れて6年が過ぎ、なんかすっかり生活も仕事も、京都時代とはまったく違う環境に移ってしまったのだなあと、改めて感じました。ときどき仕事などで京都に行くと、あの生活は何だったのだろうと思います。

モラトリアムとか、サークル部室とか、いろいろな例えがありますが、なんかそういうのはピンとこないように思います。

左京区時代と、それ以外の場所で過ごした時期とを比較して、一番大きいのは、左京区では時間の流れを意識しないでよかったということです。石原荘に7年住んでいたけど、私の両隣の住人は同じでした。しかし、今のマンションでは、住み始めて4年なのに、ほうぼうで住人が入れ替わり、エレベーターに乗り合わせる子供さんはどんどんお兄ちゃんお姉ちゃんになっていきます。京大とその周辺だけで過ごしていられたあの10年余りの年月は、まさに、自分が歳をとるということも含めて、年月の流れをまったく考えずに、のんびり好きなことに没頭できた時期だったのだと思っています。

*1:東京では4年間銭湯通いだったので、京都ではシャワー共同や自室に風呂のついた部屋に住んでいましたが、一人暮らしの間はほぼずっと銭湯に通っていました。残念ながらここに挙げた銭湯はみなこの15年ほどで廃業してしまいました。

最近買った本、7月後半

気がついたらもうお盆休み

7月末ごろから、かなり仕事が忙しくなっておりました。

昨日まで、研究分担者として参加している、科研グループ「プラハとダブリン亡霊とメディアの言説空間−−複数の文化をつなぐ《翻訳》の諸相」の研究会合があり、そこで「夢遊病心霊主義−−カール・デュ・プレルとシュレンク=ノッツィングを中心に」と題して、これまでの研究や今後の研究計画などを話しました。正直なところ、準備に取りかかれたのがようやく8月に入ってからだったので、ほとんど新たな発見を盛り込んだりはできず、まったく不十分な発表となりました。

毎日発表の準備もせずに、学内の仕事とテストや採点登録などの業務に追われて過ごしていましたが、その合間にも、あれこれと興味のある分野の本を買い集めておりました。なかなか読む時間はとれませんが、夏休み中なので、心霊主義関連の文献にあきたら、少しずつ読み進めていこうと思います。

自分が知っていることは、物事のごく一部でしかない

7月ごろに、あれこれ仕事をしながら、自分が当たり前のことだと思っていることも、いざ説明するとなると、あまりよくわかっていないし、因果関係もちゃんと理解できていなかったりということがよくあるなあと思っていました。

私が専門的に研究している19世紀末ドイツのことも同様です。もう少し広い視野から、過去の出来事を学ぶ必要があると痛感していました。

そんなことを考えながら、7月はおもに歴史の本を買い集めていました。

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石灰の街を紹介した、『日本の砿都』には、私の地元である栃木の葛生や鍋山なども取り上げられていました。

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ヨーロッパとイスラームの関係を知るには、だいぶ古い時代から歴史を学んで行く必要があると思い、何冊か文献を集めました。

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歴史物といえば、最近は、『応仁の乱』や『観応の擾乱』など、中公新書ものが話題です。『応仁の乱』は確かに面白かったけど、途中でついていけなくなって8割くらいで挫折しました。『観応の擾乱』はこれから読みます。

 

ドイツ語で歴史を学ぶなら、C.H. Beck Wissenシリーズ

ドイツでも、歴史を気軽に学べるシリーズとして、C. H. Beck社のC.H.BECK Wissenシリーズがあります。『ドイツ帝国』や『十字軍』、『アフリカの歴史』、『20世紀の哲学』、『人間の尊厳』など、古くてマイナーなテーマから、最新の話題まで、さまざまなタイトル(このシリーズでおどろくのは、ドイツ史についてはかなり細かいテーマまで一冊になっている点です)が刊行されているので、ここ最近何冊も買っています。1冊8.95ユーロなので、日本の新書よりは高いけど、ちくま学芸文庫講談社学術文庫くらいの値段なので、おそらくドイツに行ってから、また何冊か買い込むことになるでしょう。

 

論文が出ました「記憶と病-クリスティーネ・ヴニケ『狐と島邨博士』について」

春に書いた論文が出ました

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7月末に出来上がった、『希土』第42号(希土同人会発行)に、春に書いた論文が掲載されました。

2015年に出版された、ドイツの小説„Der Fuchs und Dr. Shimamura"『狐と島邨博士』について、実在の人物島邨俊一の生涯と、小説に登場する島邨博士とを比べ、その生涯を決定づけた病とはどのようなものだったのか、そして作者ヴニケは、なぜ人物評伝ではなく、小説として島邨を描こうとしたのかということを考察しました。 

雑誌『希土』は京大独文研究室出身の先生方が、論文・翻訳・エッセイなどを投稿する雑誌で、けっこう古くからあります。

私は京大独文出身ではありませんが、4年くらい前から会員として毎年刊行される論集を読んできました(ただ読んでいただけです)。しかしせっかく会員になっているのだから、何か論文を投稿したいと思っていたところ、ちょうど昨年夏に、ドイツ現代文学ゼミナールで、クリスティーネ・ヴニケの小説について発表(新刊紹介的なものでしたが)をしたので、もう少し加筆して投稿することにしました。

昨年9月に一旦発表していたとはいえ、内容的にはただ読んだだけ、程度だったので春休みから4月くらいまでかけて、全体を再読し、5月の連休ごろになんとか論文の形になるよう書き上げました。

あまり時間がなかったこともあり、もうすこし読み込めた部分もあったのではないかという後悔もありますが、この小説を見つけてから、ずっと自分が論文を書きたいと思い続けてきたので、今回急ごしらえながら、論文の形になってうれしいです。

『希土』はデザイナーの方に表紙だけでなく、中にも挿画が入ったきれいな誌面を作ってもらっています。狐憑きについての論文なので、狐のイラストが冒頭のページに載っています。このイラストも気に入っています。

ノート屋さんという商売がなぜ成り立つのか?

ノートを売り、買うということ

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妻がAノートというサイトを発見しました。

www.anote.jp

立命館大学生命倫理(前期)を、近畿大学ジェンダー学(後期)を教えている妻ですが、先日、立命館でのテスト前に、ツイッターか何かでAノートというサイトを見つけていました。

説明を読んでみると、講義ノートやテスト問題を集めて、売買する業者のようです。立命館の近くには、ノート屋の店舗がまだあるということを聞いたことがありましたが、ネットでも商売をしているのですね。

ノート屋さんというものがあることは、昔から知ってはいましたが、なんとなく、いまはもう成り立たない商売なのではないかと思っていました。

今日は、学期末ということもあるので、ノート屋さんと授業ノートについて考えをまとめたいと思います。

 

20年前東京の私学に、ノート屋はあったのか?

私が大学生だったのは、もう20年くらい前のことです。母校の明治大学周辺は、いまもそうですが、日本有数の大規模な学生街があります。食堂や雀荘、そして古本屋と学生生活に必要なものはなんでもありましたが、ノート屋もあったのでしょうか?

1、2年次の和泉校舎(明大前駅のほう)、3、4年次の駿河台校舎(リバティータワー)それぞれ周辺のお店を思い出していますが、ノート屋というのは見たことがなかった気がします。ネットで検索をかけても、明大生向けのノート屋というのはヒットしませんでした。

しかし、明治からほど近かった早稲田や東大には、ノート屋やそれに類するものがあるということは聞いたことがありました。京都に来てからは、京大周辺では見たことがありませんが、京都産業大の目の前に、学生向けのノート屋があったのを覚えています。

明治大になぜノート屋がなかったのかはよくわかりません。しかし、当時の自分としては、文学部だったので、開講科目数がとても多かったし、一つ一つの授業は少人数なので、商売になるほど儲からないのではないかと思っていました。

 

 

勤務先の場合

ノート屋という商売は昔のもの、あるいは京都限定のものなのでしょうか?

調べたところ、私の勤める近畿大学でも、実は私が出講し始める前には、ノート屋があったそうです。2009年ごろの卒論のメモがヒットしました。ノート屋でノートを買った学生の成績を調べ、ノートを買うことが本当に成績に反映されているのか、ノートを買うという行動にどのような意味があるのかを探りたい、という経営学部生の卒論メモでした。かなり面白いテーマだと思いましたが、調査としては難しいし、無事に卒業研究としてまとめられたのか気になりました。

 

ノート屋はもう成り立たないのか?

近畿大学だけでなく、ネットで検索すると、関西の主要大学では、もはやノート屋は消滅しつつあることがわかりました。立命館ではなぜまだつづいているのかわかりませんが、逆にノート屋が消えていった理由については、いくつか考えられることがあります。

学生が毎回出席する=まとめて勉強する必要ないから?

一つ考えられるのは、学生が授業に出なければならなくなったことでしょう。近畿大学のユニパのように、私立大学では、出席時にカードなどで登録することが当たり前となりつつあります。20年前は、必修科目以外はそれほど毎回の出席が必要ではなかったのですが、昨今ではほとんどの学生が全ての授業に(単位を取るつもりであれば)休まず出席するようになっています。

その結果、試験前にノートを集めて、欠席した回のぶんも一気に復習するということがなくなったのかもしれません。

配布資料が充実=ノートを取る必要がないから?

そして、もう一つ考えられるのは、私自身もやっていることですが、紙やウェブで授業資料を配布するため、手書きのノートがいらなくなったということです。

語学の授業では、板書はしますが、講義で板書をしたことは、10年前に堺看護専門学校で教え始めた頃くらいしか、記憶にありません。堺看護での講義は、おそらく時間を調整するために板書をしていたのだろうと思います。当時は、話す内容がなくなって、授業が早く終わるということがたまらなく怖かったのです。(この問題については以前もどこかで書きましたが、また近いうちにまとめたいと思います)

手書きではなく、パワポのコピーやレジュメが毎回配布されているので、出席した学生たちは、プリントに適宜メモを取ることはあっても、自分で手書きのノートをまとめる必要はないのでしょう。

当然のことながら、配布資料に授業内容がまとめて書いてあるので、怠惰な学生は、プリントだけをもらって退席してしまったり、何もせずに授業中眠っているだけということも多くなったでしょう。*1

単位が取りやすくなったから?

3つ目の理由として、これは推測でしかないのですが、ほぼ何も試験勉強をしてこなくても、だいたい単位が取れるようになったのかもしれません。

最近では、語学でも専門科目でも、ちゃんと授業に出席し、テストを受けたのに単位が取れないということはあまりないのではないかと思います。私も自分の科目では、よほどテストの点がひどいか、受講態度が悪い場合でないかぎり、不可は出さないようにしています。

いずれにせよ、講義をしている立場としては、講義ノートに値段がつけられ、安い高いが決められるというのは愉快なことではありません。

大学がクレームをつけて潰してしまえとまではいいませんが、試験問題を作る側としては、過去問を売りつけて、試験当日には全く違う問題をだしてやろうかと思ってしまうので、教員含めネットでサイトが公開されている状態というのは、商売をしにくいのではないでしょうか。

 

語学の授業とノート

私自身のことを振り返ると、ノートを写させてくれと頼まれたことが、学部時代にはときどきありました。文学部独文学専攻の場合、2、3年生になるとほとんどの授業はドイツ語テクストの購読になります。トーマス・マンニーチェの訳読をする授業は、一生懸命取り組んでいたので、私のノートには単語だけでなく、複雑な文の構造など(予備校で身につけた受験英語の手法が役立っていました)をたくさんメモしていました。

専門科目のテストは、授業で読んだ文章を使った文法問題や、独作文、和訳などだったので、ノートを使って、テクストの難しいところを復習することが必要でした。それで、友人たちは、互いのノートを見せ合って、分かりにくい文章を確認したり、単語の意味を調べたりしたものでした。

ついったーにも書きましたが、いくつかの大学で教えていると、やはり初級語学の授業でも、しっかり勉強するにはそれなりにノートにまとめる必要はあります。

 大学1年生だと、毎日の学習内容をノートにまとめて整理して理解するというプロセスを自力でできない学生もときどきいます。そのために、中間テストについての以前の記事で書いたように、手書きメモを持ち込んでいいテストを行ったりしています。

schlossbaerental.hatenablog.com

しかし、難関国立大学のように、入学時から自分の勉強スタイルが確立できている学生たちの場合には、板書をメモすることすら必要なかったり、授業時の配布資料もあっというまに打ち捨てられたりします。

左翼ビラだけでなく、私が配布したプリントの裏に作文の答えを書いて、そのまま授業終了時に置いていく学生もいっぱいいたので、京大ではプリントを配る授業はやめました。

 

やり方はいろいろ、試行錯誤して自分のスタイルを確立してほしい

今日は、某大学のノート屋さんの話題から、いろいろ講義ノートについて書いてきました。大切なことは、どのようにノートを手に入れようと、勉強するのは自分自身だし、それぞれ自分のやり方で試験を突破してほしいということです。ノート屋さんに頼るもよし、友達に相談したり、先生に聞くのもいいでしょう。(試験前に質問が増えることは私は大歓迎です)ノート作りも、紙や筆記具にこだわるのも含め、あれこれ工夫してみると楽しいのではないでしょうか。

*1:私の講義の場合、出席カードに課題の答えを書いて提出し、それが毎回ごとの点数となるようにしています。そのため、資料だけをもらって何もせず退席する学生はいません。

万年筆で書きやすいノートはどれだ?

3年くらい前からラミーのサファリ万年筆を愛用しています

鉛筆の書き味と、ボールペンと同じ定着性(消えないということ)を備えているのが万年筆だと気づいたので、ふだんから勉強しながらメモを取ったり、論文の構想を書き出したりするのには、万年筆を使っています。

万年筆というと、高価なものは天井知らずです。もともと字が下手なこともあり、たいして品質にはこだわらず、安くて使いやすいものを、ということでラミーのサファリを使っています。太さやインクを変えて、現在合計5本手元にあります。

新しい順にならべると

 

1)ペトロール EF ブルーのインク

2)ライムイエロー EF ターコイズのインク

3)フレンドシップペン(日独交流150周年記念カラー)F インクはブルー

4)クリア EF グリーンのインク

5)クリア EF ブルーのインク

の5本です。

どのように使い分けているのか、そしてなんで同じ太さのペンを何本も買ってしまっているのかはこれから書きます。

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5本のラミー・サファリと普段使っているノートです。

同じEFニブなのに個体差が大きい!

ドイツのメーカー、ラミーの万年筆は日本でも人気があります。ドイツだとほかにはペリカンが若者や子ども向けの製品を出しています。私が大学生の頃に現地で買ったのはペリカンでした。

ラミーのサファリを買い始めたのは、クリアタイプのペンを見たことがきっかけでした。中身が見えるし、ガラスのようできれいです。 

持っているペンで、手元のメモ帳に同じ文章を書いてみましたが、ペン先(ニブ)の太さによって文字の太さは当然異なるし、驚いたことに、同じサイズでもけっこう違いがあります。

もともとドイツの製品なので、身近なドイツ語をということで、手元にあった、カフカの『城』から、冒頭の一文を書き出してみました。

Es war spät abend als K. ankam. Kが到着したのは、夜おそくなってからだった。

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真ん中の黒いペン(フレンドシップペン)以外はみな同じEFサイズのペン先ですが、かなり太さが違うのがわかるでしょう。

細い順にならべると、

ネオンライム→クリア(青インク)→ペトロール→クリア(緑インク)→フレンドシップペンという順番です。

一番下のクリアで青インクのペンを初めに買って、気に入ったので別のインクを入れてもう一本使おうと思い、同じクリアでEFニブのペンを買いました。しかしこのグリーンのインクが入っているペンは、同じEFサイズなのに、ペン先の太さがずいぶん違っていました。

その後、日独交流150周年の記念ペンや、その年ごとの限定カラーが気に入って、2016年のネオンライム、2017年のペトロールブルーと、買い足していきました。

普段よく使うのは、クリアの2本と、ネオンライムです。

見ての通り、一番細いのがネオンライムなのですが、ちょっとペン先が硬すぎて疲れます。文字の書き味がいいのは、クリアと、最新のペトロールです。

 

 

 

インクは純正でいい

万年筆を使うなら、コンバータをくっつけて、びんに入ったインクを使うのがいい、と調べてわかったので、はじめのうちは、パイロットの色彩雫を使っていました。

 

 

発色が美しいのはいいのですが、月に1、2回、コンバータでインクを吸い込む作業をしないといけません。好きな人は、こういう手間を愛しく思うそうですが、毎回インクが指にくっつきます。万年筆のインクは、水性なのに、手につくとなかなか落ちません。インク補充のたびに、インクのついたティッシュが山のようになり、手にも青や黒の跡が残ってしまいます。これがいやで、昨年あたりからラミーのカートリッジを使うようになりました。

インクとペンの相性もあり、色彩雫よりラミー純正インクカートリッジの方が書き味が良くなった気がします。

 

紙との相性がむずかしい

上の写真でもわかるように、紙との相性があり、書きやすい紙、書きにくい紙があります。薄い紙やざらついた紙だと、インクがにじんだり、ペン先がひっかかったりします。

 

普段使っているノートに、それぞれのペンで書いて、比較してみます。

 

1)仕事用 アピカCDノート

 

アピカ CDノート CD15SN B5 空

アピカ CDノート CD15SN B5 空

 

 

安くて書きやすいノートです。鉛筆、ボールペン、万年筆何を使ってもとくに不自由ありません。しかし紙がつるつるしてて薄いせいか、若干インクが溜まりやすいあるいは出過ぎることがあるので、太字しかかけない万年筆だと、なかなかインクが乾かずページを汚す恐れがあります。

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数字の前の番号は、上で並べた順番です。①ペトロール、②ネオンライム、③フレンドシップペン、④クリア(緑)、⑤クリア(青)。 

この写真でも、Fニブの3番、太めなEFサイズの4番だと少し滲んでいるのがわかります。

2)日記、メモなど ライフノーブルノー

院生の頃から気に入って使い続けてきたノートです。しかし、やはりこれも万年筆だと少しインクが出すぎます。万年筆らしい濃淡がきれいに出るといえばいいのですが、小さい文字を書くと潰れてしまいます。

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ライフ ノート ノーブルノート 横罫 A5 N39

ライフ ノート ノーブルノート 横罫 A5 N39

 

 

3)LMUのレポートパッド

ミュンヘン大学の売店で買った、大学グッズのメモ帳もよく机の上において使っています。ボールペンや鉛筆で書くにはちょうどいいのですが、万年筆だといくらか滲んでしまうし、細いペンだとひっかかりを感じるので、あまり万年筆には向いていません。しかし、紙は薄いしきれいなので、授業ノートなどによく使っています。

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4)研究ノート ニーシモネのB5リングノートおよびA5ノートパッド

これもかなり前から愛用してきたノートです。ボールペン、鉛筆などでもきれいに書けるし、紙がつるつるしていて高級感があります。リングノートですが、スケッチブックのメーカーだけに、リング部分が非常にしっかりできていて、バッグにしまっていても他のものを傷つけることはありません。

→ドイツで売っている学習用のリングノートなどは、針金がほどけて一緒にしまっている教科書や本にひっかかることがよくありました。

ニーシモネシリーズは、万年筆で文字を書くにもちょうどいいです。

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 太字の③番、④番でもとくに滲むことがありません。細い②番でも手が疲れることはなく、ちょうどよく書けます。

 

マルマン ノート ニーモシネ 7mm罫 B5 N194A

マルマン ノート ニーモシネ 7mm罫 B5 N194A

 

 

 

5)メモ帳 ロディア

実はこれがラミーの万年筆には丁度いいということがわかってきました。

アピカCDノートの場合と比べて、あきらかに文字が細いことがわかります。つまり、インクが出すぎないので、文字が太くなったり、インクが溜まったりすることはありません。書いた通りに書けるのでストレスがありません。

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(よく考えたら、同じ言葉を書かなくとも文字の太さを比べることはできそうなので、本棚に並んでいたカフカ全集から適当にタイトルを写しました)

太字の③や④でも滲みなくきれいに書けます。

ロディアのメモ帳は、海外調査などに出かける際に持って行っていましたが、日頃の授業メモなどに使うのもいいかと思い、最近A5サイズのノートパッドを買いました。このノートパッドから数枚ちぎって、教科書などに挟んでおくと、授業中のメモや、授業内で出題する問題を書き留めておいたりするのに便利です。

→授業内で出す問題というのは、最近いくつかのクラスで授業終わりに課している小作文です。授業で扱った内容を組み合わせて、10分程度で書ける課題を作ります。事前に問題を決めておくのがベストなのですが、教科書の進み具合で微妙に内容を変更したりするので、授業中、学生が他の練習をしている時間などに、その日の課題を書いています。

  

 N16がちょうどA5くらいのサイズで使いやすいです。

 

 

 

どうやって博士論文の完成までたどりつくか?

学会に行ってきました

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先日、日本独文学会京都支部の研究発表会に出席してきました。

京都支部は、院生・専業非常勤時代に大変お世話になってきた会です。現在は阪神地区の大学に務めています(私たちの分野では、関西に京都支部阪神支部の二つがあります)が、気持ちとしては、京都支部を優先しています。

かつて通っていた大学院の先生方や後輩たちと話しながら、いくつか考えることがありました。

博士論文までたどり着けないことが多い

以前、どのようにしてアカデミック業界で生き抜いていくかという問題について書きました。

schlossbaerental.hatenablog.com

しかし、同じ研究科出身の後輩たちをみていると、博士になってからどうやって生き抜くかという以前に、どうやって修士論文のあとに、博士論文を書き上げ、博士号取得までたどり着くか、ということのほうが問題なんじゃないかと思いました。

修士論文はわりとだれでも書けるし、たいていの人は何年か余計にかかったとしても(私も4年かかってます)修士号はとれるようになっています。しかし、修士課程を終えても、博士課程に進めず、研究の継続を諦める人も多くいます。大学によっては試験による選抜があるそうです。私がいた京大人環の場合は、修士論文の評価が低いと、修士号は授与しても、博士への進学は認められない、ということがときどきありました。

また、運良く博士課程に進学しても、3年ないし6年の間になんらかの研究成果をあげ、単位取得退学後3年程度で、課程博士論文を完成させるためには、少なくとも2年に一本程度の論文投稿(あるいは学会発表)を行っていないといけません。

こういったいくつかのハードルが、ゆるやかな選抜として機能しているために、修士課程に進んだ同期生でも、博士号取得までたどり着けるのは、およそ半分以下となるわけです。

センスがない者や学力が伸びない者は、この場を自主的に去る他ない、という大学側からのメッセージなのかもしれません。

しかし、専任ポストが得られるかどうかは別として、研究をつづけるあるいは非常勤講師としてこの業界にとどまるのであれば、なんとか学位はとっておきたいものです。

以下、私の専門であるドイツ文学にかんして、どのように修士論文から博士論文完成までやっていけるかを考えてみました。

 

テーマ探しが何より重要

まずは研究テーマについてですが、よく考えるとこの段階で迷う人はあまりいないだろうと思います。しかし、自分の研究テーマに自信が持てないという人は少なくないでしょう。私自身いまでもそう思うことはあります。修士課程や博士課程に入り直すなら、もっと違うテーマを選ぶのに、と考えることもしばしばです。

研究テーマが一応決まっている人の場合でも、本当にそのテーマでいいのかと自問することは必要でしょう。

マイナーな分野をずっと調べてきた私としては、やはり研究しがいのある、人気作家や時代を扱うのはオススメであると思います。

しかしその中で、漠然と研究をしていたら、先行研究に目を通すだけで、博士課程3年は終わってしまうでしょう。できるかぎりミニマムなテーマを見つけて、そのなかで先行研究を読み、自分の論文を進めていくことが大切です。

カフカゲーテの研究、これはあまりに巨大すぎるので、そのなかにある小さなテーマを見つけましょう。

例をあげれば、ゲーテの『ヴェルター』における市民社会カフカ『城』における身振りの意味、フロイト『夢解釈』の成立と、先行する夢研究、トーマス・マントーニオ・クレーガー』における芸術の意味などなど。

こういったテーマであれば、修士論文や博士論文にしやすいでしょう。(先行研究が山ほどあるので、オリジナリティを出すのは難しいでしょうが)

修士論文の続きを書く

小さなテーマとしては、卒業論文修士論文ですでに書いているかもしれません。それならば、同じように、一つの作品や一つの視点から作家作品について分析するなど、小さなテーマを立てて、論文を続けて書いていくのがいいでしょう。

おそらくこの方法が多くの人にとって、博士課程に進んでから研究を続けていく上で確実なのではないかと思います。

 

他人の論文を読む

私が大学院生の頃には、文学部の独文研究室に遊びに行くと、テーブルの上に各大学の研究紀要が山積みにされていました。大きな学会から、マイナーな学会や地方大学の紀要まで、さまざまな論文集をパラパラめくっては、面白そうな論文をみつけて、いつもコピーして読んでいました。

多くの論文は、私の研究テーマにはまったく関係なくて、おそらくほとんど知識として役に立つことはなかったのですが、研究論文とはどう書くのか、どんなテーマが研究になるのかといったことをおおざっぱに思い描くことはできるようになったと思います。

いまでは、多くの紀要や院生論集が電子化されたり、大学図書館などが受け入れ拒否をしていたりして、昔のように研究室にたくさん届くことはないかもしれません。

幸いciniiなどでさまざまなジャーナルを閲覧することができるので、キーワード検索などでひっかかった論文を集め、少しずつ読んでみるというのもいいと思います。

 

毎日何か書く、日記のように書く

これはけっこう簡単なようで難しいことかもしれません。

しかし漠然と文献を読んだり、あれこれ考えるだけでは、さて論文を書くという段になって、何から手をつけたらいいのかわからなくなります。

カードや手帳、付箋などさまざまな方法がありますが、インプットしたこと、文献から得たこと、文献探しの方針といったことでもいいので、毎日何かしらやったことを書いておくのは大変有効です。

できれば、Wordやpagesをつかって、ファイルの形にしておくと、あとで編集して論文に取り込むことが容易です。

この方法については、かつて修士論文がなかなか書き始められなくて苦労していたころに実践しました。

schlossbaerental.hatenablog.com

こういうことは、今後博士号取得後や教員になってからも当然必要です。

博士論文という大きな目標がなくなり、毎日仕事に追われるようになると、文献を読んだりまとめたりといった活動もいいかげんになるし、何より一つの問題について、じっくり考えることが少なくなります。

なるべく毎日ノートやメモ帳に、思いついたことや気になったことを書き留めて、問いへの集中力が切れないようにと気をつけています。

 

背伸びをせずに、今の自分にできることをする

これも今の自分にとっても重要なことです。

私たちはとかく、自分のできないことに目を向けず、できるはず、できたらいいなということばかり考えたがります。しかし、まずは足元を確かなものにしておく必要があります。できないことをやろうとしてもがいても、いいことはありません。

背伸びをしないとはしかし、簡単なことや、誰でも容易に結論が予想できるようなことだけやってればいいというわけではありません。

自分の実力や現状を正確に把握し、今の段階ではどこまでできるかを、残り時間とともに冷静に考えるべきということです。

たとえば、学会発表や論文の締め切り前には、当初予定していたことよりも、内容を削ったり、対象とする問題の範囲を狭めたりすることがあります。これは自分にはできないことを目標にしてしまったためにおこることです。

最低限先ずはこれをしよう、うまくいったらこっちもやってみよう、という具合に、あまり欲張らないで、できることからこなしていくのがいいでしょう。

 

何のために研究をするのかを考える

この点は、修士課程のころに、講座の先生方(指導教員のM籏先生だけでなく、I田H士先生など)にいつも言われていたことでした。

研究者が研究をするのは何のためでしょうか。自分の為、社会のため、いろいろな理由が考えられるでしょうが、何かしら自分の取り組んでいる研究が何のために必要なのかを考えておくことは必要です。

学振であれ科研費であれ、研究者はつねに、その研究をする理由やその研究が何を目指すものなのかを問われることになるからです。

こんな具合に世のため人のために役立ちます、という必要はありません。まあ、役立てようと思えば役立てられるのでしょうが、人文科学にとって、世のため人のために役に立つという話はまた別のところで考えるべきです。しかし、自分が何を目指して修士論文・博士論文を書こうとするのかは、ある程度明確にしておくといいでしょう。よくないのは、自分自身でもあいまいだし、人にもうまく説明できないという状態で研究を続けることではないでしょうか。

 

基本に立ち返る

論文とはなんでしょうか?研究とはなんでしょうか?

何のために、というのを前の項目で考えたのと同様、基本に立ち返って、論文とは何を書いたら論文になるのかということをもう一度考え直してみましょう。

これでいいのだろうかと悩んだり、論文を書き始めても手が止まることがあれば、もう一度、論文として何が問題なのか、何をするために論文を書いているのかをよく考えましょう。そのうえで、軌道修正をしましょう。

 

嫉妬は成長のチャンス

院生になると、横並びだった(ように見えた)学部までと異なり、恵まれた人とそうでない人の差が徐々に開いてきて、苦しい思いをすることが多くなります。

博士課程に上がれる人、上がれない人、学振が取れる人、取れない人、ポストが得られる人、得られない人と、どの段階においても同じように選別は行われるし、そこで選ばれる人と選ばれない人は存在します。

同期生や後輩に、同じような分野を研究していて、自分よりできる人がいたら、苦しい思いをすることでしょう。私ももうすっかり忘れていたけど、院生時代の仲間というのは、友達であると同時に、ライバルだったので、しょっちゅうケンカをしたり、気まずくなったりしたものでした。

大学院を出た今の自分としては、やはり嫉妬心を克服することがこの業界で生きていくために必要だと思いますが、その反面、嫉妬心からくるエネルギーも必要だろうと思います。羨ましいなあ、あんな研究がしてみたいなあ、自分だってもっとできるのに、と悔しい思いをすることは、きっと次の成長につながるチャンスです。

 

研究指導を受けるのは難しい、そして自分の指導教員以外にも教えてくれる人はたくさんいる

指導教員と良好な師弟関係が作れる人というのはそもそも物凄く優秀なのではないかと思います。実は、どんなにいい先生に教えてもらうにせよ、指導を受けること自体がけっこう難しいことなんだといまでは思っています。

つまり、それなりに自分の核となる部分、あるいは自分の研究への自信がないと、指導教授に言われたことをそのまま聞くだけになってしまい、いくら先生の言うことを聞いたところで、自分のオリジナリティのない研究しかできなくなってしまうからです。そういう研究者では、修士論文をまとめることはできても、博士論文までは到達できないでしょう。

私の先生は、非常に厳しい方だったので、私自身は距離を取りつつ時々指導を受けるという形で博士論文を書き上げました。下手なことを言うと怒られる、あるいはこちらの怠慢を厳しく指摘される、それが怖くてまともに指導を受けられなかったのでした。この逃げ腰の態度のために、なんとか心が折れずに博士論文までたどりつけましたが、やはり私の方法は怠慢だったとしか言えません。

同じ道籏泰三門下の若い後輩たちが素晴らしい仕事をしているのを見ると、もっとちゃんと指導を受けておくべきだったと後悔しています。

後輩の小林哲也さんや藤井俊之さんは評価の高い仕事を残しています。

 

啓蒙と神話: アドルノにおける人間性の形象

啓蒙と神話: アドルノにおける人間性の形象

 

 私自身は指導教員から指導を受けることはあまりなかったのですが、そのかわり、方々でいろいろな先生から教えを受けてきました。修士課程の頃から通っていたドイツ現代文学ゼミナールには、東京の有名な先生方も参加されていたので、ときどき情報交換をするだけでも勉強になりました。修士課程そして京都精華大でお世話になっていた池田浩士さんには、勉強会での議論から多くの刺激を受けました。

ほかにも学会や研究会、読書会等様々な場所に、研究仲間や先生がいます。指導教員以外の先生に意見をもらうということは非常に有効です。

私自身は経験がないのでうまくアドバイスができませんが、指導教員からハラスメントをうけたりする人もいるでしょう。指導教員の言うことが全てだと思わないで、別の場所で研究を続けたり、あるいは別の先生の指導を受けながら学位を取るということも十分可能です。視野を広くもつためにも、自分のいる研究室や講座のそとに先生を探しにいくことはたいへん有効です。 

 

まとめ

この記事を書き始めたのは、じつは昨年の年末ごろだったのですが、あれこれ書きたいことが増えて、すっかり長くなってしまいました。

私自身はいまは、研究指導をする立場でもないし、学会くらいでしか、研究科の後輩と会う機会もありません。そのため、実際の大学院生にちゃんとした指導やアドバイスができる立場ではないのですが、私自身の経験から考えていたことをまとめてみました。

修士論文でも博士論文でも、少しずつ取り組んでいけば、たいていの場合は完成できます。気持ちを切らさないように、書き続けていきましょう。